とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

タヌキをひたすらモフっている動画が60万再生

2020-02-24 23:29:59 | IT・ビッグデータ・新技術
タヌキをひたすらモフモフしているだけの動画 - YouTube
698,807 回視聴 2020/02/07
https://www.youtube.com/watch?v=c5e8pOO8OfI

これで1再生単価0.05円としても3万円か・・・
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仕事終了

2020-02-24 22:36:54 | 会社での出来事
ちな給料出ません。
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オフの時は完全にオフにしたいのに・・・

2020-02-24 21:33:25 | 会社での出来事
休日で家にはいるものの、仕事をしなければいけない時もある。
先程その通知が入り、嫌な気分になった。

オフの時は完全にオフにしたいのに・・・
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自立する子供、自発的な子供、利発な子供

2020-02-24 21:33:05 | 哲学・学術・教育
誰しもが親になって子供を持てば、自分の子供が自立し、自発的な子供になって欲しいと願っている。
利発も加われば言うことはないが、そこまで行くと理想論になる。

ただ、そのように願ってはいても、そう子供はその想定通りに動いてくれない。
気合による焚き付けをしても、プレゼントで釣っても、他罰的にしても、それらによって大人になった時、彼らは立派な大人になるだろうか? 目標をきちんと立て、計画を立て、戦略を立てて、地道にコツコツと勉強と努力をする、そういうことを誰からも言われずにそれらを履行するような子供になるのだろうか。

現代社会における私からの答えはノーである。

本来あるべき人間社会への想定へ目指すに辺り、日本社会に批判を加えなければいけない。
日本に教育があるとは言っても、現在あるのは産業型教育である。

わざわざ「産業型」と名付けたのはなぜか。
我々は教育を受けたり学習をしたりする時に、紙とペンを基本にしていた。
しかし本来の教育とは、単に紙とペンを使っての記憶の出し入れをするだけのものではない。

人間はどのようなところを目指すべきで、人間はどのように計画を立て、戦略を立て、具体的目標を立てて、周囲の誘惑に惑わされないように訓練し、誰からも見られないところで称賛も受けずに自分の立てた理念の目標に向け地道にコツコツと努力をする、と言う、どのように生きていくべきかという人生における姿勢、それを履行できるだけの訓練(習慣化するには外国語会話と同じで、知識の習得だけではなく、エクササイズやトレーニングと同じく体に基本パターンを覚えさせる必要がある)、達成と報酬と、そこから更なる正のスパイラルによる努力を身に着けなければならない。
あるいは常に読書をし(英語が必須だが、それ以前に母語となる日本語での多量の読書が大前提レベルの必須)、仲間と共にどう頑張っていくのか、あるいはリーダーになったらどう引っ張っていかなければならないのか、と言う点など、実態の社会運用に必要なものを、知識だけではなく、習慣化した形で、自分の行動パターンとして身に付けておかねばならない。

これらが無ければ、自由放任の大学や大学校、あるいは高専において(高専は頭脳的にはかなり優秀だが、学習習慣の束縛が無くなるので脱落率が高いと聞いた)、そこでドロップアウトし、せっかくの本人たちの高い頭脳が無駄になってしまう可能性が高い。

嘆かわしいのが、官僚になった途端に女遊びが激しくなったと言うような例、あるいは女性では英語を覚えたら海外に行ってとにかく男に口説かれてホイホイのってしまう例(尚、日本人女性はチョロいとどの国からも思われてしまっている模様)などなど・・・。英語がペラペラにしゃべれる高学歴になったのに、そういうことをするためにそうなった訳ではないでしょうと。本人の高次たる努力と、それについてまわる人生の凋落の結果が、あまりにも乖離しすぎていて、完全に他人のことではあるのだが、しかし何やら悲しくなってくる。
特に社会論においては、「どのような社会を構築すべき」と言う意味において、個人の自由は保証され、その保証以上に「他人にかまうほどにあなたの拘束力は存在しない」と言う束縛があるために様々な言説が言いづらい。

