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Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

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ハリウッド映画往年の傑作を観た! 「大いなる西部 」

2005-09-15 08:35:55 | 趣味の話&本と雑学メモ
<添付画像>:the photo from IMDb's data: "The Big Country".


 さる9月12日月曜日の午後8時から10時45分まで、BS2衛星放送にて1958年度作品のハリウッド西部劇?「大いなる西部」を、又、観た。
めちゃくちゃ忙しくしなければならない時間を、敢えて裂き、そして、みた、みたのだ、、、。

なに?
感想ですか?

たいへんよかった!

文句の付けどころ無し!の、「5星ランク」!!!
たんなるスケールとか規模的な大きさではなく、表現力的な意としての「超大作ハリウッド映画」なのでである。

大いなる西部

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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この映画を観たのはこれで確か4回目であろうか。
はじめてみたのは中学3年生のときだったか?もちろん地方都市の封切映画館。二度目はテレビ映画番組で観たがTV用に画面調整されたものであるから画面全体のバランスがよくなかった。今回はノーカット、シネマスコープ版だから画面が映画館並みで迫力物であったからよかった。
主演のグレゴリーペックがまだ若い。
まず、映画の始まりのシーンが抜群に良い。大西部の黄土色の大地に、駅馬車が走る風景をバックに、標題(Big Country)の貼り付けからはじまり、さらにさらに出演者、キャスト、音楽、舞台裏のスタッフの一通りの文字が、延々と羅列。鳥瞰図的風景を奔る駅馬車は徐々に大平原の一角に芥子粒ほどの大きさの街へ辿り着くべく近付きつつ、僅か数秒間駅馬車を引く馬がギャロップする足元のアップシーンに移り、再び鳥瞰図的遠望シーンに戻る。4分近く後に、西部の鄙びた街に駅馬車が到着する。
この間、長々と序曲が流れ、延々と土埃を立てながら同じ駅馬車が同じ大西部の大地をひたすら走るシーンが続く。この長いシーンがたまらなく良くて好く、背骨に静電気が走りぬけるほどに音楽が良く、痺れる。
映画が始まる前に映画にのめりこむ。
序曲の音楽が止む。止めば、埃の中おもむろにグレゴリーペックがあらわれる。ダンディーな背広姿で駅馬車から鄙びた西部の街に降り立つ。西部の街の地元民は訝しそうに彼の背広姿と英国式のキザな帽子を眺め回すシーンから始まる。ペックを出迎える牧童頭(カウボーイのチーフ)であるチャールトンへストンが、駅馬車の出迎えに、いささか遅れて到着する・・・
いよいよ「大いなる西部」の映画の幕開けとなる・・・
この映画では例のベン・ハーを演じた大物俳優チャールトンヘストンが単なる(しかし重要な)脇役で出ているのだから、さらなる時代の古さを感じる。加わる(重要な)脇役で、我が国TVドラマ西部劇全盛時代のシリーズドラマの「ライフルマン」で主演した(名前が思い出せない)悪人面役者も、紛れもなくこの映画で悪役を演じている。いよいよこの映画の最大の盛り上り場面である決闘シーンでの名場面がある。主役グレゴリーペックと、古式豊かな先込め式単発拳銃を用いての決闘シーンにて卑怯者のカウボーイを演じている。
女優陣は、金髪のキャロルベーカー。役柄は大牧場主の一人娘。なに不自由なく生まれ育ったオキャンでやんちゃ、くわえて気位の高い田舎娘を演ずる。東部に遊学中、グレゴリーペックと恋に芽生え、婚約。グレゴリーペックが結婚を前提としてキャロルベーカーの住むテキサスを訪ね、駅馬車で到着するところから、この物語が始まる。ちなみにペックの役柄は七つの海を航海し鍛えぬいた船乗りである。というよりも若くして世界の海を知り尽くした船長経験者であり大船主の子息。西部の荒くれカウボーイにとっては一見軟弱そうに見えるペック兄様。その実しかし、テキサス州イコール大西部(Big Country = Texas)が、この世で一番広大だと信じて止まない西部自慢の人たちを、精神肉体信念共々、はなから凌駕する海育ちの人物がグレゴリーペックなのである。
さらに、黒髪のジーンシモンズ。元大牧場主の孫娘であり、すでに祖父ならびに両親と死別している独身女性。地元小学校の教師でありながら、今尚祖先から受け継いだその近辺の牧場経営者にとって重要な水場の土地所有者の役を演ずる。ショートカットのジーンシモンズは、あいかわらずここでもさりげなく清楚である。

この映画のストーリーのあらまし。
ジーンシモンズ所有の水場のある土地をめぐっての争いが続くなか、東部から大西部テキサスにまいおりたグレゴリーペックが間に入る。水場の土地の所有権を持つジーンシモンズから土地を買取り、所有者となる。牧場経営者同士、乾季の水場争いを無くすよう、公平に水場の水を分け与えようとする。が、それに反して、揉め事はエスカレートしていく。争いの元凶であった二人の大老牧場主同士の決闘の末、古い時代の両者の死によって結末をむかえる。
もう一つの結末、ペックとキャロルベーカーとの婚約は破談。ペックは、キャロルベーカーのアメリカ西部風の田舎っぽい見栄っ張り、つまりアメリカ的なダサさに辟易するのである。
とにかくけっして台詞としては表現されないが、主演グレゴリ-ペックとジーンシモンズが一緒(結婚するということ)になるのであろう、と、思わせる感情の移行する場面が、きれいに描かれている。
いよいよ最期に二人の西部開拓者牧場主は決闘の後に相互相打ち、見事きれいな死を表現する。
つまり、キャロルベーカーの父親が死亡する。
そうなれば、当然牧童頭のチャールトンヘストンと牧場主の娘キャロルベーカーが結婚して、決闘相打ちで亡くなった牧場主の後を継ぐであろう(けっして結婚するシーンは描かないのであるぞ!文学で云えば行間と行間でそれを知らしめているのだ)ということになり、以上、めでたしめでたし、で幕引きとなる単純にして明快なストーリー、、、。

ストーリー全体を通して、ウイリアムワイラー的な表現の真骨頂が見える。
真骨頂とは・・・
当時(1950年代後半)、西部劇的西部劇全盛の頃には珍しい描き方をした西部劇が、この映画である。時代と世代の交代、東部と西部の文化の違いなどを描いているようだ。
すなわち、
ストーリーの中での時代背景にて、すでに古くなりつつある西部開拓時代の封建的暴力支配の横行するアメリカ西部白人社会のあり方から、次の新しい世代へと近代化されていくアメリカ人若者への世代交代を、これほどまでにうつくしく描いている・・・
さらに、
広大雄大な超大陸と大自然に育まれた人間は、何をしているか?そんな中にあっての砂粒ほどの大きさの、すなわち小さな人間は?どうあるか?
映画での表現は、
まず、大西部を開拓してきたアメリカ的な強欲と勇気と蛮勇と卑怯と、ひめたる勇敢と誇り、さらに新世代の夢が、最大限に表現されているか。
さらには、あくまでも付帯的に(僅か重箱の片隅的に表現?)アメリカ的恋愛表現を描いたか、描き切ったか。このあたり、アメリカは男女の恋愛表現がシャイであり奥ゆかしいのだ。ジメジメ、じとじと、していないから、おおらかだから好いのだ。

遅くなりましたが、見どころ?
*映画音楽がいい!(音楽:ジェローム・モリス)
*画像がいい!(監督:ウイリアム・ワイラー)

以上に尽きます。
ほかに何もない。
何もいらない。

「・・・・?」
「なに?役者?」
「・・・!?!」
「よいに決まっている。グレゴリーペックとジーンシモンズの漆黒の髪は、いいよ~美しいぞ~。オウ!ところでよ。にっぽんの若者よ、やたら脱色したり金色に髪を染めるでないぞ!黒髪がいかに美しいか!よく知れ!知ってくれ!・・・」

ちなみに「あまぞんどっとこむ」の詳細を参照しましたところ、在庫がない。Used-Price? つまり中古品の価格が¥12000なり?ですぞ!
しかし、供給はきわめて少ないが、需要はあるようだ。入手に難しい「大古典的逸品」、そういう基本的評価がこの映画のVTRにあるか? 
驚きました。

さらに思うところがある。だから、続編を書きます。
その内容は、
1)この映画の音楽と画像のバランスについて、
2)役者グレゴリーペックの印象の違い
3)すなわち同じ映画を観ても観方が違うのでして、中学生の頃の印象、30代後半の頃の印象、さらに今回の印象、全て微妙に違う、どこがどう違うか、などなど・・・
我輩はそのあたりをもっと突っ込んで書きたいのだ・・・

<続く>

→来週月曜日あたりか?
はたまた気分が変わったら、中止するか?

