BOOK、CDなど

1 BOOK、CD、DVD、LP、コンサート、音楽鑑賞サークル、筋トレ等のメモ
2 失念防止のためのメモ

1991年(平成3年)から1995年(平成7年)まで

2009年01月03日 | ネット・ニュースなど

〇札幌両親強盗殺人事件(2人)~イベント会社役員Y(24)は、2年前の夏に大学生C(19)と知り合い、1年前の9月から同棲を始めた。二人は結婚を求めたが、Cの両親であるI夫婦に反対されていた。YとCはI夫婦の殺人を決意。

1991年(平成3年)11月22日、YとCはI夫婦を刺殺。Iさん所有の乗用車に夫婦の遺体を乗せ、Yが勤める会社が所有する原野に穴を掘って車を埋めた。そして保険金を解約して、300万円を手に入れた。

12月に妻の親族から捜索願が出され、行方を捜した結果目撃情報が寄せられ、12月26日に掘り返したところ、車と遺体が発見された。YとCは死体遺棄容疑で逮捕、後に殺人罪で再逮捕された。

二人は別々に公判を受け、Cは殺人を否認。しかし1994年3月、札幌地裁は求刑通り無期懲役の判決を言い渡した。一度は控訴するもその後取り下げ、刑は確定。Yは求刑死刑に対し、同じく無期懲役判決。検察側は控訴、さらに異例の上告までするものの、1999年12月、最高裁は検察側の上告を棄却、刑は確定した。(
http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)   

〇市川一家4人殺人事件(4人)~1992年(平成4年)3月5日に千葉県市川市で発生した当時19歳の未成年者による殺人事件である。

1992年2月、少年(当時19歳)は、フィリピン人のホステスと性的関係を持ったことにより、暴力団関係者から200万円を要求されていた。工面に困った少年は、その数日前に交通事故で轢き強姦した女子高校生のA子さん(当時15歳)の家に強盗目的で押し入る事にした。

3月5日午後4時30分頃、少年は家に押し入り、現金8万円を奪った後A子さんの祖母(当時83歳)を絞殺。その後、帰宅したA子さんを監禁し、午後7時頃に帰宅したA子さんの母親(当時36歳)を刺殺。A子さんを強姦した後、午後9時頃に帰宅したA子さんの父親の会社社長(当時42歳)を殺害、預金通帳を奪う。翌6日午前6時頃、A子さんの妹(当時4歳)を刺殺。

同日午前9時過ぎ、A子さんの父親の会社から「様子がおかしい」と通報が入り、警察官が駆けつけて少年を逮捕し、A子さんを保護した。

1994年8月8日、千葉地裁で少年に死刑判決が言い渡された。少年は控訴したが、1996年7月2日に東京高裁は控訴を棄却。更に上告するが、2001年12月3日に最高裁で上告が棄却され、死刑が確定した。

過去に暴行事件や強姦事件(事件実行当日にも別の被害者への強姦事件を起こしている)を起こしていた点、逮捕されてから裁判中まで、被疑者の当時の少年には事件を起こしたことに対して全く反省した態度が見られない点、A子さんの目の前でA子さんの肉親を殺害したという残虐性、警察が踏み込んだ際にA子さんに包丁を持たせ自分が被害者を演じた計画性などが裁判で重く見られた。

未成年者に死刑が言い渡され、刑が確定するに至ったのは、永山則夫連続射殺の永山則夫以来であった。(
http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)     

〇旧八郷町・元美容師殺人事件(1人)~1993年(平成5年)1月12日、石岡市(旧八郷町)柴内の国有林内で平成5年1月、常総市(旧石下町)新石下の元美容師、谷嶋美智子さん=当時(22)=が全裸遺体で発見された殺人死体遺棄事件は13日、発生から丸15年が過ぎ、同日午前0時で公訴時効を迎えた。

捜査本部のこれまでの調べでは、谷嶋さんは4年11月末まで、旧石下町内の美容室で働いていた。遺体で発見された前日の5年1月12日午前7時半ごろ、黒っぽい服装でアパートの自室からタクシーに乗り、旧石下町の自動車教習所に向かい、午前10時半ごろまで教習所にいたことが確認されている。

