Negative Space

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フェルメール的な映画作家:田中絹代の『女ばかりの夜』

2018-05-03 | 田中絹代




 田中絹代『女ばかりの夜』(1961年、東京映画、配給・東宝)


 赤線の娼婦の更生施設を経て社会復帰をめざす女性(原知佐子)が、世間の壁になんどもぶちあたっては挫折しかけるが、一部の理解者らを心の支えに前向きに生きていこうとする。

 逃れられない過去という宿命論によって本作はフィルムノワールの系譜に位置づけられるとどうじに、そうした宿命論への執拗な抵抗においてアンチ・フィルムノワールと名づけることもできるだろう。

 ちょっぴりだが“女囚もの”の香りも。ただし所長・淡島千景以下の“看守”は善意のひとたちなるも徹底して無力な存在として描かれる(施設では「知能指数」および性病の有無による隔離政策が敷かれている)。あるいみでは女囚もののあからさまに抑圧的な看守以上にたよりにならない人たちなのだ。

 監督デビュー作『恋文』につうじるテーマを扱った力作であり、今村昌平もしくは鈴木清順あるいは岡本喜八はたまたひょっとして増村保造さもなくば川島雄三が撮っていたとしてもおかしくないとおもえるほどの堂々たる語り口の歯に衣着せぬエネルギッシュな映画であるが、ぎゃくにいうと演出に田中ならではのものがかんじられず、物語展開も人物造形も型通りにすぎて驚きや発見があまりない。

 けれども手紙というモチーフへのこだわりはそのひとつかもしれない。教育のあるなしにかかわらず、田中映画のヒロインはすぐれて文をかわす女性である。画面上ではそれが手紙を書く、もしくは読む女性(おそらく『恋文』の森雅之もそうした“女性”たちのひとりである)のフォトジェニーとして定着される。そのかぎりで田中絹代をフェルメール的な映画作家といえるかもしれない。

 脚本・田中澄江。中北千枝子という女優の芸達者ぶりにはいつもながら驚かされる。たとえば高峰秀子や原節子がいなかったとしても成瀬映画はじゅうぶんに成立するが、中北なしに成瀬は絶対に巨匠たりえなかった。ここでの夫・桂小金治とのかけあいも絶妙。


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