ただ、そのような完全個人主義の社会が訪れた場合、この社会では人々が集合的により生きにくくなってしまうのではないかと私は予想する。
学校給食は配膳されず、救急車、消防車、あるいは警察などによる治安行為、外圧による交渉や防衛、それらは税収を収めた後に国家レベルで行った方が、個人でやるよりも効率的である。
この論は福沢諭吉が著述していたものと私は記憶している。
出典がすぐさま明示できないが、「学問のすすめ」か、もしくは「民間経済録」だったかに記載があった。
警らや防災・防火、あるいは所々の問題は、持ち寄りで行った方が効率的で結果的に安く済むとの主張である。

別の話しをする。
水泳教育は、今、日本のおおよその学校でやっていることだが、1950年頃までの日本ではその必要性が無いと判断され、水泳教育そのものを行っていなかった。
水泳教育の普及が開始されたのは、1955年に起きた紫雲丸事故、橋北中学校水難事件以降で、「人が泳げないとまずい」と言う社会課題が認識されたからである。
無論これは、日本内政における箱物行政をする際の口実になったフシもあるだろうが、結果、日本人の大多数は、全員が全員上手く泳げはしないものの、浮いて呼吸をすることぐらいはできるようになった(事実水泳教育前の紫雲丸事故、橋北中学校水難事件では多数の生徒が犠牲になった)。

さて、日本に足りないもの、以前、ここの記事では社会課題を解決する方法は2つあり、それは技術と税制であると書いた。
そしてこれにもうひとつ加えなければならない。それは人的資質の修練である。

英仏のクレシーの戦い(1346年)では、弓対弓の戦いでもあった。
英:ロングボウ(練度が高くないと扱えない。訓練かなり必須。クロスボウより威力は劣るが射程は長い。クロスボウに比べて段違いに速射性がある(6〜10発/分))
仏:クロスボウ(連射ができない(1or2発/分)が破壊力抜群。練度が低くてもまあ使える。売値は高く手があまり出ない。)
イングランド軍12000(騎士2500)、フランス軍30000(騎士・重装騎兵7500)であり、戦力差が2.5倍である。イングランドは超のつく劣勢であった。

この戦いはどうなったかと言うと、イングランドの勝利で終わった。
勝因はいくつかある。根性が単にあったからではない。それだけではなく事象背景を説明する理由が存在する。
布陣の仕方が良かったのが第一であるが、側面で注目すべきは弓の取扱である。
扱いにくく威力も比較的に弱いが、射程が長く速射性のあるロングボウで、その逆のクロスボウを打ち破ったのである。

ではフランスもロングボウを選択すれば良かったのではないかという話しだが、それはちょっと違う。
まず扱いが難しい。金もあるし、威力のあるクロスボウがあるなら高くても買ってもいいじゃないかということである。

一方、イングランドは貧乏でクロスボウを買う余裕がなかった。よってロングボウになる。

イングランド兵はもうそれはめちゃくちゃにトレーニングしまくった。
と言うか、イギリスの為政がそういう社会の認識になった。
懸賞金を出してコンテストなどをしたりして社会的に奨励した(この部分ソース出てこない)。
両腕の長さが違ったり、弦を引く指が曲がったまままっすぐ戻らなかったりした者もいた。

すなわち長期機関の人的資質の修練と教育によって国家を守ったことになる。
これはイギリスの学校給食事業制度の開始でも同じように人的資源の構築を行ったことになる。
(給食開始により、児童体重の改善が見られた)。
こちらは別記事で書いたと思うので割愛する。

話しを戻そう。
日本の社会はどうすべきか? そう、子供への人的資質としての修養教育を行うべきである。
知識の出し入れを推奨することは勿論ではあるが、どのように生きてどのように社会を構成すべきなのかを教えるべきである。それが今の日本に足りない。特に不況期にあっても子供を作って生き抜いていくことが、その地域社会の維持に必要なのである。