元担当捜査員で現職警察官の1人は「解剖所見では死因は心臓損傷による失血死だが、相当な刺し傷や右大腿(だいたい)部にかなり大きな切創が認められた」と指摘。
さらに、「殺害のされかたが、米映画の『氷の微笑』に似ているというので、レンタルビデオ店の顧客名簿なども調べ上げたが、犯人像を絞り切るまでには至らなかった」と明かした。(net news)     

被害者谷嶋美智子さん

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〇大阪愛犬家連続失踪殺人事件(5人)~大阪府八尾市のUは、蓄犬業で金儲けしようと、長野県塩尻市内の農地を借りた。Uは「犬の訓練士」と称して業界紙に広告を出し、出資者を集めようとした。1992年5月、預かった犬を散歩させていた途中、偶然Aさん(23)と出会う。Aさんとは以前一緒にあるバイトをしていた仲だったが、UがAさんの悪口を言いふらしたと文句を言ったことから殴り合いになりかかった。

Uは知り合いの獣医を訪ね、犬の安楽死に使うと、筋肉弛緩剤である塩化スキサメトニウム2%溶液のアンプルを入手。Aさんを呼び出し、仲直りだと言って睡眠薬入りの酒を飲ませて眠らせ、腕に注射して殺害し、塩尻の訓練所予定地に埋めた。

1992年10月頃、大阪市の主婦B子さん(47)と知り合う。1993年にB子さんは銀行から80万円を借り、10月25日以降行方不明になった。

1991年9月頃知り合った大阪の主婦C子さん(47)も、1992年10月29日から失踪していた。

1991年頃、犬の雑誌を通して知り合った大阪市の無職Dさん(35)は、1992年7月にUの銀行口座に30万円を振り込み、8月頃から失踪した。

警察庁は一連の失踪事件を広域重要事件120号に指定。Uの身辺調査に入った。1994年(平成6年)1月26日、大阪府警が殺人などの容疑でUを逮捕。

連続殺人を自供した。DさんとB子さんは出資金のトラブルから、C子さんは車に隠していたB子さんの遺体を見付けられそうになり、殺したものだった。さらにアルバイト料を催促していたEさん(20)も殺害していた。いずれも筋肉弛緩剤で殺害し、遺体を塩尻の予定地に埋めていた。

Uはその後、供述は警察の暴力によるものだとして一貫して無実を訴えたが、2005年12月15日、最高裁で死刑が確定した。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)

〇世田谷大学生殺人事件(1人)~1994年(平成6年)2月18日、青山学院大学の卒業を間近に控え、航空大学へ進学が決まっていた大学生Mさん(23)がアパートの自室にて刃物で刺されて殺されているのを、連絡が付かなくなって心配した母親の依頼を受けた伯母が発見した。Mさんにはトラブルもなにもなかったため、捜査は難航した。

2月22日、静岡県の別荘に無断侵入していたアベックがガスコンロで自殺をはかろうとしたところ、ライターの火がガスに引火、男が全身に火傷を負ったとの通報が入った。二人はD(20)とI(20)だった。Dは病院に運ばれ、Iは熱海警察署で事情聴取されたが、このとき世田谷の大学生殺人事件を認めた。

DとIは1年前に知り合い、Iが仕事を辞めたあとは盗みなどを繰り返して転々としていた。DとIは、Iの中学時代に付き合いのあった大学生(20)のアパートを2月11日に訪れるものの、実家に帰って留守だった。そこで自殺しようとしたが失敗。15日に隣室のMさんに口実を付けて誘い込んで縛り上げ、5万円を奪った。

DはIにMさんと性行を強要、IはMさんにまたがって性行を始めた。その後DとIは普通に性交したあと、Mさんをナイフで刺して逃走した。

9月5日、東京地裁はDに無期懲役、Iに懲役15年を言い渡した。二人は控訴せず、刑はそのまま確定した。Iは妊娠しており、後に獄中出産をした。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)   

〇井の頭公園バラバラ殺人事件(1人)~1994年(平成6年)4月23日、東京三鷹市にある井の頭公園で、男性のバラバラ遺体が発見された。

切断された遺体の断片は全部で27個、いずれも半透明のビニール袋に入れられ、池の周囲にあるゴミ箱に点々と捨てられていた。遺体は手足と胸の一部だけで、頭部と胴体の大部分がなかった。

