BOOK、CDなど

1 BOOK、CD、DVD、LP、コンサート、音楽鑑賞サークル、筋トレ等のメモ
2 失念防止のためのメモ

1986年(昭和61年)から1990年(平成2年)まで

2009年01月03日 | ネット・ニュースなど

〇トリカブト保険金殺人事件(1人)~1986(昭和61年)年5月20日、沖縄旅行中の神谷力被告(46)と三度目の妻であるA子さんは、A子さんが半年前まで池袋のクラブで働いていたホステス時代の仲間3人を那覇空港に出迎えた。神谷被告は急用があると空港に残り、女性陣は予定どおり石垣島行きの飛行機に乗った。島に着いた正午過ぎ、A子さんは多量の発汗、悪寒、手足麻痺で苦しみ、3時に死亡した。死因は心筋梗塞とされた。

1991年、神谷被告は別の横領容疑で警察に逮捕されたが、その取調中にA子さんの変死事件が浮上した。A子さんは神谷被告を受取人として1億8500万円の生命保険金に入っていた。死亡後、神谷被告は保険金を請求したが、死因に不審を抱いた保険会社は支払いを保留。神谷被告は訴訟を起こすものの、取り下げていた。同年7月1日、警察は殺人と詐欺未遂で再逮捕した。証拠らしい証拠はなかったが、A子さんの検視医が不審を抱いて心臓や血液を保存しており、血液からトリカブト毒、さらにフグ毒が検出された。

神谷被告は全てを否認しアリバイを主張。さらにトリカブト毒の即効性により自分に殺害は不可能であると主張した。状況証拠はあるが、直接証拠はない事件である。一審・東京地裁は、被告がトリカブトを大量に購入していたことや、妻に1億8500万円の保険をかけていた事実などを積み重ねて有罪と判断。二審・東京高裁も一審の結論を支持し、被告の控訴を棄却していた。2002年2月21日、最高裁は神谷被告の上告を棄却、無期懲役が確定した。(
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〇札幌テレホンクラブ殺人事件(2人)~1988年(昭和63年)10月28日、札幌市のマンションの一室から若い女性のガス中毒死体が発見された。部屋の住人はY(25)。病院での検死後、Yの両親に遺体を確認させたところ、「娘に間違いない」と断言。Yは腰痛などで入退院を繰り返したことや離婚歴があったこと、窓ガラスをガムテープで目張りしていたことから、前途を悲観してのガス中毒と判断。札幌南署は遺体を両親に引き渡した。

2日後、札幌市の教師Fさん(32)が、Yの部屋で死んだのは自分の妻S(27)ではないか、との届出があった。Fさんは23日から修学旅行の付き添いで留守にしていたが、29日に帰ってみるとSさんの姿がない。捜索願いを提出後、妻は協会の信者友達であるYのところへ遊びに行ったことを思いだした。札幌南署で確認したところ、遺体の血液型はO型で妻と同じだった。ところがYの血液型はAB型だった。南署は直ちにYの両親に連絡したが、遺体は既に荼毘に付されていた。

31日、南署がYの部屋で再検証に行ったが、部屋は既に両親の手によって綺麗に片付けられていた。しかし、Fさんの家で採取したSさんの指紋と遺体の指紋が一致し、遺体はSさんと断定された。

11月2日、Yの部屋で採取した指紋が、1987年5月28日に札幌市ススキノのラブホテルで刺殺された会社員Sさん(27)の現場で採取された指紋と一致した。捜査本部は直ちにYを指名手配。11月4日、Yはススキノを歩いているところで逮捕された。元々の動機は、彼女が両親に肯定された存在でなかったことが始まりだったらしい。1991年、一審無期懲役判決。翌年、控訴棄却。そのまま確定。(
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〇女子高生コンクリート詰め殺人事件(1人)~1988年(昭和63年)11月25日、帰宅途中の女子高生Wさん(18)に少年Cが襲いかかった。主犯である少年Aが助けるふりをして近づき、甘言を弄して誘拐。少年B、Dも荷担。C宅に略取した。その後41日間、Wさんを不法に監禁、強姦行為や暴力行為、陵辱を繰り返した。1989年1月4日、Wさんはショック死。4人は遺体をボストンバックに入れた後ドラム缶にコンクリート詰めにし、空き地に投げ出した。