Mentor? 「広淵先生ブログによせて」

2005-08-27 13:55:54 | 趣味の話&本と雑学メモ

拝啓 広淵升彦さま 
 
(広淵先生トラックバック記事として掲載します!)

はじめてコメントさせて頂きます。
わたくしこと、monkyさまからご紹介頂いた不肖「エセ男爵」です。
宜しくお願い申し上げます。
まだ一部分でありますが貴ブログ拝読させて頂き、わたくしごときが申し上げるに恐れ多いのでありますが、まさに
「ここに、我がメンターを見いだしたり!」
と宣言し、
ご尊敬申し上げる次第であります。
まずは広淵先生をご紹介頂いたmonkyさまに、お礼申し上げなければなりません。
Monkyさま、ありがとうございます。
広淵先生の膨大なブログは、一度落ち着いて是非とも通読させて頂きたく、大いなる楽しみが増えました事、ご報告申し上げます。

さて、昨日の事(8月26日金曜日)、
当記事のタイトル(mentor)に関し、大いなる興味を持って拝読させて頂きました。
先に結論を申し上げます。
全く同感、
Mentorという単語、外国滞在中に幾度か耳にした記憶がよみがえってまいります。
ひと昔ふた昔前の若かりし頃の初期段階では、mentorは、聴き慣れない単語の一つでした。意味がわからなかったので、会話の中に当単語を発音し会話に繰り込んできた相手に対し、mentorの意味を質問した記憶もあります。
日本国内においても、今尚、「英語の師」と仰いでいる親しい先輩から「mentorとは、いかなる含蓄を持つ語意なりや?」などと、酒を飲んだ席でウンチクをお聞きした記憶なども、この記事を拝読しながら思い出した次第であります。
以って、
mentorなる単語の意、使い方などなど、総じて、単なる先生または師などというよりもっと深く広く大きな意味があるのであろう・・・
などと、ぼんやりと記憶していた単語のひとつであった事、先生の記事を拝読しながら思い出させて頂きました。

そんなインパクトのある「mentorの記事」、今朝目覚めた時点から再度思い起こし、あらためて『mentor』なる単語を今一度辞書で確認すべし!と、思い立ち、さっそく英英辞典から引き抜きましたところ如何せん、下記記述に遭遇いたしました。

By “The OXFORD American DICTIONARY and Language Guide”
Page 620
MENTOR: an experienced and trusted adviser. [F f. L f. Gk / Mentor: adviser of the young Telemachus in Homer’s Odyssey and Fenelon’s Telemaque]
上記引用の追記:(研究社の「現代英和辞典」<1973年初版携帯版第14刷1987年版より>p804の和訳も、上記[Ff. Lf. Gk/…]内の意が示されております。まさに広淵先生のおっしゃる意の元、であります。が、しかしながら、『経験ある信頼すべきアドバイザー』の意味は表示されていいません。したがって、英和辞書には決して伊藤忠流のアドバイザー的な意の使われ方はしておりません。伊藤忠の使い方が真正面から間違った使い方として解釈せざるをえなくなる。しかし、米語事典としての英英辞典には、まさにアドバイザーとしての意味が主流として解され、ホメロスのオデッセイで使用された意味は、古文的なあるいは外国語流儀としての用法となる、、、。
想うに、当研究社英和辞典の元ネタ?(失礼)は、恐らく四半世紀どころか半世紀以上も前の英国製英英辞典からの引用であったと考えます。尚、語源ならびに50~60年前の常用英語の意を熟知する事は決して無駄ではなく、今尚それなりの英文書物を解するに必要不可欠の辞書であると確信しています。(追記終了)

さて、当該英英辞書は、たまたまシンガポールの大手書店(外資系にて現地紀伊国屋ではありません)で3年前に購入したもの。当時、今後の活動で必要な事もあろうと考え、アメリカンイングリッシュ(American-English)の辞書を求めようと思い立ち、購入したものであります。

今朝、上記辞書の同ページに目をおいた私自身、いささか驚きました。
こうなると、最近発刊された英国版英英辞書(British-English dictionary)をチェックしたくなりましたが、たまたま自宅においておらず、事務所まで出かけなくてはなりません。現時点で比較できなく、お許しください。

当面しかし、
上記から推察すると、
「私自身、mentorの意を、いささか大げさに捕らえていたのか?」
また、
天下の伊藤忠において、その新設部門の専任女性アドバイザーの通称に当てはめても一向に差し支えないのであろうか?
大いなる疑問にも思えてくるのです。
つまり、(Mentor means Adviserとして)すでに現代アメリカで通用し始めている業界(ビジネス業界の意)常用英語と解釈する外ないのでありましょうか。
なんだか、この流れ、「あり得る意味・用法」のような、気がいたします。


さて、軸を少し外れて、

同じような現象は、日本の現代国語にも発生して止まない今日です。
比較的若い世代及び一部業界でさまざまな新語が発生しています。
イケスカナイ現象もあります。
いま、若者の間でとんでもない日本語が使われている現象、強く嫌悪します。
例えば、
電車などに乗っていると、時として女子高生の会話など耳に入ってきます。
これ、まさに女子高生の日本語会話?すんなりとは理解にいたりません。
とりあえず「同じ日本語」が雑音騒音として耳に入りますが、ぼんやり聞いている私自身、一向に意が解せない。結果雑音なのですからわが脳裏には、不快感としての印象が発生します。もちろん、ぼんやりのヒアリングで盗聴を試みているのではないのでして、ゆめゆめ若者達の会話の内容までを解そうなどと、大それた考えは全くありません。無視しますが不快感は残ります。
しかし、もっともっと嫌悪感を覚えるものあり。
週刊誌や新聞の記事などなどマスメディアに見うけられる不必要な「片方ひらがな漢字熟語」は、ことごとく不愉快です。
つまり、
漢字熟語の片方だけ(当用漢字に載っていないという理由だけで?)ひらがなにして漢字二語熟語を表現していたり、「片方ひらがな」のサマにならない漢字熟語がTVのテロップに出てくる・・・
変な日本語を頻発してくると、不愉快になります。
ここまでくれば「ふりがな」を、すなわち、ルビをふっておいたほうが宜しいのではと思います。
漢字熟語たるは、一方の漢字を平仮名表記した瞬間にて、漢字熟語全体もつ意味を瞬時にして失う。漢字熟語そのものの使用意義がなくなる。ならば、源氏物語の真髄まで立ち戻れ。できるものならばやってくれ。いっそのこと大和言葉で表現してみろ!(その実、源氏物語その他やまと言葉を多用した古典は、私の好みではありません)漢文調のほうが、まだましです。要は、まだまだ勉強中修行中のみです。しかし、せめてテロップに出さねばならぬ漢字熟語くらいは下手にひらがな表記するな。ルビ振って正しくFullSpellingにて漢字表記しろ!
ならば納得。我慢してやる。
「面倒云うな!世の流れに従え!」
「・・・」
「ならば、TVなど見なければよい!」
「・・・」
ということになってくる。
なんだかモノゴトを斜めに見ているのは、まさに自分なのだろうか?
若し、そんな傾向あらば、決して好ましい方向ではない!
もう一度問う!
すでに、そんな自分になりつつあるか・・・
そうかも知れない・・・
ならば、
少なくとも、今から十数年は生きながらえたい自分として、いったい何をなすべきか?
などなど、
感じ入って、
気分は、高揚したり、沈滞したり、沈殿したり、
時に芸術鑑賞に逃げ込みつつ、
感慨と感傷に浸りながら、
尚且つ、
いやが上にでも日々年齢を重つつある我が身の衰えを、励ます。
だからこそ、よりいっそう楽しく正しい明日の自分自身を目指し切磋琢磨したくなり、僅かながらも向上を求めて試行錯誤の今日を縷々過ごす、そんな出来損ない人生を謳歌している半端者であります。