三日後、公園の近くに住む一級建築士Kさん(35)の遺体と判明。被害者をバラバラにしたことから顔見知りの犯行と思われたが、捜査線上には何も浮かんでこなかった。現在も捜索中。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)     

〇松本サリン事件(7人)~オウム真理教は長野県松本市に支部を開設しようとしたが、購入した土地をめぐって地元住民とトラブルになった。1994年(平成6年)7月19日に長野地裁松本支部で予定されていた判決で敗訴の可能性が高いことから、教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時39)は裁判官はじめ反対派住民への報復を計画。

土谷正実(当時29)、中川智正(当時31)、林泰男(当時36)らが作成したサリンや噴霧装置を用い、6月27日、村井秀夫(当時35)、新実智光(当時31)、遠藤誠一(当時34)、端本悟(当時27)、中村昇(当時27)、富田隆(当時36)の実行部隊6人は教団施設を出発したが、時間が遅くなったため攻撃目標を松本の裁判所から裁判官官舎に変更。

官舎西側で、第一通報者の会社員男性(当時44)宅とも敷地を接する駐車場に噴霧車とワゴン車を止め、午後10時40分ごろから約10分間、サリンを大型送風機で噴射した。7人が死亡、586人が重軽傷を負った。

第一通報者で被害者の男性(44)は、警察の家宅捜査、事情聴取を受け、マスコミにも犯人扱いをされた。証拠不十分で捕まることはなかったが、1995年3月20日の地下鉄サリン事件まで、警察、マスコミから疑惑の人物扱いをされた。

本事件がオウム真理教によるものとわかったのち、男性の元へ野中広務国家公安委員長(当時)が謝罪に訪れた。しかし長野県警は未だ謝罪しておらず、捜査のミスも認めていない。またマスコミ各社は謝罪文等を掲載したものの、男性への直接謝罪は皆無である。

村井秀夫は1995年4月23日、教団東京総本部前において殺害された。松本智津夫は求刑通り死刑が二審で確定。端本悟は求刑通り死刑が最高裁で確定。土谷正実、中川智正、新実智光、遠藤誠一は一・二審死刑判決。現在上告中。中村昇は無期懲役(求刑死刑)判決が最高裁で確定。富田隆は懲役17年(求刑無期懲役)判決が二審で確定。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)   

〇つくば母子殺人事件(3人)~1994年(平成6年)11月3日、横浜市鶴見区の京浜運河で、ビニール袋に入れられ、重しを付けられた女性と女児の絞殺遺体が発見された。

調査の結果、10月29日に捜索願が出ていたつくば市に住む医師N(29)の妻Eさん(31)と長女(2)と判明した。続いて長男(1)の遺体も横浜港近くの海で発見された。捜査本部は、N夫婦の身辺調査を進めた結果、Nが複数の女性と付き合ったり、借金の利子返済に追われていたことがわかった。

取調官は11月7日からNを事情聴取して説得、25日にNは自供した。10月29日、朝帰りをしたNはEさんに離婚を切り出され、慰謝料とEさんのローンを支払うよう要求され逆上、Eさんを絞殺した。我に返ったNは、母を失い、父が殺人者になった子供が哀れになり、眠っている長男を絞殺。さらに犯行を偽装に見せかけるため、長女も絞殺した。

10月31日早朝、遺体を車に乗せ、海中に投げこんだ。死体を遺棄する前、ストリップやソープランドに立ち寄ったり、翌日には愛人の看護婦とともに北海道旅行の予約をするなど、異常な行動が見られている。

一審横浜地裁では、検察側の死刑求刑に対し「被告の人格が未熟であった。計画性はなく、衝動的な犯行である。夫婦不和が原因であり、被告人の責めにのみ帰することはできない面がある」として無期懲役判決を下した。

検察側は量刑が軽すぎる、弁護側は量刑が重すぎると控訴。1997年1月31日、東京高裁は両方の控訴を棄却、無期懲役判決を下した。Nは上告したものの、その後取り下げ、刑が確定した。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)     

