小児性愛に関する現代の忌避感には、どうも男女差や時代差があるように思える。
ロリコン(大人の男が女児に性愛を嗜好する)は、成人の男女から見れば成人の男女双方ともに「きっしょい」になる。
しかし、これが男児への小児性愛(大人の男が男児に性愛を嗜好する)になると反応が異なってくる。
成人男側の感想は「きっしょい」のままなのだが、女性側感想は「あーまー男児でしょ? 別に良くね? 」程度で済ませているような感じがする。
他にも過去の偉人がロリコンである場合も糾弾するかどうかが異なる。
男女とともに「まあそう言う時代だったんだよね」と言う感じになっていて、「家康がロリコンできっしょ」とか言う忌避感を言う人間を見たことがない。
これを整理する。
上記であるとして、と言う作業仮説を立てた上で、それがどうしてそうなされるのか、と言うのを書いていく。
1.時代性に呑まれる
時代が違えばそれを糾弾しない。前田利家も秀吉も家康も現代基準で言えばロリコンだが、時代が違えば社会的判断も違うと言うことでそれを許容する。もう少し言えば、大正時代の女学校(14歳〜17歳)では在学中に結婚するのが普通だった。ちなみに相手が決まらずそのまま卒業すると、(相手が定まらなかったくらいの醜い顔と言う意味で)「卒業面(そつぎょうづら)」と影で嫌味を言われた模様。ただこういう時代風習も「きっしょ」とは言わない。
前田利家も秀吉も家康も、本来はそれを現代的感覚で忌避すべきだがそうしない。
これは時代性に呑まれているからだろう。
2.特に成人女性から男児に対する認識において、性被害の認識を受けにくい。
例えばロリコンにおいては、成人女性が想像するに、自分が女児であったことの経験を踏まえて、そうした性的嗜好を持っている成人男性がきっしょいと言う感想を持つだろうが、これが男児にはその想像が振り向けられにくい。
成人男性が女児を性的嗜好の対象としている場合、成人女性は忌避感を持つだろう。
しかしこれが男児が対象となると、「え? 男児? 別に男に襲われても良くね? 」と言う思考につながる。これは世界基準で見て異常であるが、しかしこれまでの日本社会はこれを是認してきた。
3.権威と時代と、周辺の意識に呑まれている(自分で考えない)を貢がれて性的倒錯をしていたとする。
すると、これまで声を荒げていたであろう成人は、「まあそういうことだから」と何もその体制に疑問を持たず、その体制で悪目立ちをするようなことはせず、その状況を受け入れる。
その最たる例が正しさも疑問を持つことがなく、持たれることもない、日本の芸能界における帝国であったジャニーズ事務所だっただろう。
イデアとは、人々が時代や場所によらず、常に同じものを認識し続けるという絶対不変の基準のことだ。
頭の中で正三角形を描いて下さい、と言えば、時代や場所や人種を問わず、インド人でも日本人でもブラジル人でもヨーロッパ人でもアフリカ人でも、ローマ時代のローマ人でも同じものを想像する。
円周率を計算して下さいと言えば、必ずいつでもどこでも一定の数字が現れる。
これはイデアだ。
一方、状況によって変動する要素と言うものはイデアではない。
例えばフランス料理のソースはメニューが決まっていれば通年で同じものが出るのでイデアに近いが、季節によって出る料理が異なる日本食はイデアから遠い。
基本的なハードな判断の営為に置いて、我々はこうした、「時と場所と状況によって変動する基準」ではなく「長い間保たれる絶対正義の基準」、即ちイデアを元に判断をしていくべきだが、人間の頭はそう賢くできていない。時と場所と状況によって揺れる判断基軸を絶対基準のものとして判断材料に使用する。
即ちこれまでの日本であれば「女児は守られるべきだが、男児は別にどうでもいい」を絶対基準のものとして判断材料に採用してきた。
小児性愛がきしょいかきしょくないかにおいては、本来は全部きしょいとすべきイデアであったが、当の日本人(特に成人女性が認識する男児の性被害)においてはそれがなく、現在のジャニーズ事務所への糾弾においてやっとそれが変革を迎えつつある。
こういう、時と場合によって、それまで絶対的に正しいとしてきた基準は時代や立場によってぐらついている。こうした判断は採用すべきではないだろう。
もう少し先のことを考えるともしかしたら400年後くらいに「まあロリコンは仕方ないよね」と言う論説と言う大転換を迎えているかもしれないが、現代では通用しない。
「小児性愛を受け入れるべき」と言うドイツの女子大学生(ミリヤム・ハイネ)のTED発表はTED運営が即刻削除した。
小児性愛は社会で受け入れられない。年頃の娘を持っている親なら尚更だろう。
(男児であれば放置される可能性は大ですけれども! )
私はこういう、「何が異常で何が異常でないかを自分自身で考えることができず、他者の思考に染まっていって自分で考えずそれで良しとする」と言う人たちを、ある種軽度の知的障害と呼んでいます。
そしてそれで社会と世界は成り立っている。
考えてみれば、あのBBC経由の告発がなければ、日本の成人女性の大半は、今でも「女児は守られるべきだが、男児は別にどうでもいい」と思っていたことなんだよね。それくらいにいい加減な判断基準なのだ。
もう一つ思い出したが、タラバガニは人間基準で言うとロリコンなのだが、なんで誰もタラバガニをきっしょとか糾弾しないの?