まずは初めてのご挨拶を、と試みたにもにもかかわらずの多弁多舌。
平に平にお許しのほどお願い申し上げます。
あらためまして、
今後とも、宜しくご指導下さいますようお願い申し上げます。

敬具

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ほていあおいの花 「友人からの贈りもの」

2005-08-25 13:40:29 | 趣味の話&本と雑学メモ
 先日投稿した例の「釣りたての鮎」の写真を提供してもらった友人US氏から、またすてきな写真が届いた。

この花、なんと、「ほていあおい」の花だそうだ!

あの金魚鉢に入れておく浮き草の「おやぶん」か? いかにもポピュラーな夏の水草なのだが、写真といえども、花の姿を見たこともなく想像したことすらなかった・・・

はずかしながら我輩、金魚はランチュウまで熱帯魚もグッピーからアロアナまで、凝って凝って凝りまくった。このところ、いや、すでに15年近くの浮き草稼業すなわち外国専門旅人家業(たびにんかぎょう)という仕事柄、日本国自宅での熱帯魚飼育中断を余儀なくされたが、今尚一通り通じている、すなわち玄人のつもりである。

また、一段落したらやろうか?始めようか?そろそろ熱帯魚飼育中毒熱中症症候群?すなわち若かりし頃からの持病が再発しかかっている今日この頃・・・

*いや、冬場の保温の為の電気代高いからやばいか?
*再度やるなら最低90センチ以上、できたら2メーターくらいの水槽で始めようか?
*そうなると水槽は特注か?
*魚は?何から始めようか?
*何もかも、いっそ東ジャワか?あるいは、バリ島でやるか・・・

この趣味、いずれにしても熱帯地域で楽しむ方が、全ての経費が安くつく!
そしたら水草手がけようか!いろいろ育ててみたい・・・

などなど思っていたらUS氏がこの写真を送ってきた。

たかだかホテイアオイが、しかし、侮ってはいけないと気が付いた。

こんな綺麗な花をつけるとは知らなかった。

ここまでの花が咲くには、それなりの手入れと管理と愛情がなくては育たない。あらためてUS氏夫妻の「なか睦まじき」姿が目に浮かぶ。

そんな我が友、模範的同級生夫婦に敬意を表しつつ、お送り頂いた「花」をネタに、久しぶりに記事にした。

投稿後雑感:
この花の写真見ていると、
「車寅次郎じゃあるめえし、もうとしだから、いい加減に浮き草稼業から足洗わんかい!」
とか何とか、いよいよ・・・
友人が我輩に忠告提言をしてきたのか?
とも思ったりする・・・

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J.R.Hicks 経済史の理論

2005-08-13 15:08:42 | 趣味の話&本と雑学メモ

ふるい本を引っ張り出すので、お許し頂きたい。

経済学者の大御所 J.R.ヒックス 教授の「名著」のひとつである。

経済史の理論

講談社

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本当は、原書がいい。
『あまぞんドットこむ』ほどの巨大書店に、なんと本書の原書を検索するに、出てこない。何故か!取り扱わない理由など、難しく考える必要はない。要するに読もうとする読者があまりにも少数。つまり、非常に売れない本だからである。
わかりよい英語、ずいぶん綺麗な英語、ヒックス教授の流麗な英文は、たとえ歴史や経済学の苦手な読者であろうとも、本著にて「ヒックス教授の云いたい事」が解かる筈。です!
類人猿に毛の生えた程度(毛が抜けた程度?と表現すべきか)の原始人社会では、何も経済学を通して人間(類人猿)社会を判断する必要はなかった。しかし人間が群れ集まり集団ができた時から、人間と人間のあいだに「格差」が発生しはじめる。つまり、集団のボスとその配下との係わり合いの中からは、おのずと格差が発生してくる。文明の発生は富の発生が源であるからして、いよいよこの頃から「経済」が芽生え、経済学的角度から診れる歴史が発生する。
つまり、まずは村社会をつくり、ボス村社会と村社会が闘争し抗争し、闘争に打ち勝つため工夫した結果が文明の黎明か?その頃から、人間社会の発展の歴史が始まる。が、さらにさらに、近隣部族集団間の富の奪い合いは続く。集積された富のエネルギーで文明が発生。さらに文明の曙は文化の発展に継続され、考える葦である人間はさらに哲学と宗教を発生させ、異なる宗教を基盤とした権力闘争は生まれる。近代的富の蓄積から近代国家の成立、国家間の相克、民族意識の黎明、東西冷戦、延々に長大に後世へ繋がる。もって現代の我々が知る『歴史』がある。
この歴史の流れを、経済学者の切り口をもって違った角度から論ぜられているから、この著書が面白い。
さらに面白いのは、経済のグローバル化についての解釈である。
ヒックス教授曰く、
グローバリゼーションの潮流は、決して最近になって発生したものではない。利権を伴う交流がすでに始まっていたギリシャローマ時代からすでに発生しているものである。別段、近年になって、特に経済学の分からない三流社会学者の間で声を大きくしてグローバル化に反対するまでもなく、経済が拡大し近隣地域から世界にまたがる交流が発展する限り、それに伴う文化の交流は発生し、社会のグローバル化は当然の帰結であるなどなどという「くだり」が面白い。
この著書の基本軸は、ヨーロッパの文化と歴史の発展をベース土台として、英国人理論経済学者の切り口で論ぜられるが、アジアと日本についても触れられている。
ヒックス教授曰く、「日本は、特殊な民族であり国家である!」と、、、
尚、日本経済については、教授はさらに別の著書で語られている。
おっとどっこい!たいへん失礼。
なに、本書の筋書き解説は、必要ない。
読後感(読後観か?)を、締めくくる。
本書は、歴史学者の主たる歴史解析方法、すなわち社会科学として捉えられる歴史を、ヒックス教授は(当然ながら)経済学者として、経済学の切り口から分析し、解明する。すべからく歴史の胎動を経済発展とそれに伴う競争理論の「一点」にて視点を集中し、分析される。理論経済学の手法で世界の歴史を解剖するから、解かりよい。
問と答えが明快になる。
明快だから、読んでいて気分心身ともに壮快になる。

英国での(英文原書)初版は、(たぶん)1963年。
新保博先生(当時・神戸大学経済学部教授)の翻訳本の初版が昭和45年(1965年)。
我輩が本書を購入した時、すでに12刷目。昭和59年10月である。
購入当初、張りきって読始めたが、情けないかな、わずか30ページでGive-Upした。
何故、中途でほうり投げたか?
当時を思い起こせば、本書の内容に没頭する時間的余裕と感性が欠如していたのであろう。
そして(訳本に)再度挑戦し、ようやく読了した。すでに12年前になろうか?
幸運にめぐまれ4年前、シンガポールの古本屋で見つけ入手した英文原書、遅ればせながら読了した。