〇地下鉄サリン事件(12人)~目黒公証役場事務長(当時68)拉致事件などでオウム真理教への強制捜査が迫っていることに危機感を抱いた教祖麻原彰晃(本名松本智津夫 当時40)は、首都中心部を大混乱に陥れて警察の目先を変えさせるとともに、警察組織に打撃を与える目的で、事件の二日前にサリン散布を村井秀夫(当時36)に発案。

遠藤誠一(当時34)、土谷正実(当時30)、中川智正(当時32)らが生成したサリンを使用し、村井が選んだ林泰男(当時37)、広瀬健一(当時30)、横山真人(当時31)、豊田亨(当時27)と麻原被告が指名した林郁夫(当時48)の5人の実行メンバーに、連絡調整役の井上嘉浩(当時25)、運転手の新実智光(当時31)、杉本繁郎(当時35)、北村浩一(当時27)、外崎清隆(当時31)、高橋克也(当時37)を加えた総勢11人でチームを編成。

1995年(平成7年)3月20日午前8時頃、東京の営団地下鉄日比谷線築地駅に到着した電車など計5台の電車でサリンを散布し、死者12人、重軽傷者5500人の被害者を出した。

松本智津夫は地下鉄サリン事件、松本サリン事件など全13事件、計27人が死亡、約6000人が負傷したとして起訴された。薬物密造他4事件については、裁判迅速化を図るため、検察側が起訴を放棄した。

松本被告の弁護側は一審の裁判で無罪を主張。事件は村井秀夫元幹部が計画したものと主張した。松本被告は公判途中から一切の発言をしなくなり、弁護側との接見にも応じなくなった。

2004年2月27日、東京地裁は全事件について松本被告が首謀者と認定、求刑通り死刑判決を言い渡した。

弁護側が控訴。一審弁護団12人は全員辞任。新たな私撰弁護人がついたが、松本被告は弁護士の接見の求めに一切応じなかった。東京高裁は控訴趣意書の提出を2005年1月11日に設定。

その後弁護団の要請により8月31日に延長した。しかし弁護団は高裁の鑑定への立ち会いや公開法廷での鑑定人尋問などが拒否されたことを理由に、趣意書の提出を拒否した。

2006年2月20日、東京高裁から精神鑑定を依頼された精神科医西山詮医師は、「訴訟を継続する能力を失ってはいない」とする鑑定結果を同高裁に提出した。東京高裁は、3月15日までに意見書を提出するよう弁護団に要請した。だが弁護団は、西山医師の鑑定書を批判する内容の意見書を提出するだけだった。その後28日に趣意書を提出する旨を明らかにしたが、27日に東京高裁は松本被告の訴訟能力を認めたうえで、控訴を棄却する決定を出した。

最高裁の統計がある1978年以降、一審で死刑とされた被告の控訴審が、棄却決定されるのは初めて。刑事訴訟法は、裁判所が指定した期限内に控訴趣意書を提出するよう定め、これに違反した場合は決定で棄却するよう規定している。一方、刑事訴訟規則で「遅延がやむを得ない事情に基づくと認めるときは、これを期間内に差し出されたものとして審判をすることができる」との規定も設けられている。

弁護団は3月28日に趣意書を提出するとともに、30日に決定に対する異議を東京高裁に申し立てた。東京高裁は不定出を理由に5月29日、異議を却下した。9月15日までに最高裁第三小法廷は東京高裁の控訴棄却決定を支持し、被告側の特別抗告を棄却する決定を出した。これで松本被告の死刑が確定した。

村井秀夫は1993年4月、刺殺された。犯人は逮捕されたが、動機は不明である。横山真人、林泰男は求刑通り死刑が最高裁で確定。土谷正実、広瀬健一、豊田亨、新実智光、遠藤誠一、中川智正は一・二審死刑判決、上告中。

井上嘉浩は一審無期懲役判決だったが、二審で求刑通り死刑判決、上告中。林郁夫は逮捕後犯行をすべて自供したことが認められ、求刑通り一審無期懲役判決がそのまま確定。

杉本繁郎、北村浩一は求刑通り無期懲役判決が最高裁で確定。外崎清隆は求刑通り一・二審無期懲役判決、上告中。高橋克也は逃走し、現在も特別手配中である。