とここまで言ってあれだが、多分我々はきっしょとかきしょくないとかそういう判断を古今東西絶対に通じる判断だと思っているけど、そうじゃない未来とかが来るかもしれないというのを考える必要がある。
例えば、「20代で結婚するの早くない? 普通は30代になってからよねー」(こういうセリフで20代での恋愛観は小児性愛に次ぐ第二の忌避感情として形成されるなど)と言う意見が出てくる未来が来る可能性だってあるのだ。
ちなみに私自身の体験として書くが、私の周りで20歳で結婚した女性がいて、さらにその周辺の女性から「20歳で結婚とかちょっと早くなーい? 」とある種の牽制球が効いた言葉を実際に聞いたことがある。私はその時にちょっと嫌な気分になった。その子が別に結婚するならその子の自由なんだから何歳で結婚したっていいじゃないか、と。あと批判をしたいなら直で批判しろやとも思った。なんでそんなクネクネした言い方すんねんと(これこそきしょい)。
大正時代の人間が聞いたら、何を言っているのか分からない、あるいは分かった時点で卒倒モノのセリフだろう。時代によってこの忌避感は変遷するのである。そしてそうした人たちは、それが批判不要の常識として使用するのだ。逆に過去の大正人が現代に洗われてああだこうだと言った時に、これもまた変人扱いの代物になるだろう。
さて、これまで常識としてきた正しいことと言うのは本当に正しいのか?
そしてそれは今後も採用して良いものなのか?
なぜジャニーズが許されてきたのか? それがなぜ今糾弾されているのか? (糾弾はその時にされて然るべきだろう)
上からの抑圧は是認して然るべきものなのか? 日本の労働文化は正しいものなのか?
それで外国人が度々逃げ出しているのはグローバルスタンダードなのか?
それらを考えていく必要がある。
ロリコン(大人の男が女児に性愛を嗜好する)は、成人の男女から見れば成人の男女双方ともに「きっしょい」になる。
しかし、これが男児への小児性愛(大人の男が男児に性愛を嗜好する)になると反応が異なってくる。
成人男側の感想は「きっしょい」のままなのだが、女性側感想は「あーまー男児でしょ? 別に良くね? 」程度で済ませているような感じがする。
他にも過去の偉人がロリコンである場合も糾弾するかどうかが異なる。
男女とともに「まあそう言う時代だったんだよね」と言う感じになっていて、「家康がロリコンできっしょ」とか言う忌避感を言う人間を見たことがない。
これを整理する。
上記であるとして、と言う作業仮説を立てた上で、それがどうしてそうなされるのか、と言うのを書いていく。
1.時代性に呑まれる
時代が違えばそれを糾弾しない。前田利家も秀吉も家康も現代基準で言えばロリコンだが、時代が違えば社会的判断も違うと言うことでそれを許容する。もう少し言えば、大正時代の女学校(14歳〜17歳)では在学中に結婚するのが普通だった。ちなみに相手が決まらずそのまま卒業すると、(相手が定まらなかったくらいの醜い顔と言う意味で)「卒業面(そつぎょうづら)」と影で嫌味を言われた模様。ただこういう時代風習も「きっしょ」とは言わない。
前田利家も秀吉も家康も、本来はそれを現代的感覚で忌避すべきだがそうしない。
これは時代性に呑まれているからだろう。
2.特に成人女性から男児に対する認識において、性被害の認識を受けにくい。
例えばロリコンにおいては、成人女性が想像するに、自分が女児であったことの経験を踏まえて、そうした性的嗜好を持っている成人男性がきっしょいと言う感想を持つだろうが、これが男児にはその想像が振り向けられにくい。
成人男性が女児を性的嗜好の対象としている場合、成人女性は忌避感を持つだろう。
しかしこれが男児が対象となると、「え? 男児? 別に男に襲われても良くね? 」と言う思考につながる。これは世界基準で見て異常であるが、しかしこれまでの日本社会はこれを是認してきた。
3.権威と時代と、周辺の意識に呑まれている(自分で考えない)を貢がれて性的倒錯をしていたとする。
すると、これまで声を荒げていたであろう成人は、「まあそういうことだから」と何もその体制に疑問を持たず、その体制で悪目立ちをするようなことはせず、その状況を受け入れる。
その最たる例が正しさも疑問を持つことがなく、持たれることもない、日本の芸能界における帝国であったジャニーズ事務所だっただろう。
イデアとは、人々が時代や場所によらず、常に同じものを認識し続けるという絶対不変の基準のことだ。