経済学として歴史を捉えた本著、その読後感想、あらためて回想するに、しかと思い当たる点がある。
それは、
経済学者たるは、競馬の予想屋でもなく占い師の類でもない。したがって何も、経済予測し、言当てる義務も責任もない。近未来、および将来の経済動向を予測する学者は、学者とは言わない。単なるビジネスマンか、あるいは政治屋的評論家である。

しかし本書は、
すでに本書が著述された時代、すなわち1960年代初頭において、Hicks教授はマルクス経済学の学説崩壊を完璧なまでに見通されておられる。加えて当時、すでに東西ベルリンの壁の崩壊を予測されていた。ベルリンの壁の崩壊、ならびにソ連の経済崩壊、マルクス経済学の不成立な理論をすでに喝破されており、全てが見事に的中しているではないか。

歴史を分析し省みるに、まず、イデオロギー論議はまったく不必要!
経済学者の目を通してみた世界史(西洋史)感が、如何に冷静で、かつ的確な歴史分析ができるのか!
上述のワンセンテンスが、我輩の純粋なる感想である。本書は、経済学の基礎のウンチクはおろか、社会科学のなんたるちあ?が全く分からなくても読破できる「常識の書」であると思う。

と云いつつも、我輩が尊敬し傾倒する西尾幹二先生的歴史観は大いに感ずるものあり。西尾先生の歴史認識と見解は、我が国の歴史観に於ける最重要論点と考える。しかし当記事とは組み合わせ不可能であり、すなわち、この場では経済学者の云々を語る。今後、この視点でのわが国の歴史観は、あらためて取り上げたい。

最終章あたりでのヒックス教授の理論展開では、「21世紀の見通し」まで立てられているではないか。振り返ればおおよそ半世紀以前に「構築」された見通してある。
しつこく云っておくが、それは予測ではない。
その内容たるや、なんと、経済学者から見た(理想とする)21世紀とは、古代のギリシャ時代にまで立ち返るが如く、世界にちらばる国家という体制は、その枠をさらに縮小単純にして、「都市国家」的なカタチになるであろう。と、予測をされているのだ。
この表現みごと、含蓄がある。
そう!その通り。
確実にその通りだ!と、我輩は思うのである。
なぜなら、今、今日、この時間に、生き証人としての自分が、こうして21世紀の今日を生きているからである。
生きていて、見ている、自分も実行している。
すなわち、
良し悪し善悪は別として、世界の多様な地域に跨って人間が行き交い、超複数の人間による多種多様雑多な要求と夢を満たす世の中に、今、もうすでになっているではないか。すでに、そんな時代がすでに到来しているではないか!これぞ、Hicks教授のおっしゃる「都市国家的」多様な小集団の現れであると解釈し、もって、Hicks先生の21世紀の予測論と判断する。選択肢の多い、複雑な人間社会の精神的満足と経済的欲求を如何に満たすか!一括りの単純社会ではなくなる!と、明言されているのである。事実、21世紀はそうなりつつある。

21世紀に生きる諸君よ、、、
まず目を見開き、もう一度切り口を吟味し、且つ角度を変え、列強植民地政策主義に翻弄された近世の歴史を再診断させる。決して恨み辛みの余韻を引きずってはならず、さりとて歴史は黙視できない。
以って、けっして歴史は繰り返さない!と、、、
いよいよ読み終えた読者に対し、熟慮せねばならないテーマを与える。いや、テーマを持って将来を模索し、凛と見据えよ!
と、ヒックス教授が示唆されておられる!と我輩は解釈する。

ばかばかしいが、少し話しをマスメディアに転じてみれば、
東アジア3国の、歴史認識云々、靖国参拝云々、戦後60年の節目に云々、終戦の年に云々、、、
何と、くどい!
もう、すでにわかりきった事を言うでない。
マスコミよ、政治家よ、評論家よ、学者よ、教師よ、企業人よ、サラリーマン労働者諸君よ、右翼も左翼も、ばあちゃん母ちゃんネエチャンをひっくるめた日本国民よ、もう少し大人になって将来を冷静に見つめ、先を考たマクロな議論をしてくれないか!
今日、すでに、平和呆け弁当を食べ残した重箱の隅をつつき合ってるときじゃない!新しいもっと中身の美味い弁当を、皆の工夫で作らねばならない時が来ているではないか。

上述の報道、報道に伴う三流評論家による議論、もう、馬鹿馬鹿し過ぎて話にもならない。なかんずく、郵政問題反対論者の言い訳へ理屈なんて子供だましにもならない。永田町ボケというか、世間知らずというか、これほどまでにも馬鹿馬鹿しさが自覚できないのであるから、理解不可能!不思議な世界だ。
だからマスコミの幹部連中よ!いい加減にしてくれ!
画面に出て来るTY各局、分単位にて同じものの繰り返し。
すなわち、同じ絵、同じセリフの繰り返し、時間つぶしはもう結構だ、しっかりと真面目にやってくれ、
きたる衆議院選挙よ、早く終われ!
小泉自民党圧勝の内に一刻も早く選挙を終えてほしい。
我々日本国民には、この先長い長い21世紀の国民の為に、やらなきゃならん事はたくさんある。しかししかし、一番に手を下さねばならないのが郵政民営化。何にもまして、これが将来の改革の第一歩である。早い話(誰も云いたがらないが)、族議員所有の郵貯と名の付くタンス預金340兆を、いち早くタンスから引っ張り出し民間に放出し、国民の幸福と若者の将来の為に有効活用できるよう制度を改めるのが郵政民営化の本質のはず。重要な論点にかすみを張りめぐらし目隠しし、国民に見えないようにしてきたのは反対論者であり、340兆を食い物にしてきた族議員だ。問題をすり替えるな!
さあ、野党はどうか?
単に40万人の郵便局労働組合員の選挙票が欲しいだけであるから、問題は単純である、簡単に見えてくる。単純馬鹿とは、すなわち野党の意味。

思い起こさねばならない「諺(ことわざ)」がある。

『風がふけば桶屋が儲かる・・・』

今、340兆の大風をふかさねばならん。
「外部経済」という理論経済学用語がある。
上記の熟語の意味するところ、要するに、たとえば今日、誰かが10万円使うとする。その10万円は一ヶ月も経たないうちに周り巡って20~30人の手に渡り、金は天下を駆け巡る。10万円が30人の手元を過ぎれば、結果として、10万X30倍=300万の現金が経済社会を動いた事になる。といった意味である。もって、正しく340兆を回り巡らせば、2~3年の間に2~30倍の経済効果がでてくる。これが解からないか!
これをもって真っ当な経済活動という。
しかし、
340兆をもって不透明な使い方をすると具合が悪い。
倒れ掛かったJA?腐りきった道路公団?垂れ流しで残高のなくなった年金基金の補填?族議員の懐などにに入ってしまえば、外部経済効果の本来的効率は、激減する。
もう一度云う。340兆を、世に放出せねばならない!
桶屋が儲かるどころか日本国中に好景気の大津波が押し寄せる。
すなわち、乗算的経済効果による好景気の津波である。
この津波は、人も殺さず家屋も壊滅しない「幸せ」を撒き散らすTSUNAMIである。
断っておくが、「KAMIKAZE」ではない。

この幸せのTSUNAMIを妨害している馬鹿がいる。
おおばかはマスコミ、ますこみがけしからん。
マスコミが(一部マスコミは除く)ここまで「ばかの集団」であるとは思ってもみなかった。あいもかわらず、重箱のスミしか見えないのか!
好きだなあ~重箱の隅がよ・・・

話し戻る。
英語の得意な方、是非原書を紐解かれたい。英文学の書とは違った意味で、英語の読書が楽しめる。格調ある経済学者の著した端正で美しく正しい英語が堪能できるはず、、、。
ゆえに、もう一度、英文タイトルを以下に紹介する。

