間が空いてしまいましたが、お相撲の話の続きを少し。
2011年に起きた「大相撲八百長事件」をめぐって、スポーツライター玉木正之氏が2011年に出された「対談集」を読んでみました。
「大相撲八百長批判を嗤(わら)う・・幼稚な正義が伝統を破壊する」。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
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(引用ここから)
元「相撲」記者・根岸敦生氏との対談
〇根岸氏
「大相撲」は、「神事」と「興行」と「スポーツ」という3つの要素、すなわち、3本の脚の上に成り立ってきたと思うんです。
「大相撲」は鼎(かなえ・中国古代につくられた3本足の青銅器)だと。
3本足のどれが伸びても傾くし、どれが短くなっても傾く。
その3本足のうち、横綱・貴乃花の誕生以来、「大相撲」は「スポーツ」の方にダーっと傾斜を強めていったわけです。
横綱・貴乃花時代は怪我人もいっぱい出ましたし、休場者もいっぱい出ましたね。
貴乃花は、「相撲」を「スポーツ」として追及した力士だと思うんです。
でもその結果、いわゆる「神事」と「興行」の面が欠けてしまった。
「スポーツ」としての勝敗を重視するあまり、「大相撲」が結局、「勝てばいい」という文化に変質してしまったのではないか?
ただ「勝てばいい」という部分だけが、朝青龍に伝わってしまった。
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鵜飼克郎(週刊ポスト担当記者)氏との対談
〇玉木氏
「近代スポーツ」というより、「前近代的(封建的)エスニック・スポーツ(民族競技)」と言うべき「大相撲」の「八百長」をあげつらって批判するのは、野暮なことだと、私は以前から考えてきた。
大相撲の世界に常に存在し続けてきた「拵え相撲(こしらえずもう)」を、「八百長」と批判するのはいつでも簡単にできることだ。
ところが昨今、特に朝青龍の一人横綱時代以降、その「拵え相撲」があまりにも多く、力士たちが堕落しているという噂をさかんに耳にし、憂いていた。
一方で、「大相撲」が「スポーツ」化し、「年間最多勝」だの「幕内在位何場所」だのといった数字や記録ばかりが騒がれ、
力士たちは、五穀豊穣を願って四股を踏むことや、赤ん坊が丈夫に育つよう厄払いの意味を込めて抱き上げる、といった「相撲取り」の「力人(ちからびと)」としての宗教的な一面を忘れ去った。
そこへ、「八百長」の連絡の「携帯メール」という動かぬ証拠が出現し、「日本相撲協会」も「八百長など存在しない」と言い続けることができなくなった。
週刊誌で「八百長相撲」を追求し続けてきた記者は、現在の事態をどう考えているのだろうか?
率直に言って「八百長」というのは昔から存在したと思います。
要は、「ガチンコ」(八百長なしの真剣勝負)と「出来山」(談合済みの勝負)のバランスの問題です。
わたしは「八百長」という言葉を使うのは、あまり好きではないので、「出来山」という言葉を使わせていただきますが、
両者のバランスが上手く取れていれば、週刊誌の告発記事などが存在するのも悪いことではない、という程度に考えていました。
〇鵜飼氏
これまでにも、「八百長」の「物証」というものは、いくらでもあったというべきだと思うんです。
ですが、「相撲協会」は、そうした都合の悪いものを見て見ぬふりをしてきました。
新聞やテレビは、週刊誌の記事だからと、取り上げようとしなかった。
私は、こういうものは陰密にやるものだと思っていたんですが、堂々とメールでやっていたのかという驚きですね。
〇玉木氏
週刊誌が、証言や告発という形で「大相撲」の「八百長」を世に出すねらい、それをやらなければならない理由はどこにあるのですか?
「相撲」は、面白いか、面白くないか、それだけで判断しても問題はないのでは?
千代の富士が八百長してまでも優勝するのはおかしいというのは、確かに筋が通っています。
が、別にそれすらかまわないではないかという言い方もできます。
一人のヒーローが誕生したわけですから。
それを喜ぶか否か?
また、彼の土俵が面白いか、面白くないか。
それだけで判断すればいいのではないか?
そういう意見については、どう反論されますか?
〇鵜飼氏
元々、五穀豊穣を願った神事からスタートした、と言われる「相撲」は、西欧的な「勝敗」という概念を上手く取り入れて今日に至ったと言えると思います。
積極的に「大相撲」の「近代スポーツ」化を図ってきたのは「相撲協会」自身だと、わたしは理解しています。
たとえば「相撲を指導・普及する」という大義名分のもと、「財団法人」の資格を取得したわけです。
指導・普及を通じて、「相撲」の裾野を広げるには、「スポーツ」の要素を強く打ち出さなければならない、というのが彼らのやってきたことだと思います。
〇玉木氏
「相撲」の家元と言える「吉田司家」との関係を断ち切ったりしたのも、事情はあったにせよ、「スポーツ」化の一環と言える面はありますね。
要するに「神事」の面を、角界が自ら、そぎ落としてきた。
意義を無くしてきたというか、自分達でもそういう「相撲」の文化的研究をしなくなった。
そして「スポーツ仕立て」にして人気を獲得してきた、という流れは確かにあります。
ただしそのような方針の割には、「スポーツ」としての「相撲」を発展させる努力があまり見られない。
わたしは基本的にはもちろん「八百長」はいけないという立場なんです。
その代わり、「出来山」はあるだろうと。。
要するに非難されるべき「八百長」というのは、競馬や競輪のように見ている人に実質的な損害が発生するものだ、という考えです。
第三者に実害がないものを「八百長」と非難しても意味ないだろう、というのが私のスタンスです。
面白くなければ、見なければいいわけですから。
それに少々出来過ぎたストリーで勝負が決しても、それが国民の大半のニーズであって皆が歓迎すればそれでいいだろうと。
「人情相撲」という言葉は昔からありますが、「相撲」は純然たる「スポーツ」ではなく、「興行」という側面もあるわけですから、そうした「興行政策」が「相撲協会」内にあっても不思議ではない気もします。
それをきっかけにして、力士も育ってくれればいいわけでしょう。
それが今回、携帯メールという形で露呈してしまった。
「八百長メール事件」が明かになった今後、これを、昔の「相撲」、、「ガチンコ」(真剣勝負)と「出来山」(打ち合わせ済)が絶妙なバランスの上で成り立っていた昔の形に戻すのは大変でしょう?