人間には3つの死がある。一つは個人の死。葬式などをするのはこの形である。
2つ目は系列の死である。ハワイ王家の断絶がこれに当たる。
3つ目は種族の死である。メガテリウムやステラーカイギュウ、リョコウバト、ニホンアシカなどがこれに当たる。
これを裏返せば3つの生と言うものが人間には存在し、そしてそれらを社会によって形成し、あるいは社会の中で担保しなければならない。
ジャレド・ダイヤモンドの持続可能な社会を目指すのであれば、ここを目指さなければならない。
3つ目はともかくとして、守らねばならないのが2つ目のもので、人口の低下はその地域社会の緩やかな死を現す。そしてそれらは防がなければならないのではないだろうか。

そうした状態を保つのに、最終的に個と言うものの修養が必要となると私は考える。

大前研一さんの言葉がうろ覚えで蘇る。
「これからの日本は、クォリティ国家とクォンティティ国家のどちらを選ぶか」
BRICsが経済国家として興隆すると言う以前の観測に加えて、ネクストイレブンが台頭すると言う国家観測があった。
これは人口の急上昇によって経済動態が著しく向上するだろうと見込まれる地域や国家のことである。

それの当たり外れは別として、確かに人口が増えるので経済規模が大きくなるというクォンティティ(物量)国家になる、と言う意味であり、逆に全体の経済規模は小規模であっても、一人あたりのGDPや年収が高いのがクォリティ(質)国家となる。

日本は今、そのどちらでもない中途半端な位置にあるとも言えよう。
大前研一さんは、日本はクォリティ国家を目指せ、と言う。

現在は米中ともにクォンティティを維持しつつも、クォリティを確保すると言う方向に入りつつある。
ニューヨーク大学スターン経営大学院教授のスコット・ギャロウェイはアメリカのGAFAの対抗馬は中国のBATであると主張する。

日本ではその波に乗れていない。だがポテンシャルは完全にゼロと言うわけではないというのは、多くの人が認めるところではないだろうか。
今日本に必要なのは、多大な金銭の利得を事業スタートと経営によって為さしめうると言う気概を持った人材の育成である。それには社会習慣・勉強習慣と言う、勉強たるエクササイズ・トレーニングの習慣化が根底的に必要だ。

古代での教育は何が必要であったかと考えるに、ギリシャ神話のケンタウロスが何を修養していたのかが参考になる。
蛮族のケンタウロス族の中でも例外的存在であるケイローンは、音楽、医術、予言、狩猟を学んでいた賢人であった。当時はそれらが社会に必要とされていて、そして修養科目として優先されていたのだろう。

その後、自由七科に代表されるように、文法、修辞、論理、算術、幾何、天文、音楽に変遷する。
今でもマサチューセッツ工科大学の数学の教室にはピアノが置いてある。
音楽的発想が数学的発想のインスピレーションの根源になるという理由からである。

これが国語、数学、理科、社会に変遷したのは産業時代の需要であると共に、独立した人間が確固として判断できるような教育を定めるように収斂した結実である。
英語がここに加わるのは、英語ができなければ単純なケンカに有無を言う機会もなく負けるからである。
(共通語の習得は古代からの必須事項であり、ローマ時代はギリシャ語、江戸時代は漢詩であった)。

これらに加え、時代の要請に伴い、各種の人的資質の開発が社会で用意され、推奨された。
かつての弓術、あるいは水泳・・・

今あるべき修養科目は、事業経営と資本、搾取と労働、統計、コンピュータプログラミング(エクセル程度で良い)が必要になると私は考える。
搾取と労働は、経営者側のみならず、労働者側も必須で覚えなければならない。
日月私照無しと言った日本の美徳は、今の新自由主義社会における格差拡大を是認する思想の台頭によりほぼ消滅している。今は、暗黙的に期待される美徳よりも、契約と社会の冷酷を前提に話しを進めなければならない世の中になった。
この辺りを何も教えず、滅私奉公と称して蟹工船の方向へ労働させる過酷な奴隷労働を黙認しているのが日本の日本たる追求すべき欺瞞である。
このような倫理的罪を犯しながらも追求の手を逃れる彼らは、社会的に弾劾されるか、少なくともその欺瞞性を認識させられるべき存在だ。