"A theory of Economic History" by John R. Hicks

なんと、久しぶりに記事を書こうと思い、思ったところが書きかけの未完成記事(当記事)の記事完成に労を費やしてしまった。

実は、書こうと思った記事は、郵政民営化問題である。
一両日に書き、投稿するので是非ご覧頂きたい。
と思っていたが、ついでに書いてしまった。論点の核心からはいささか逃避しているが、核心との間合いは、逆に、ご理解ご納得いただけると思う。
そして、
書きかけの記事を、今こうして書き上げてみれば、さほど関連性がないでもない。

話し戻る、
しっかりと、歴史を通して「ものごと」見定めたい・・・
この著書、偏りがない。
社会科学の粋である。



シリーズ推薦イイ男Julio Iglesiasフリオ・イグレシアス

2005-05-30 07:36:50 | 趣味の話&本と雑学メモ
   
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   クリックする方もしない方も、下記、うんちくをご一読願いたい。
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 * このところ、ランキングが下がりっぱなしなのである!最近押し忘れの方々が多くなった。押していただけない読者もおられるが、これは仕方がない。しかし敢えて・試しに・忘れずに・意識して・無理やりに・お世辞にでも・馬鹿げた事だと思っても、面倒でも時間かかっても、しばらくクリック続けて頂きたい。クリックいただくのは、何百人も必要ない。一回クリックで10ポイントなのだから話が早い。我輩、最近は10人以下の読者にようやくクリック頂いているから、たいへん情けない。
ほとんどの読者はランキングバーを無視!か?
 むごい!
したがって計算上、五人の読者の中たった(わずか)一人の方にクリックして頂ければ我輩はとっくにランキングトップになっている。一度なってみたいものだ。清濁取り混ぜて、是非以下のバーをクリックして先に進まれたい・・・
こういうお願いの仕方、我輩の所作はどうも「日本人的」でないな~
すでに引返せない海外旅行呆けの重症患者ですから、どうかお許しを・・・

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 ここから、本日の<記事本文>


「・・・・・」

「な~んだ、またしょぼくれたドンキホーテの像なんだ、、、」

「・・・!!」

「イイ男って、ドンキホーテの事か?」

いや違う。

本日、スペインの誇るイイ男とは世界の歌謡界を圧巻したかの有名な「フリオイグレシアス」である。
すでに彼のふあんの方、ご賛同の拍手を頂きたい。が、恐らくマイナーである。
ヨーロッパでは、人種階層を問わず女性という女性は今尚彼の大ふあんである。
我が国はどうか?
日本でフリオの美声が響き渡った頃、すでに20数年前ではないか。考えれば骨董品を持ち出したわけであって、今は彼の息子が(稼業?家業!を引き次ぎ?)マタマタ歌手になっている。
我輩、焼き直し的息子の歌はどうでもよい。
やはり元祖フリオがナンバーワンである。

(注釈:このジャケットのフリオの写真、ちょっとにやけている。ひょっとすると間違って息子のジャケット引っ張り出したか?いささか慌てるな~ 良くご存知の方お教えください!)
1100 Bel Air Place
Julio Iglesias
Sony Budget

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例の「あまぞんどっとこむ」から適当に引抜いたのが上記アルバムである。適当に引抜いたから別にお勧めのアルバムではない。何でもいいのだが、こうなったら可能な限り古い時代の(彼のでヴー当時)アルバムがよい。
なぜか?
(1)声に張りがある。
(2)ほんとうに彼に適した「名曲」が収録されている。
(3)唄い方が「惰性」ではなく、売り出す為に「本気」で唄っている。
(4)二枚目は中年になっても好し(我輩は彼の中年にさしかかった頃のムード=雰囲気を、もっとも評価するのであるが・・・)、しかし、彼の若い頃の写真がジャケットになっているので(若干でも)対女性対策(おもてなしの世界)に合致するのではなかろうか?

という理由をこじつける。

(お許しくだされ、また混乱してきた・・)




あ~ 今日もなぜか、ばかげた記事を書いてしまった。


  @@@@@@・・・


読者A:「これでも記事か!」

エ男爵「・・・(読者の罵声は、つらいな~)」

つらい時も、そうでない時もあるな~

読者B:「時に手抜きもゆるそうか・・・」

エ男爵:「・・・ありがとうございます」

エ男爵:「今日はなんだか辛くないぞ」

読者C:「ま~どうでもいいから早くビールを飲ませろ!」

エ男爵:「ハハ!只今、さっそくSanMIBUELでもご用意しましょう!」

読者D:「何打その銘柄は?」

エ男爵:「フィリピンピンビール、いや、スペインが資本を出し比律賓で作らせております」

読者E:「ナヌ?ほんとうか?ま、なんでもいいや・・・」 

 「・・・」



あ~、なんてこたあないぜ、

所詮、ブロガーもサービス業か・・・

このような読者のご要望にもお答えしなければならない。わがエセ男爵の永遠の師「鈍器法手」、いや違った「ドンキホーテ」の画像が、辛さを忘れさせてくれるのだ。

「????・・・」


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拝啓林望さま「著書イギリスはおいしい」によせて

2005-05-24 13:42:18 | 趣味の話&本と雑学メモ
<画像解説>
ブダペストの隠れ家:書斎にて
ブラハルーサーテールの地下鉄駅から徒歩3分、築170年、古いマンションの2F・2LDKである。ブダペスト市街の中心地にあるこの場所、仕事や移動のためのレスポンスは良いが、いささか喧騒な街中の住まい。しかし、一旦マンションの中庭から部屋にに入れば、誠に落ち着いた佇まいの閑静な隠れ家である。 


さて、

  今日も、すこしばかり「気分転換」したい。

 いろいろ選択肢はあるが、時に、読書で気分転換を図るのもよいではないか・・・・

そんな時、お勧めの「一冊」があるのでご紹介したい。


イギリスはおいしい

平凡社

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林望(ハヤシ・ノゾム)氏の初期の著作:「イギリスはおいしい」・・・

我輩が林望氏を知りえたのは、他でもない渡部昇一先生との共著「知的生活シリーズ」の対談集の中である。
渡部昇一先生をして林望氏を最初に知りえたのは一体どうなのか?
なんと、
渡部先生のお嬢様(当時・大学生)が、食事も忘れて懸命に読書しているのをご覧になって、
「何を読んでいるのか?その本は面白いか?」
と、尋ねられたところ、お嬢さん曰く、
「おもしろい!読み出したら、もう止まらない・・・」
それで、渡部先生が、
「そんなにおもしろい本を読んでいるのなら一度自分も読んでみたい」
と、おっしゃって読まれたのがこの『イギリスはおいしい』の一冊であった、といういきさつがあること、我輩どこかで読んだ。
かくして渡部先生の目にとまり、読まれた挙句、
「ウム!この人物おもしろい」
その一言があって、
「是非この人物と対談し、その対談集を出したい!」
との意向を出版社に告げられたといわれる。
そうして出来上がったシリーズ知的生活関係の「対談集」であり、我輩それを読んで林望氏を知り得たのである。

すでにお読みになっている読者も多いと思うが、

 そして、我輩の一言!