〇鵜飼氏
もう戻れないと思います。
ただ、玉木さんが言う「神事・興行・スポーツ」の「三本柱」に「相撲協会」があぐらをかいてきた、という言い方もできると思いますよ。
〇玉木氏
私は「大相撲」は、宗教法人化でもしなければ、「神事」としての部分はこの先も、どんどん俗世間に侵されて、消失するのではないかという危惧を持っているんです。
アニミズムに基づく日本の神道は、教義も非常に鷹揚ですから、他宗教と軋轢を生むこともないとも思うのですが、実際に、「大相撲」が「神社本庁」の組織下に入るというのは難しいかな?
しかし、問題を投げかけるという意味では、悪くないと思っています。
それによって、関係者も含め、あらゆる日本人が「相撲とは何か?」を改めて考えてほしいですね。
(引用ここまで)
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わたしは貴乃花を応援しているのですが、こういう見方もまたありだろうとは思います。
しかし、この度の貴ノ岩事件については、さすがの玉木正之氏も、「これはいけない」と発言しておられました。
Wikipedia「大相撲八百長問題」より
2011年に発覚した、日本相撲協会の現役の大相撲力士による大相撲本場所での取組での八百長への関与に関する問題である。
大相撲の八百長とは、主に本場所での取組で力士同士が白星を金で売買する故意の敗退行為である。
携帯電話のメールでやり取りしていたとされ、勝ち負けのほかに取組での具体的な戦い方の内容についてもやり取りしていたとされるもので、数十万円の金銭がやり取りされたと報道されている。
実際の取組ではメールのやり取り通りの内容になったことが明らかになっている。
大相撲の八百長に関する疑惑は、週刊ポスト(小学館)が「角界浄化キャンペーン」と称して元力士の告発などの形態で1980年代から30年にわたって報じており、週刊現代(講談社)も後の2008年になってこれ
を取り上げるなどしてきたが、
相撲協会は一貫して八百長があることに関しては否定し、週刊現代に対しては複数の協会員が訴訟を起こし、勝訴した。
発覚当日の理事長による会見でも「過去には八百長は一切なく、新たに出た問題」と発言している。
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「「両国回向院」 誰をも弔う寺 相撲に沸いた境内」 朝日新聞2018・02・22
JR両国駅西口から南へ向かうと、高層ビルの間に「回向院(えこういん)」(東京都墨田区)の山門が目に入る。
「江戸庶民の聖地」と言われるこの寺に、いまも数多くの参詣者が訪れる。
回向院は、明暦の大火(1657年)をきっかけに建立された。
大火で、江戸城の天守閣を含め、江戸の街は大半を焼失。
死者は10万人以上とされ、身元がわからなかったり身寄りがなかった多くの無縁者が、回向院で弔われた。
正式な名称は「諸宗山無縁寺(しょしゅうざんむえんじ)回向院」。
宗派を問わず無縁の人々の冥福を祈ったからだ。
その後、浅間山の噴火(1783年)や安政の大地震(1855年)などの自然災害による無縁仏も供養。
処刑されたり牢獄で亡くなったりした人も埋葬した。
幕府や江戸の民が無縁仏を葬ったことから、「江戸御府内総檀家(ごふないそうだんか)」とも呼ばれた。
それらの人々の供養塔も境内に立つ。
副住職は「無縁の死者を『広大無辺』に受け入れました。そのことから江戸庶民の聖地と認識され、参拝の人々を集めたのです」と話す。
回向院では1700年代後半から寺社の修復や道づくりの資金を集める「勧進相撲」がおこなわれた。
1833年からは春秋に定期開催され、明治時代に東隣に「旧国技館」が建てられるまで続いた。
歌川広重の「両国回向院境内全図」には、場所ごとにつくられた相撲小屋が描かれ、当時の様子を伝えている。
山門から本堂に向かう左手には、相撲好きとして知られた、徳川宗家16代当主の家達(いえさと)が字を書いた「力塚」が立つ。
その前で、秋には相撲部屋の親方たちが物故者の供養をするのが恒例だ。
歴史家の安藤優一郎さんは「両国は、今で言うとアミューズメントパーク。『聖』に『俗』が重なり、集まる人々で一大行楽地と化した」と解説する。
「庶民の様々な思いは、時を経て、いまも回向院に息づいています」。副住職の本多さんは、そう話した。
回向院は、JR総武線両国駅から徒歩で約5分、都営大江戸線両国駅からは約10分。
途中で、まげを結った着物姿の力士たちと遭遇することも、両国歩きの楽しみだ。
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こういう事実も、日本の文化史の事実ではあります。
スポーツではない「相撲」の奥行の深さを味わいたい気持ちもあります。
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