その欺瞞性の放置、あるいは記憶の出し入れと言う以外に「人はどう社会を構成すべきか、どう生きていくか」と言う教育の修養的欠落を放置せしめている。
その欠落がブラック企業を生み、高学歴の人格的放蕩と言う恥辱を生んでいる。

そうした生き様ではなく、高学歴であるならば、人間としての生き方もそれなりに高く持つべきではなかろうか。
労働者も、流されるままに働くのではなく、社会の構造を基本的な部分だけでも(特に搾取の部分)把握すべきではないか。

ひょっとしたらそのような生き方は稀なのかもしれないが、しかしそういうのが事件やスキャンダルにならず、「事例は少ないだろうけれども、取り立てて騒ぐようなものではないこと」あるいは「それは普通の生き方」といつの間にか片付けられてしまうこの社会の潮流や認識が誤りではないか。

そしてそれらは、家庭かもしくは専任の機関、もしくは専任の教師で教えなければならない、と私は考える。

今後の社会には自立・自発・利発が求められる。
それにはこれから成長する子供の先天性に求めるのは社会機構として誤りであり、それは学校給食や基礎教育と同様に社会構造として用意すべきものである。具体的には「どう生きるか、どう社会を運用するか」を習得する修養科目が必要で、それらを習慣化するエクササイズやトレーニングが必要である。

今の先生たちにそれを依頼するのは難しいので、専任の教師をつけるべきではないか。

以上である。

<後記>
この一般社会に通底する諸問題を、現代で解決するには一つの解決策がある。
それは従来の学校において、ネット配信型授業を行うことだ。
教室にスクリーンとプロジェクタをつけ、専用サイトからの動画再生で配信することを提案したい。

講師は一流の有名人、例えば吉田沙保里さんなどが「まず子供の頃にやらなければいけないことは何か」などを言えば理解も進むし、人生の指針も立てやすいだろう。
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ダンジョン飯発売日予想 11巻まで

2020-02-24 12:53:41 | マンガ
ダンジョン飯 1巻 2015/1/15 1-7話 ハルタ11-17号(17号は2014/8/11発売)
→最終掲載の雑誌刊行から157日後(5ヶ月4日後)の発売

ダンジョン飯 2巻 2015/8/12 8-14話 ハルタ18-24号(24号は2015/5/15発売)
→最終掲載の雑誌刊行から89日後(2ヶ月28日後)の発売
前巻より209日後(6ヶ月28日後)の発売

ダンジョン飯 3巻 2016/8/23 15-21話 ハルタ25-31号(31号は2016/2/15発売)
→最終掲載の雑誌刊行から190日後(6ヶ月8日後)の発売
前巻より377日後(12ヶ月11日後)の発売

ダンジョン飯 4巻 2017/2/15 22-28話 ハルタ32-38号(38号は2016/10/15発売)
→最終掲載の雑誌刊行から123日後(4ヶ月0日後)の発売
前巻より176日後(5ヶ月23日後)の発売

ダンジョン飯 5巻 2017/8/10 29-35話 ハルタ39-45号(45号は2017/6/15発売)
→最終掲載の雑誌刊行から56日後(1ヶ月26日後)の発売
前巻より176日後(5ヶ月26日後)の発売

ダンジョン飯 6巻 2018/4/13 36-42話 ハルタ46-52号(52号は2018/3/15発売)
→最終掲載の雑誌刊行から29日後(0ヶ月29日後)の発売
前巻より246日後(8ヶ月3日後)の発売

ダンジョン飯 7巻 2019/4/12 43-49話 ハルタ53-59号(59号は2018/11/15発売)
→最終掲載の雑誌刊行から148日後(4ヶ月28日後)の発売
前巻より364日後(11ヶ月30日後)の発売

ダンジョン飯 8巻 2019/9/14 50-56話 ハルタ60-66号(66号は2019/7/13発売)
→最終掲載の雑誌刊行から63日後(2ヶ月1日後)の発売
前巻より155日後(5ヶ月2日後)の発売


と言うことで雑誌掲載は完全安定しているが、しかし単行本発売日は全く安定していない。

なので、最終掲載の雑誌刊行から0ヶ月〜6ヶ月を見込んでプロットすると次のようになる。

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