 「ことのほか、稀にみる『名著』である」

著者の仕事柄、幾度にもわたって英国に旅し長期の滞在中に体験した「英国の食文化」について、歯切れの良い文章でつずられている。

我輩、じつを申し上げると、林望氏をプロの物書きとして多大なる評価をしているのだ。
確固たる理由がある。
まず、
1)林氏の記述個性が好きである。氏の著作の中でも、特に、この「イギリスはおいしい」が最高で出来である。彼の記述個性とは、すなわち彼独特の筆力であり、とてもとても半端な筆力ではない。すなわち男の書く美文の中のさらに美文である。我輩、もろてを揚げて絶賛する。
2)この著書の中身、すなわち題材に(出版当時<1991年3月初版>は特に!)特異性がある。イギリスの食の不味さは世界に定評がある。その食の貧弱さを乗り越え、皮肉にもイギリスはおいしいと題する林氏独特の食文化に対するふくよかな素養と歴史的経緯がある。おいしくないイギリスの食文化に自らが体ごと入り込み、切り分け裁き食し消化し、そうしてようやく「おいしい」と題する、彼自身の教養深さが満ち溢れんばかりの旺盛な知識欲とたぐいまれな資質の持ち主であると判断する。
3)イギリスの文化人家庭の中に入り込み、食生活と食文化を通して、中流の上のイギリス人社会を観察しきった上で、我々日本人読者に懐深くゆとりを持って紹介してくれる。
4)著書の要所要所に鉛筆描きまたはペン描きの簡素なスケッチ画が出てくるが、これの一々がなんともすばらしい作品なのである。おおよそこのたぐいの本には執筆家と挿絵画家が一対になり、一冊の本を創りあげるが、何と何と、どのスケッチを見ても林望氏のサインがあるではないか。最初にこの本を手にしたとき、にわかに信じがたかったのは、林氏の絵の上手さである。これまた半端な人ではない。

この出版の後、何故かチョイと調子に乗って「恋愛小説」を書いているが、これが最悪であった。彼は「恋愛」が語れない作家である。どろどろした男女関係が書けない『人』であるとみている、が、それはそれでよろしかろう。

年齢的にもほぼ同じ著者林望氏に対して、ついつい競争心対抗心が沸き立ちライバル意識が先行しがちであり、こういう人物とは素直に仲良くしたくないのであるが、しかし、林望氏は我輩にとって「いい男」の一人なのである。

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師と称するに値う人物也:司馬遼太郎先生

2005-05-14 13:47:04 | 趣味の話&本と雑学メモ

たしか、五月連休前、

渡部昇一先生の記事を書いた。

今日はどうしても司馬先生をとりあげたい。

はたまた我輩の勝手により司馬遼太郎氏を称し『師』、すなわち先生と呼びたい。


項羽と劉邦 上巻 (1)

新潮社

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未熟者の我輩が、最初に読んだ著作が「項羽と劉邦」。ページをめくった時期は、はずかしながら1987年の12月上旬である。

始めに、その切っ掛けを話す。

ある地方都市で、当時にすればかなり大きな国際イベントのプロデュースを終えた。結果絶賛を博した割には利益確保が儘ならず、意気消沈していた折、ある行きつけのスタンドバーのママさんから、
「これ、読んでごらんなさい・・・ もっと気分を大きくして次の仕事に取り組まれたら如何?」
と、一言、、、。
一人で自棄酒飲んで帰り、
冷え切った布団にもぐりこみ、
「面倒だが、どんな本か?チェックだけして、そして眠ろう・・・」
と思って本を開いたが最期、翌朝までかかって25%、
明け方ひと眠りして昼前にまた起きてページをめくる。
翌々日の早朝までに、(全3巻の内)ママから預かってきた第一巻をようやく読み終えた。
まさしく寝食忘れて読書に没頭したのはこれが初めての最期だった。
その日のうちに2巻3巻を本屋で購入し、3~4日で読破した。
読んだ後、思った。
些細瑣末な事、つまり利益の出なかったイヴェントのことなど、俄然忘れた。かわって全身に駆け巡った空想の血潮がざわめき、紀元前、壮大な中国大陸での相克の歴史パノラマに、熱く心をときめかせたのである。

この国のかたち〈1〉

文芸春秋

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さて、今、
「項羽と劉邦」の感想文を書く意図はなく、司馬先生と不肖我輩の出会いを紹介したまで。

それから今日まで、まだまだ全作品には及んでいないが、事あるごとに司馬遼太郎先生の「本」を読んだ。
そして何が云いたいのか、さわりを申し上げよう。
まず我輩は司馬遼太郎流「日本語の書き方」が好きだ。
大阪外国語大学蒙古語専攻の師は、当然ながら漢文の素地が出来ている。たしかに、ある種の読者には漢字多く回りくどく読み進めるに「不適切」な書き方と思われる面があるやに思う。まして我輩漢文は大の苦手、しかし現代国語も苦手、まともに勉強した記憶が無い。しかし司馬流文章には、「大和ことば」に無い漢文調子独特の歯切れ良さが伺え、これを調子良いと思えば、それ、その持ち味が大好きなのである。

ここに、「この国のかたち(第一巻)」を挙げた。
東欧に往きはじめた1992年、飛行機の中の読み物がほしくてこの第一巻を購入。日本を出発してからハンガリー・ブダペストにたどり着くまで延々16時間(スイス航空にて、チューリッヒでの乗り換え時間とブダペストまでの計4時間を含む)、この1巻を丹念に読んだ。
その後約1年と半年にわたり、ヨーロッパに出向くたびに全6or7巻を買い足し、読んだ読んだ。
我輩をして、司馬遼太郎氏を師と仰ぐ切っ掛けになったのが「この国のかたち」のエッセイ集である。
師の、著作の一大基本をなす綿密な歴史的考察の積み重ねと実体験をベースに、師の看る「我が国日本」と「日本人」観が、この本に籠められている、、、。
思想に対し、信じがたいほどに偏らない師のバランス感覚、、、。
且つ、確固たるプリンシプルを持ち合わせた、強い意思の持ち主。

もっと長生きしてほしかった人、その一人が司馬遼太郎である。

我輩は今、あらためて4回目を通読しようという気持ちになっている。

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<写真の解説>
撮影場所:東ジャワ州・ブロモ火山の外輪、さるリゾートロッジのテラスにて。標高200メーター近くになると、例えインドネシアのジャワ島といえども気温が低い。時節はすでに雨季に入った、どんよりと曇った12月の遅い午後。このときすでに20度を切っているか、まことに肌寒い、朝の気温は15度を切る。
雑感:このロッジに約1週間、長居した。本がよく読めた。渡部昇一先生的「知的生活」の真似事をしたわけだ。同じ真似事でもこの辺りで真似ると「エセが本物」に感じられる。ま、誰が評しても読書には最適な場所にはまちがいなく、それがブロモ火山の山懐にある山荘、当ロッジのこのテラスなのである。
よう!ちょっと待った、君たちよ、、、
あまり熱くなりなさんなって、、、
そうそう・・・・
なにも、バリ島だけがインドネシアじゃないのよ。
な、いいな、これ、今日のこの気分、わかってよ・・・。

尊敬できる女性:曽野綾子女史

2005-05-06 06:45:35 | 趣味の話&本と雑学メモ
   
数少ないが、尊敬できる女性がいる。

  曽野綾子女史、、、。

女史の小説はあまり面白くないが、ある題材を基礎にした一連の随筆にはたいへん興味があり、読めば逐一、まことに面白い。そんな女史の著作を通して、我輩は彼女の大フアンになり尊敬し今日に至っている。
女性特有の感情の粘着性が希薄であるからサクサクと、つまりCrispyに読みすすめれるので爽快感がある。もちろん読後感も重っ苦しくなく胃にもたれない。
しかししかし、女史の理論展開は整然と、且つ、たたみ掛けが、鋭い。
これが我輩をして「痛快」にしてくれるのである。

気に入っている著書の2冊を紹介する。(すでにお読みになった読者には、請御免!)

