とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

労働を宗教に組み込む

2024-05-06 11:42:32 | 哲学・社会
何やら危ないことを言っているのではないか、と言う懸念もあるだろうが、そうではない。

これは現場職制の個としての人間において、人間性とその健全性を保ちつつも、集合として機能するには、個にも集合にも、これまでの歴史を改良した労働上における精神史が必要になるということである。

これを始める。

日本の労働環境は異常だ。諸外国人の目から見れば、強制労働のように写るかもしれない。それは正解である。
本来で言えば個のために集合があるべきはずで、具体的には個人が休暇を任意の時期で取れるようにするのは個の権利を堅持する上で重要なことだが、日本社会では集合を先に重んずるため、個人が任意のタイミングで休暇を取ることは許されない。これだけならばまだしも、この考えが延長して、残業の強制性のある集合認識や、それを守らない人間の排他的挙動や考慮の保持をしたりする。
これは一種の宗教と言っても良いだろう。本来は人間の内面より内発的に発せられる健全な認識が、社会における権利の保全に劣後する。
無論、それでなければ社会が回らぬと言う部分があることは私は承知するものの、一方において、だからと言ってそれが全て許され、許容されるかというとそうではない。両者はそれぞれに都合をつけ、健全なラインでの調整を図るべきなのである。

この意味において、新たな思考の補助線としての労働を我々の総合的認識、即ち宗教観に組み込んでいく必要がある。

個としての健全性、その発露、社会集合に圧される前での構造的不備の修正などである。
具体的に言えば、日本の過労死を問題にするならば、過労に到るまでの仕事量、つまり個に割り振る労働設計が上手く行っていないと言う、組織構造、組織運営上の不備があるので、これを適切な量に低下させる必要がある、と言うことである。

また、戦争などの生き死にに関する組織運営であるならばまだしも、なぜ企業の経理システムの運用で、死に到るまでの労働をせねばならないのか? あるいはそれに比した叱責が飛び交うような職場とせねばならないのか? それは人間社会と言う一つの巨大生物を運営していくに当たって、全く以て健全ではない、と言うことである。

<追記>
では、今後大事業を運営しなければいけなくなった時、どうする? 
どのように人員を配置し、スケジュールし、どのような作業強度、教育、余暇、報酬、モチベーションを与える? 


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