3月29日、別事件で少年鑑別所に収容されていたA、Bのもとに、綾瀬署の刑事が訪れた。刑事たちは、1988年11月16日に起きた綾瀬母子殺人事件の捜査で、現場付近の不良グループを虱潰しにチェックしていた。刑事はAを見て、何かあると思い「お前、人を殺しちゃ駄目じゃないか」とカマをかけた。Aは「すみません、殺しました」と答えた。しかし告白したのは、綾瀬の事件ではなく、本事件であった。

1990年7月、東京地裁はAに懲役17年(求刑無期懲役)、Bに懲役5年~10年(求刑懲役13年)、Cに懲役4年~6年(求刑懲役5~10年)、Dに懲役3年~4年(求刑懲役5~10年)の刑を言い渡したが、検察側は刑が軽過ぎると控訴。1991年7月、東京高裁でAに懲役20年、Bに懲役5年~10年、Cに懲役5年~9年、Dに懲役5年~7年の刑を言い渡し、確定。既にB、C、Dは出所している。

99年に出所したBは2004年5月19日未明、東京都足立区の路上で、好意を寄せていた女性と交際していると思い込んだ知人男性に「女を取っただろう」などと言いがかりをつけ、車のトランクに押し込んで埼玉県内のスナックに4時間以上監禁し、顔を殴るなどして約10日間のけがをさせた。このとき、Bは男性を「人を殺したことがあるんだぞ。本当に殺すぞ」などと脅していたとされる。Bは6月4日に捕監禁致傷の疑いで逮捕された。2005年3月1日、東京地裁はBに対し、懲役4年(求刑懲役7年)を言い渡した。(
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〇佐賀女性七人連続殺人事件(7人)~1989年(昭和64年)1月27日、佐賀県北方町の山林で三人の女性の死体や白骨が発見された。佐賀県警は捜査本部を開設、連続殺人と見た。白骨遺体は武雄市の料亭従業員A子さん(48)で、1987年7月8日から行方不明になっていた。二遺体は、北方町の主婦B子さん(50 1988年12月7日から行方不明)と、同町の従業員C子さん(1989年1月25日行方不明 37)であり、二遺体はいずれも絞め殺されていた。

国道34号線は佐賀県鳥栖市から長崎に至る幹線道路であり、この間で4人の女性の未解決殺人事件があった。1980年6月24日、白石町のウェイトレスD子さん(20)。6月27日、白石町の中学生F子さん(12)。1981年10月21日、中原町の会社員F子さん(27)。1982年2月18日、北茂安町の小学生G子さん(11)。C子さんを主要対象に選び捜査が進められたが、物証はほとんどなかった。被害者同士の接点はなにもない。奇妙なのは、失踪したのがほとんど水曜日であることだった。既に4人の事件については時効が成立している。

時効直前の2002年6月11日、佐賀県警はC子さん殺害容疑で、住居侵入と窃盗の罪で鹿児島刑務所に服役中の元運転手M(39)を逮捕した。MはC子さんと顔見知りであり、1989年には一度C子さん殺害を自供していた。ところがその後、容疑を否認。物証が乏しく、逮捕が見送られていた。引き続きA子さん、B子さん殺害でも逮捕、起訴された。Mは容疑を一切否認している。

2005年5月10日、求刑死刑に対し佐賀地裁で無罪判決。2007年3月19日、福岡高裁は検察側の控訴を棄却、一審判決(無罪)を支持した。検察側は上告せず、無罪は確定した。7月6日、Mは弁護士を通じて、無罪判決が言い渡されるまでの464日間の拘置期間について、佐賀地裁に補償を請求。地裁は「長期間拘置された上、無期懲役および死刑を求刑され、精神的にも肉体的にも大きな被害を受け、名誉も傷つけられた」として、刑事補償法の上限である1日当たり1万2500円、総額580万円を支払うことを決めた。(
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〇宮﨑勤幼女連続殺人事件(4人)~1989年(昭和64年)7月23日午後、宮崎勤(26)は幼女(6)に声をかけて車に乗せ、八王子郊外の山林に連れ込み、裸にしてビデオを撮ろうとしたところ、尾行していた幼女の父親に捕まった。その後の取り調べにより、4件の犯行が明らかになった。