現代に生きる聖書

日本放送出版協会

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我輩、キリスト教とはなんら縁もゆかりもない人間である。

「西洋史」を紐解くと、どうしてもキリスト教に関わる基礎知識がないと理解不行き届きになるは、必定。
加えて昨今、ヨーロッパ諸国を旅すると、大中小あらゆる都市や集落には必ず教会が存在し、教会の建物なくして、ヨーロッパの街並みは、その景観を成しえない。ヨーロッパ社会とのかかわりを断ち切るわけにいかない現代人として、どのみち、キリスト教の存在を無視できない。キリスト教文化圏に足を一歩踏み入れるゲートウエイ(Gate-Way)を探すなら、同著は、格好の一冊である。

同著の各章、聖書の一節を取り上げ、女史なりの解釈を現実世界に照らし合わせて書き下す。起承転結の理論展開、知る人ぞ知る意外と生生しい聖書世界の人間の葛藤を抉り出し、聖書の生まれた数千年の時空の隔たりを超越し、堂々と現代世界に通用する聖書の中身を分かりやすく解説し、かつ、同女史の得意技を持っての理論整然とした前向きな結論の締め括り、清々しくも見事。その一言につきる。
(一言ではすまなかった、かなり長かった・・・)


もう一冊ある。

中年以後

光文社

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これ、中高年のバイブルです。
しかし、全くハシにも棒にもかからない頑固一徹中高年にはお勧めできない。
我輩、取り合いません。
若者と、現代の社会と、中高年齢層の人種が、如何に折り合いをつけるか?
折り合いをつけて生きていこうと考えている中高年、あるいは、中高年予備軍、必読の書です。
女性が読めば、井戸端会議に参加しなくて済む。
男性が読めば、定年退職後のうつ病にならなくて済むか。。。
難しい事考えず、まず読まれよ、、、
読んでる人は感想をお聞かせ下され、、、

 なんだか今年のゴールデンウイークは、女性週間になってしまった。

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写真資料:
ハンガリー・ブダペスト
コシュート・ラヨシュ通り、「アスとリア」から「ヴラハ・ルーサー・テール」の地下鉄駅区間にある、有名な(現地人の間で、観光ガイドブック案内に無し)、築400年くらいの古いカトリック教会。
東京で云えば、新橋か神田か。とことん街中にある築200年くらいの古い骨董的マンションに下宿している小生の「隠れ家」から、徒歩で約7~8分間の距離、地下鉄の駅と駅の間にあるから乗ると通り過ぎてしまう。
いわゆる、「ご町内の教会」である。
教会の中に数回入った経験がある。一度だけ、クリスマスのミサの時、物見遊山で嫌々(いやいや)入った。えも云えぬ「荘厳」に打ちひしがれそうになったので、我輩だけ教会の外に出て、同行者を待った。いかにも、こんな時に中では待てない!然る年の12月23日、雪、午後8時過ぎ、真っ暗闇。10分間だけ待ったが、寒かった。
待ったその後、先隣のレストランで飲んだパーリンコのダブルを、喉越し一気に飲んだ。梨をベースにした強いリキュール、食前酒だが、かなり強い。なぜか、ハンガリー人は好んで飲む。ドカッと胃袋にこたえた。直ちに、ビールを飲みなおした。落ち着いた、、、。
断っておくが、この話、曽野綾子さんとは全く関係ないので、無視してほしい。
聖書の話の後、アルコールの話しをするとは、いかにもエセ男爵、不謹慎極まりない。
大意はない。ま、こんなものです。

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ロバートキャパによせて「ジャーナリズム・一考」

2005-05-03 02:11:01 | 趣味の話&本と雑学メモ
  
    今日は、ちょいとまじめに考えたい。

   しかしリラックスモード、連休モードでお聞きいただきい。

  そして、ご一緒に考えていただければ幸せである。

 少し少し長くなるので、ひとまず本文に入る前、

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  +++++++++++++++++++++++++


2005/2/3

タイトル:「ロバート・キャパに寄せて」

(紛争戦争危険区域に於ける ジャーナリズム 一考)



db師、Tyさま・・・・

両氏の先のご投稿、ジャーナリスト論、大変興味深く何度も何度も拝読させていただきました。
ありがとうございます。
長年、ジャーナリストとは程遠い世界で生きてきたものの、今なおジャーナリストの世界を走り抜ける人達に憧れと尊敬の念を抱くものの一人であります。

しかし話題の切り口となった「くだり」について一言。
今日の(昔はなおさら解りません)、一般的日本人ジャーナリストの持つ、無防備さ・幼稚さ・無知さ、非常識さなどが目立ち過ぎ、鼻持ちならないのです。
思えば思うほど、日々の(一部?)新聞社掲載の狭眼偏見記事、NHKをはじめとする「テレビ屋」が垂れ流す金太郎飴的ニュース報道番組など、垣間読み見れば、報道内容の軟弱さと、「知識的無防備さ」、まして「倫理・理念のなさ」に辟易しているのです、が、如何でしょう?
日本人報道記者たるや、明治の昔から「こんなに体たらく」な輩の集団であったのでしょうか?
ジャーナリストの世界に比較的(あるいはまったく)無知な私には、考えれば考えるだけ、おもえばおもうだけ、不可解で仕方のない世界なのです。
さらに、ジャーナリストという職業のみが、危険な地帯に入らねばならない「職業」ではなく、危険な地帯に入っている日本人ビジネスマンも数多く、ましてジャーナリストの行き来しない地帯で活躍している一般(政府関係者と区別する意味)日本人の活躍を忘れるわけにはいきません。
血とシャンパン―ロバート・キャパ その生涯と時代

角川書店

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さて、かの著名な戦場カメラマン、ロバート・キャパ氏はインドシナ戦争の取材中、不幸にも流れ弾で負傷、即死だったか?は、ともかくも、兵士と兵士の戦う戦場で亡くなられました。
幸いにも数年前、某地方美術館で彼の作品展が開催、期間1ヶ月間その間に2回、キャパの写真展を見る機会にめぐり合いました。第二次世界大戦欧州(西部)戦線の取材もさることながら、その火種となった「スペイン内乱」当時、現地スペインで撮影された作品に、心打たれるものがありました。内乱により、生活の基盤を失ったスペイン市民の悲惨な生活を取材し、その作品群に、「悲しみ」、「憎悪」、「激怒」と、つかのまの「悦楽」などなど、あたかも昨日の出来事のように現実世界の悲惨さを訴える迫力あるモノクロ写真空間に、説明しようのない「芸術性」を感じ取ったのであります。無論、戦場でのショットだけではなく、当時の著名人や女優、政治家などなど、スナップ写真なども展示されており、鑑賞すればするほど、戦場カメラマンというレッテルを以ってして尚、本来的にキャパの持っていた写真芸術家としての優秀さを理解納し得たのであります。
キャパ氏を職業別に呼称すれば、それは「写真記者」ということになるでしょう。物書きとしてのジャーナリストとは本来「区分け」しなければならないでしょう。しかし、情報の伝達のプロとして、写真家や映像作成者(今日的にはVTRも)は、ジャーナリズム世界から決して外せないでしょうし、たまたま私が往時の有名物書きを知らないので、ここに報道写真家としてのキャパを(話の行きがかり上)引き出したのです。
ロバート・キャパ―ちょっとピンぼけ 文豪にもなったキャパ

クレオ

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キャパ氏と照らし合わせるまでもなく、もちろん橋口さんの「死」は、覚悟を持っての結果でしょう。
橋口さんが生前に語られた「フリージャーナリストの立場論」、理解できます。が、あらためてお聞きしても、これ、さしたる印象や感動はなく、ごく当たり前のことを当たり前に発言されたのだ、と思うだけなのです。
フリージャーナリストが「ねた」を求めて危険な地帯に顔を出さねばならない、それはないでしょう。橋口さんが、ご自身のジャーナリストとしての理念を確立され、信念をもたれて戦場とおもわれる地域に赴かれたのであれば、ご立派であります。無論、氏は、長年のご経験に加え、すでに十分な危機管理の意識をお持ちのはず。こんな事態になる覚悟と「命にかかわる危険もあり」との予測のもとの行動であり結果でありましょう。フリーではない、企業(メジャーの新聞社TV局などに所属)のジャーナリストとなると、これは(戦場テロその他などの)危険地帯にあえて赴かなくてもいいのか?
この論点、少し飛躍であって、論旨が狂って来るのではないでしょうか?

