「へンくつ日記」

日常や社会全般の時事。
そして個人的思考のアレコレを
笑える話に…なるべく

海老蔵氏の事件に触れて…

2010年12月01日 06時04分59秒 | Weblog
 
先日、酒席で暴行を受けた
歌舞伎役者の市川海老蔵氏
酷い災難と言うしかない
どんな場合でも暴力は絶対悪だ
暴力を振るった相手が100%悪い
そこに、どんな言い訳も通用しない
犯人は司法によって厳しく裁かれるべきだ

話は変わる
さて、一部報道では、海老蔵氏は酔うと
「お前は幾ら給与を貰っているか」
「俺は(将来)人間国宝だ」と凄むのが常だったという
つまり、「金や名誉」などが彼の人生の価値基準なのだ
父親の市川團十郎氏は「厳しく躾けたつもり」と言っているが
肝心の人間の価値、人生の目的についての教育はどうだったのだろう

これは市川家だけの話ではない
多くの家庭に言えることのように思う
価値基準は、大体において幼少期に培われる
つまり、親の持つ価値基準が引き継がれるのだ
「人に迷惑をかけない」などの教育は
世間と摩擦を起こさないための道徳であって
それで「教育した」「躾けた」というのは
少しばかりズレている気がする
教育の根本は「人間・人生の正しい
価値観」を教えることだと思うのだ

仮に「あの人は家柄がいい」
「いい大学を出ている」「一流企業に勤めている」
「資産家だ(好ましい評価として)」などを
人間の判断基準にしているとすれば
なんとも浅薄で卑しい基準ではないか
その意味で言えば、「教育のない高学歴者」
「教育のない企業家」「教養のない資産家」
「教育のない学者」「教育のない著名人」が日本には目立つ


改めて書くのも気恥ずかしいが
人間の価値は、家柄や金や名誉
学歴や職業、属する企業
ましてや容姿とは全く関係がない
だが「教育のない彼ら」は、金や地位、名誉
そして、他からの尊敬を集めることが
人生の目的となっている
つまり基軸が「自己の利害」なのだ

我が母校の創立者の言葉を借りれば
『世間の多くは、自身の利害と
 打算によって動いている
 経済的に、また立場上
 得になるかどうか。名誉になるかどうか
 美名の裏の心は、あまりにも卑しく
 勘定高い場合が多い』と

だから判断基準が、人格が高貴かどうか
また、高貴なる人格を目指しているかどうか
そして、いかに他人のために働いているかではなく
家柄や肩書き、資産や学歴、職業や容姿などの
名聞名利、上っ面の事柄になってしまうのだ

そんな幻を基準にしている人の
なんと多いことか
幻を一生かけて追い求め
最後に残るのは何だろう
もし、空しさと後悔だけだとしたら
それは価値ある人生といえるのだろうか
例え国会議員になっても
巨万の富を得、人間国宝となっても
自らが誇れる人生と言えるのだろうか
金や名誉は、死ぬときには持っていけないのである
特に芸術家は、磨かれた魂のみを追求すべきなのだ
磨かれた魂のみが、本物の芸術を生み出すのだから

海老蔵氏の事件に触れて
そんな事を思ったのだった
コメント
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