1988年8月22日夕方、入間市内を歩いていた幼女(4)に声をかけ、八王子市内の山林に連れ出したが泣き出したので絞殺。遺体をビデオに撮った後、衣服を持ち帰る。

1988年10月3日、飯能市の小学校付近で遊んでいた幼女(7)を誘拐して殺害。

1988年12月9日、川越市の自宅団地のそばで遊んでいた幼女(4)を誘い出し、殺害。

1989年2月6日、8月22日に殺害した幼女の骨片や歯などが入ったダンボールを、幼女の家の玄関に置いた。

1989年2月10日、朝日新聞社宛に、誘拐、殺害の詳細を綴った「今田勇子」名義の手紙が届く。

1989年6月6日、江東区の公園で遊んでいた幼女(5)を誘拐して悪戯、殺害。遺体を自宅に持ち帰り、ビデオ撮影。二日目には遺体を切断し飯能市の霊園などに捨てた。

1989年8月11日、一連の幼女連続殺人事件の被告として、正式に逮捕された。

一審東京地裁での精神鑑定では、「極端な性格的偏り(人格障害)はあったが、精神病の状態にはなかった」「多重人格と離人症を主体とする反応性精神病」「精神分裂病だった」という3通りの結果が出た。一審判決では最初の精神鑑定を採用し、刑事責任能力があると判断して死刑判決。弁護側の「心神喪失もしくは心神耗弱」という意見は退けられた。2001年6月28日控訴棄却。2006年1月、最高裁で死刑が確定した。(
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〇坂本弁護士一家殺害事件(3人)~~横浜市磯子区のアパートに住んでいた坂本弁護士(33)、妻(29)、長男(1)が1989年(平成1年)11月3日、忽然と姿を消した。襖などから微量の血痕が検出されたこと、蒲団などの寝具類は消えていたが財布などは残っていたことから、深夜何者かに拉致された可能性が強かった。

坂本弁護士が所属していた横浜法律事務所は、オウム真理教が事件に関わっていると主張した。室内にオウム真理教のバッジが落ちていた。また坂本弁護士は、オウムに入信して帰ってこない子供の親たちが集まって結成した「オウム真理教被害者の会」の中心的役割を果たしていた。

さらに10月31日、オウムの幹部が横浜法律事務所を訪ねてきて、激しい口論を繰り返していたなどが理由である。オウム真理教は、活動を阻害しようとする罠、もしくは坂本弁護士の狂言だと反論した。事件は公開捜査となり、弁護士仲間が「救う会」を結成したが、捜査は停滞したままだった。

1995年3月20日の地下鉄サリン事件で、警視庁は3月22日にオウム真理教の強制捜査を開始した。1995年9月、実行犯の供述により新潟、富山、長野の山中から三人の遺体が発見された。10月13日、松本智津夫(麻原彰晃)被告と五人の実行犯が起訴された。

検察の冒頭陳述で、オウムの幹部たちは1989年10月26日TBSへ乗り込み、坂本弁護士の教団批判の収録テープを見て知り、殺害を決意した、としている。オウムが抗議に来て放映中止を要求したという事実を、TBSは隠し通そうとしたため、TBSの報道倫理が厳しく問われることになった。