では翻って、大手の報道関係会社に所属するジャーナリストが一番危険とするものは何か?
危険は、外部のそれではなく、内部の危険が最大のものである、と、思えてなりません。
聞けば、サラリーマン化している大手のジャーナリストは、直接危険地帯に出向くことなく、しかるべく下請け的末端の家内工業的フリ-ジャーナリストにはね任しているとの事。
とるべき任務を最初から放棄した大手ジャーナリス連中に対し、あらためて考えさせらるものがあります。

CAPA’S EYE―ロバート・キャパの眼が見た世界とニッポン

学習研究社

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ここでまた、ロバートキャパを思い浮かべます。
キャパの死は、たしか、自ら志願して「米国陸軍の取材記者」と云う立場で戦闘中の歩兵部隊に入り混じって取材中の惨事であった、と記憶しています。見えない敵の銃弾で命を落とした、彼の死は、ある戦場の一兵士の目線で戦場を捉え、最前線でしか「見えないモノ」をレンズで捕らえることに専念し、報道写真家としての使命を全うしたと思うのです。しかし、これ、後から「部外者」が考え、理屈をつけたものなのでしょう。
私観では、キャパの人生、「真面目に・芸術的に・面白く・楽しく・愉快に」生き、そして華々しく散っていった、悔いのない人生であった、と思うのであります。そんな機会が訪れるでもなく、機会なくしてできないが、できれば、私の生き方、キャパにあやかりたいものです。

さて、戦場とは、兵士とは、殺戮とは、、、
先にまず、テロリストや強盗は除外してみます。
人間という生き物が、
望んで兵士になる、望んで将校になる、なりたい、そういう思考の人物は意外と多く存在するでしょう。しかし戦場の最前線に望んでいく兵士は、かなり稀でしょう。
今も昔も地球上から戦場が絶えて無くならない。
平和は万人が望むもの、だから平和と安全は自が作り、今日の安全は、他人が守ってくれるのではなく、自らが自らを守るものであるか。
守るためには、国・市民国民の「覚悟(憲法改正)」と、守るべき「備え(自衛の為の真の軍備)」が必要なのは、日本の非常識であるが、世界の常識であるか、、、。
かくして戦場には、最前線の殺戮現場には、宗教観も哲学も、政治も経済的損得勘定も何もない、と、考えます。戦場、まして最前線となれば、好むと好まざるにかかわらず、そんな修羅場に臨み居合わせた人間は全員、アドレナリン全開の死狂気の沙汰であるから、「こちらの常識論、知性、一般論、危機管理」的な合言葉の存在を考える段ではなく、宗教の、異教徒がどうだ、こちらの常識では、善意だの、といった「うんちく」を言っている場合ではない、と思うのです。
相手を殺すか?さもなくば、こちらが殺されるか?のいずれかの立場です。これが本論の理解のターニングポイントです。
今のイラクは、無法地帯で無法者が暗躍ではなく跋扈しているのが現状なのでして、危機管理とは、常識論とは、善意の発想とは何か、突き詰めれば、そういう地域に足を踏み入れる前に「熟慮すべき内容」ではありませんか?

今、わが国で上記のような危険地帯に足を踏み入れなければならない人たちとは、
政府関係者、
ジャーナリスト、
自衛隊(日本陸軍と、言い切りたい)、
軍属(軍隊補佐のための民間人)、
無法地帯以前から当地域と関係のある企業人、
その他、(これが問題になっている区分けか?)
となるでしょう。

現在のジャーナリズムの世界がどうなっているか?まったくの専門外でよくわかりませんが、これを一般民間企業ベースで例えれば、そして(ある人種にとっての)危機管理のトップに上がるものは、
「組織内での自分の立場を守る」
という内部組織における危機管理感覚が最高位に上がるのではないか?と、考えます。無論、これと真っ向から反対の立場を取る「理念」をお持ちの人も、数多くいるはずです。
さらに危険な外国での取材については、どうか?
論点は全く別にある、と思うのです。
再度、ジャーナリストという「枠」を取り外して考え論するべきか、と。
思うに、振り返るに、
今日のジャーナリズムは目先の先急ぎばかり、で、いつもながら?、過去の事件についてどうなったか、追跡的報道がない。何故なのか?
数年前、あるいは十数年前、華々しく報道された事件でいまだに未解決のものが多々ある中、政治的に?何かを隠さざるをえないのか?見聞きしたいと思う過去の報道の「その後」の結末など、もっともっと市民に知らせなければならない「不完全報道」や「いわざるトピックス」など限りなく、目先の断片的ニュース伝達に明け暮れてか圧されてか、報ずるべき過去の事件・報道の取り残された部分を蔑ろにしているのではないか。と、感じます。

今年に入り、「赤い風船」の全省、読了いたしました。
コンセプトは「ジャーナリストの原論」であるか。
これを職業とした世界の本質、その追及がテーマである、と、かんがえます。
この掲示関連トピックス同様、ジャーナリスト世界がいかに屈折歪曲しているか、騙し、裏切り、競争、背徳、正義、理念、理性、などなど、ありとあらゆる形而上学的形容詞や名詞を並べ立てても語りつくせない「深遠・難解」なものであるか。ようやく、「まだまだわからない」ということが、すこし分かりかけています。

ああ~ 小説執筆は、難しい!
立案し創作・推敲、そして完成させる、この作業、如何に難しいものであるか!!
ひたすら執筆。前に進めなければならない、仕上げなければらない「執筆という宿題」から一呼吸、つまりは一時逃れたい気分から、あえて暇を作り、止せばいいのにdb師の掲示板に投稿しました。
          < 完 >

渡部昇一先生(1)

2005-04-29 12:57:02 | 趣味の話&本と雑学メモ
どうも教育者の中にはあまり好ましい人物が見当たらない。

若い頃、実業家や企業人以外の人種に眼を向ける暇がなかったのかもしれない。

今、好きな学者がいる。
いや、たまたま好人物尊敬できる人物が、学者であった、という方が正しいかも知れない。
尊敬する人物とは、、、
現在、たしか上智大学の名誉教授、渡部昇一先生。
むかしむかし日曜日の朝のTV番組に出演していた頃、歯に衣着せない発言をする一見ひ弱でしかし骨のある「おじさん」の印象が氏との出会いの始まり、英文学の教授にもかかわらず政治経済に物申す人物であること、(当然ながら)本を書いていること、「超タカ派」なコンセプトを持っている人物であること、そんな予備知識はあったが、ほんとうに渡部昇一氏を師と思うようになったのは、その後になって数冊の彼の著書を読んでからの事である。したがって氏の著書を購読する以外、氏から直接の師事を仰いだこともなく、一度も直接にお会いしたことはないが、あえて先生と称したい。

このごろ、人生の折り返し地点を曲がってなおひたすら歩み続ける中、いまだ見えないゴールをわずかながらも意識するようになった。
もうここまでくれば、あわてる必要はない。
そんな中、今まで見えなかったものが、おぼろげながらに見えてきた。
いや、今まで欲していなかったものが、欲しくなった。
しかも貪欲に、である。

知的生活の方法

講談社

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この本、初めて入手し読んだのは、かれこれ十二~三年前のことである。
面白いから、半日で読破した。
そして、
その読後感、、、、
にくいほど「ゆとり」を感じさせる ”渡部昇一”的な「ものの考え方」を叩き込まれた、、、。
が、それを実行するには程遠い「現実の修羅場」に我が身をゆだねていた。
そして3ヶ月前、また読んだ。
渡部先生と全く同じ「知的生活」はできないにしても、今、「エセ男爵流」知的生活なら実行実現できそうな気がする。

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PS:
 せっかく「建てたグロブ」であるから、多いに自分の気ままも述べてみたい。 今後、時々は「好きな本」「好きな作家」「好きな音楽」「好きな映画」、、、過去触れたもの、今触れているもの、今から触れてみたいものなどなど、つれずれに「自己満足紹介」してみたい。