頭の中で正三角形を描いて下さい、と言えば、時代や場所や人種を問わず、インド人でも日本人でもブラジル人でもヨーロッパ人でもアフリカ人でも、ローマ時代のローマ人でも同じものを想像する。
円周率を計算して下さいと言えば、必ずいつでもどこでも一定の数字が現れる。
これはイデアだ。
一方、状況によって変動する要素と言うものはイデアではない。
例えばフランス料理のソースはメニューが決まっていれば通年で同じものが出るのでイデアに近いが、季節によって出る料理が異なる日本食はイデアから遠い。
基本的なハードな判断の営為に置いて、我々はこうした、「時と場所と状況によって変動する基準」ではなく「長い間保たれる絶対正義の基準」、即ちイデアを元に判断をしていくべきだが、人間の頭はそう賢くできていない。時と場所と状況によって揺れる判断基軸を絶対基準のものとして判断材料に使用する。
即ちこれまでの日本であれば「女児は守られるべきだが、男児は別にどうでもいい」を絶対基準のものとして判断材料に採用してきた。
小児性愛がきしょいかきしょくないかにおいては、本来は全部きしょいとすべきイデアであったが、当の日本人(特に成人女性が認識する男児の性被害)においてはそれがなく、現在のジャニーズ事務所への糾弾においてやっとそれが変革を迎えつつある。
こういう、時と場合によって、それまで絶対的に正しいとしてきた基準は時代や立場によってぐらついている。こうした判断は採用すべきではないだろう。
もう少し先のことを考えるともしかしたら400年後くらいに「まあロリコンは仕方ないよね」と言う論説と言う大転換を迎えているかもしれないが、現代では通用しない。
「小児性愛を受け入れるべき」と言うドイツの女子大学生(ミリヤム・ハイネ)のTED発表はTED運営が即刻削除した。
小児性愛は社会で受け入れられない。年頃の娘を持っている親なら尚更だろう。
(男児であれば放置される可能性は大ですけれども! )
私はこういう、「何が異常で何が異常でないかを自分自身で考えることができず、他者の思考に染まっていって自分で考えずそれで良しとする」と言う人たちを、ある種軽度の知的障害と呼んでいます。
そしてそれで社会と世界は成り立っている。
考えてみれば、あのBBC経由の告発がなければ、日本の成人女性の大半は、今でも「女児は守られるべきだが、男児は別にどうでもいい」と思っていたことなんだよね。それくらいにいい加減な判断基準なのだ。
もう一つ思い出したが、タラバガニは人間基準で言うとロリコンなのだが、なんで誰もタラバガニをきっしょとか糾弾しないの?
とここまで言ってあれだが、多分我々はきっしょとかきしょくないとかそういう判断を古今東西絶対に通じる判断だと思っているけど、そうじゃない未来とかが来るかもしれないというのを考える必要がある。
例えば、「20代で結婚するの早くない? 普通は30代になってからよねー」(こういうセリフで20代での恋愛観は小児性愛に次ぐ第二の忌避感情として形成されるなど)と言う意見が出てくる未来が来る可能性だってあるのだ。
ちなみに私自身の体験として書くが、私の周りで20歳で結婚した女性がいて、さらにその周辺の女性から「20歳で結婚とかちょっと早くなーい? 」とある種の牽制球が効いた言葉を実際に聞いたことがある。私はその時にちょっと嫌な気分になった。その子が別に結婚するならその子の自由なんだから何歳で結婚したっていいじゃないか、と。あと批判をしたいなら直で批判しろやとも思った。なんでそんなクネクネした言い方すんねんと(これこそきしょい)。
大正時代の人間が聞いたら、何を言っているのか分からない、あるいは分かった時点で卒倒モノのセリフだろう。時代によってこの忌避感は変遷するのである。そしてそうした人たちは、それが批判不要の常識として使用するのだ。逆に過去の大正人が現代に洗われてああだこうだと言った時に、これもまた変人扱いの代物になるだろう。
さて、これまで常識としてきた正しいことと言うのは本当に正しいのか?
そしてそれは今後も採用して良いものなのか?
なぜジャニーズが許されてきたのか? それがなぜ今糾弾されているのか? (糾弾はその時にされて然るべきだろう)
上からの抑圧は是認して然るべきものなのか? 日本の労働文化は正しいものなのか?
それで外国人が度々逃げ出しているのはグローバルスタンダードなのか?
それらを考えていく必要がある。
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