松本は2006年に死刑判決が確定(1993年の地下鉄サリン事件に詳細を記載)。実行犯である佐伯一明は2005年4月に死刑判決が最高裁で確定。端本悟は2007年10月に死刑判決が最高裁で確定。早川紀代秀、新実智光、中川智正は一・二審死刑判決、上告中。(
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〇足利事件(1人)~1990年5月12日、4歳の少女が行方不明となり、翌日渡良瀬川河川敷で遺体が発見された。1991年12月、元幼稚園バス運転手K被告が足利署に連行され自白。被害者の下着に付着していた精液のDNAがK被告の型と一致したこともあり、K被告は起訴された。K被告は起訴後、無実を訴え続けた。公判では特にDNA鑑定の証拠能力について争われたが、1993年宇都宮地裁で無期懲役判決。1997年東京高裁控訴棄却、2000年7月、最高裁上告棄却、確定。
 2002年12月25日、弁護団は宇都宮地裁に再審請求を提出。検察側のDNA鑑定について、「捜査段階のDNA鑑定は、今は利用されていない初期のもので鑑定結果は不正確」と主張した。また殺害方法についても、自白とは矛盾すると訴えている。
 2008年2月13日、宇都宮地裁は再審請求を棄却した。決定理由で池本寿美子裁判長は、弁護側が提出した証拠の新規性を認めた上で、女児の下着に付いた体液と受刑者とのDNA型が一致しないとする主張や、殺害方法と自白の内容とが矛盾するとした鑑定結果について「いずれも明白性を欠く」と判断した。
 池本裁判長は、DNA型が一致しない疑いがあるとする上告審提出の弁護側鑑定書について「検査対象資料(毛髪)が誰のものなのか裏付けがない。分析も不正確で証明力が乏しい」と指摘。
 弁護側は、受刑者が女児の正面から両手で首を絞めたとする確定判決の認定に対し、女児の鼻や口に付いた泡沫などから、顔を水につけ後ろから首を絞めた可能性があるとの鑑定書を新証拠として提出した。
 これに対し、池本裁判長は「泡沫だけで水死と推測するのは合理性を欠く」などと認定し「新証拠は確定判決が認めた証拠の証明力を弱めるものではない」とした。弁護側は即時抗告した。
 2008年12月24日、東京高裁はDNA型の再鑑定を行う決定をした。検察、弁護側がそれぞれ推薦した専門家2人が別々に再鑑定を実施。ともに受刑者と下着に付着した体液のDNA型が一致しないという結果となった。2009年5月8日、東京高裁は再鑑定結果を検察側、弁護側双方に交付した。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)

  

1990年5月、栃木・足利市で4歳の女の子が殺害された「足利事件」の再審開始を前に、菅家利和さん(62)が4日、釈放された。
記者会見した菅家さんは「当時の刑事と検察官を絶対許すことはありません」と語った。
逮捕から17年半、菅家さんが釈放され、笑顔で千葉刑務所をあとにした。
4日午後5時すぎの会見で、菅家さんは「わたしは、きょう釈放になりましたけど、本当にうれしく思います」、「自分としては、まったく身に覚えがありません。わたしは無実で、犯人ではありません」と語った。
1990年5月、栃木・足利市で4歳の女の子が殺害された「足利事件」で、無期懲役が確定し、服役していた菅家さんに対し、東京高検は、再審決定前に刑の執行を停止するという異例の判断に踏み切った。
会見で、菅家さんは「当時の警察と検察官、絶対許すことはありません。本当に間違っただけで、間違ったでは絶対済みません。自分の人生を返してもらいたいと思います」と語気を強めた。
裁判で争点の1つとなっていたのが、DNA鑑定の証拠能力だった。
事件発生当時、導入され始めたばかりのDNA鑑定で、女の子の下着から検出されたDNA型と菅家さんの型が、1,000人に1.2人の確率で一致した。
しかし、事件から19年たった2009年にあらためて行われたDNA鑑定では、検察側と弁護側、双方の鑑定人が、DNA型は一致せずとの鑑定書を提出した。
現在、鑑定の精度は4兆7,000億人に1人の確率まで向上しているという。
これを受け、東京高検は、無罪を言い渡す明らかな証拠にあたるのは確実と判断して、再審を求める意見書を東京高裁に提出し、刑の執行を停止した。
会見で、菅家さんは「やっぱり自分は無実だから、一致しなかったんだと、そう思いました。それで、同房の人と握手をしました。『良かった、良かった』と言ってくれました」と話した。
さらにもう1つの争点が、自供の信ぴょう性だった。
捜査段階で罪を認めたものの、1審の途中から無罪を主張し続けてきた菅家さんは、会見で「自白は強要された」と訴えた。
会見で、菅家さんは「刑事たちの取り調べが厳しいんですよね。髪の毛を引っ張ったり、足でけ飛ばしたり、それでお前がやったんだから、早くしゃべって楽になれと言われました」と話した。
一方、今回の判断を受け、吉村博人警察庁長官は「厳粛に重く受け止めている」とコメントした。
また、最高検察庁は「足利事件に関する全過程について精査する」としている。
再審で無罪となる公算が高い菅家さんは、殺害された女の子の家族、そして真犯人については、「(女の子の)両親に会って、『わたしは犯人ではありません』と伝えたいと思いますね」、「真犯人には、時効はあっては絶対なりません。時効になっても、わたしは許しません」と話した。(ネット・ニュース)