ハリウッド映画に登場する“ヒーロー”は、市民に
悪の手が襲い掛かると突然現れ、その超人的なパワー
(大体が肉体的暴力や凄い破壊力のある武器)で悪人を倒し
屈服させ、時には殺してしまう。すると、映画の中の市民は
「正義が行われた」と、ヒーローに喝采を送り、それを観た
映画の観客はカタルシス(スキッとする心理的浄化作用)に酔う
(ま、そういう文化・思想があるので、主に欧米では
自分たちと仲が悪い国…。ハッキリ言えばキリスト教
否定国の指導者はたいていが“極悪人”で、その悪者を
武力でやっつけることに違和感は無く、むしろ「正しい
こと」と捉えるのだ。反対に、非キリスト教国では、キ
リスト教圏の人々、特に政治の指導者は極悪人で、彼ら
を殺すことは「正義」なのだ。しかし、僕からすれば
キリスト教もイスラム教も、ともに同じ一神教という
起源を共にするユダヤ系宗教。つまり同族、親戚関係と思うのだが…)
ともかく、ヒーローは「市民の命を救ったり」、
「弱い者を助ける」ことでヒーローたらしめている
さて…。今回、僕が問題にしたいのは、ハリウッド映画のような
またはユダヤ系宗教国全般に蔓延する“最終的には、暴力で物事
を解決することが当然”ということの是非ではなく、ヒーローに
「助けられる側」“その他大勢・エキストラ”の人たちのことだ
映画の中では、自分や家族が危機に陥ると「ヒーローが助けに来
てくれる」ことを、市民は“哀れな子羊”のように切望する。そ
して、ヒーローが現れると歓喜の涙を流し、危機を逃れたことに
感謝する。そして、これはあくまで映画の中だけだが、“二度と”
危機は訪れないから、観客も「良かった、よかった」と胸を撫で下ろすのだ
“哀れな子羊”は永遠に「守られる側」で、決してヒーローには
なれないし、なるつもりもない。“ヒーローに依存した人生”と
言っても過言ではないだろう
こういったヒーロー依存姿勢は、映画などの空想の世界だけではなく
現実の生活にも蔓延しているようだ。ハリウッド映画の影響か、それ
ともユダヤ系宗教や原始的な現世諦め宗教のせいか、病気、人間関係
経済問題、そして死などの人生の危機に際し、多くの“子羊”は、
「自分を助けてくれるヒーロー」の登場を信じている。「ヒーロー」
を「神」と書き換えてもいいかもしれない
“奇跡的に”、そんなヒーローが現れることもあるかもしれないが
大抵は、否、殆ど「現れない」。ヒーローが現れる確率は「隕石が
頭に当たって死ぬ」より低いのだ
(つまり、未だかつて無い…ということだ)
ヒーローが現れず、絶望と不幸に泣く“子羊”は、必然的に現実から
逃避し、死後の世界に希望を見出そうとする
(それこそ、不幸のスパイラルなのだが、そこに付けこむ詐欺師や
エセ宗教屋の、なんと多いことか… )
現実に生きる多くの人々の不幸の源は、実はここにあるのかもしれない
望まれてこの世に生まれ、健康や知性、そして容姿にも恵まれ
家庭環境や金銭的に不自由なく、人間同士の摩擦も全くなく
生涯、穏やかに笑って生きられたら、それに越したことは無い
だが、現実は正反対だ。過酷な障害物が幾つも立ちはだかっている
仮に、何不自由なく生きられたとしても、最期には必ず「死」が
待っている。その「死」さえ、穏やかに迎えられるだろうか?
「私は死を穏やかに迎えられる」と答えられるとしたら
その人は「多くの人々の幸せに尽くし、本当に素晴らし
く生きた」人か、もしくは「腹黒い大嘘つき」の人に違いない
実際「最高に充実した人生を歩んでいる者には、死さえ歓喜
なのだ」とは、西洋の哲人の言葉だ
ともかく、殆どの人にとって「死」は恐ろしく、避けたい不幸のはずだ
そんな“恐怖”が最期に待っている人生に対して、どんなヒーローが
必要だろう。永遠に死から守ってくれるヒーローか?
果たして“死を逃してくれるヒーロー”がいるだろうか。そんな「道理
に合わない」ことが、現実にあるだろうか。現実にない荒唐無稽を切望
するのは、道理にかなった正しい生き方だろうか
結局、ヒーロー依存人生は、
「道理に合わない生き方故の不幸」な人生と言えないだろうか
もう一度言うが、現実に生きる多くの人々の不幸の源は
実はここにあるのかもしれない
さて…、居もしない(もしくは決して現れない)ヒーローの出現を
期待して生きるより、確実に不幸にならない方法がある。それは
自らが“ヒーロー”になることだ。もしくは、ヒーロー側の人間になることだ
この“ヒーロー”を、“神”or“仏”=“偉大な人”に変えてもいい
こう書くと「神になる?」「自分が仏だ?」「自分は偉大な人間だ?」
と捉え「胡散臭い紛い物」と感じる人も多いと思うが、僕が言うそれは
「私は釈迦(またはキリスト)の生まれ変わりだ」などとほざくペテン師
とは全く違う
“仏”や“神”の定義が違うのだ。僕の言う“神や仏”は、
逆に“ヒーロー”に置き換えられる
ユダヤ系宗教の信奉者には申し訳ないが、“偉大なる神”が
いるのか居ないのかは不明だ。なにせ、今まで「私がそうです」
とは名乗り出た者はいないからだ
(詐欺師や心の病の人で、そう言う人はたまに居るが…)
だが、キリストやマホメットや釈迦は実在した。彼らは不幸な
人々のために、説法を通して救っていこうとした。だが、彼ら
は敵対する勢力からの妨害にあう。釈迦でさえ数々の迫害に遭い
命まで狙われた。キリストなどは布教を快く思わない既成宗教集団に
十字架に磔にされ殺害されてもいる。それでも彼ら(弟子たちも含め)
は説を曲げず、民を救う言論戦を止めなかった
後に彼らは“神”と崇められ“仏”と賞賛された。人々の為に身を
犠牲にして戦う、真の“ヒーロー”だ
そんなヒーローになれば、または彼らに賛同し、心と行動を一にすれば
俗に言う「不幸」とは無縁の人生を送れるはずだ。なにせ、人々の不幸
を取り除く為に戦う人生だからだ。そんな大きな使命の下では、自分の
悩み・不幸など小さなものだ
「別格な人たちを持ち出しても、現実的ではない」
そう思う人も多いかもしれない。しかし、だ。過去に生きたキリストや
釈迦は、“宙に浮いた”天女のような格好で説法をしていたか?
答えは、否だ
喉の渇きや空腹に苦しみながらも、説法のために歩きに歩いたのだ
足は血豆だらけだったろうし、服は破け、太陽に焼かれ赤銅色だった
に違いない。ある時は食中毒に苦しみ、全身は蚊に刺され、迫害にも
遭遇した。言ってみればボロボロの庶民そのものだ
それでも彼らは行動を止めなかった。気高い誇りと使命感に溢れ
弱音など決して吐かなかった
激しい風雨や極寒、飢饉や疫病、敵対者からの迫害や弟子の死
裏切り…様々なことに遭遇しながらも行動を、“生きる”ことを止めなかった
だから、彼らは「宗派」を越えて、神として仏として尊敬されるのだ
庶民には…崇高な心根と行動の人が数多く居る。自らの課題を
乗り越えようと奮闘し、その間の凄まじい人生の嵐にもへこた
れず乗り越え、その経験を人のために活かし、人を励ます生き
方は、キリストや釈迦からも尊敬を受けるに違いない。スケール
の違いこそあれ、その心根と行動が彼らと同じであるならば
格も同格のはずだ。つまり「神」であり「仏」なのだ
真のヒーローなのだ
昔、某有名作家が「アメニモ負ケズ…」と書いたが
過酷な人生の嵐に負けず、どんな険しい山もグッと
奥歯を噛み締めて登り、苦悩する友のために汗する
常に人格の高みを目指し、どんな苦難も“自分”で
勝ち超えていく。そんな人がヒーローであり、他人
依存という甘えの無いヒーローにとって、不幸に泣く
人生とは無縁に違いないのだ
さて、ここまで読んで しんどい生き方だが
自らヒーローの人生を目指すか
それでも助けられる側にいるか
選ぶのは自分自身だ