Negative Space

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監督・田中絹代の隠れた大傑作:『乳房よ永遠なれ』

2018-05-01 | 田中絹代




 田中絹代「乳房よ永遠なれ」(1955年、日活)


 歌集『乳房喪失』で知られる歌人・中城ふみ子の伝記映画。ふみ子は1954年に逝去している。映画的なダイナミズムにあふれた、ちからづよく、はげしくこころゆさぶられずにはいない傑作である。

 思いを寄せる男(森雅之)がありながら親に不幸な結婚を強いられたふみ子は、短い人生の最後に若い記者とつかの間の、最初で最後の恋に落ちる。

 映画はふみ子をあっさり、美しく死なせない。映画の後半は闘病生活の息苦しい描写がつづくが、これはメロドラマの押し売りであるどころか、いわばその描写のくどさそのものによってヒロインの生命力の勁さを表現している。本作がメロドラマの誘惑に屈することは一瞬たりともない。月丘夢路一世一代の名演に刮目すべし。

 縦の構図が効果的に使われる。たとえば、離婚した夫の許へと去る息子のうしろすがたを二階の窓から見送るショット。そして同じアングルのショットが、ラスト近く、東京へ呼び戻される記者(葉山良二)を最後に見送る場面でも反復される。

 それ以上に、病院の中庭をよこぎって向かいの病棟へとつづく長い通路はその最たるものである。

 最初にこの通路が画面に映るのはふみ子の母親と見舞いに訪れた親友(杉葉子)の目をとおしてだ。薄暗い通路をとおしてくだんの病棟から女性の泣き声が聞こえてくる。「今月に入ってもう三人目ですって……」。

 すこしあとの場面では、ふみ子をたずねてきた記者が通路の向こう側に目をやり、「陰気だな」と顔を曇らせる。

 ついである晩、同室の老女(飯田蝶子)が別の病室に「引っ越し」た直後の場面。夜中にベッドのなかで創作中のふみ子が壁越しに女性の泣き声を聞きつけ、そのまま泣き声に誘われるように病室を出て行くと、キャメラがかのじょを追って廊下に出る。キャメラは看護師らが担架を押しながらフレームアウトするのをショットの端で一瞬だけ捉える。手にした歌帳を落とし、そのまま夢遊病者のようにそれについていくふみ子。闇のなか、遺体を乗せた担架がくだんの通路を進んでいくのをキャメラは前進移動で追う(誰の遺体かはわれわれには知らされず、看護師らの顔も画面には映らない)。ついていくふみ子をとらえた後退移動のショットに切り返し。担架が通路の果ての病棟の敷居をまたぐと、ふみ子の目の前で鉄柵が轟音とともに閉められる。柵を閉めた職員はふみ子の存在に気づくようすもない。鉄柵をつかんで薄暗い扉の奥を見きわめようとするふみ子。ふと顔を上げたふみ子の目に「遺体安置室」の文字が飛び込んでくる。恐怖におののくふみ子のアップ。パニックを起こしたふみ子は振り返り、二、三歩あともどりしたところでその場に倒れこむ。照明ひとつない通路に戸外の光源から格子状の光線が差す表現主義的なライティングがこの場面の異様さを際立たせている(『月は上りぬ』で北原三枝が横切る夜の廊下でも似た照明が使われていた)。

 そしてこの通路が最後に現れるのは最後から二番目のシーンにおいてである。今度は担架に乗せられているのはふみ子自身であり、担架をについてきたかのじょの二人の子供の目のまえで鉄柵が閉められる。鉄柵の向こうに消えた母を呼ぶ子らのシルエットが溶暗する。『ショック集団』のサミュエル・フラーを除いて病院の長い通路をかくも不気味で運命的な空間として画面に定着し得た監督をほかに知らない。

 二度に及ぶ入浴場面は『乳房よ永遠なれ』の成瀬的な側面といえるかもしれない。あまつさえ最初の場面で湯船につかっているのは森雅之であり、キャメラの右正面に象嵌された浴室の小窓から妻の杉葉子が顔をのぞかせて湯加減を尋ねている。二度目に同じ浴室が現れる場面は、浴槽のなかの女性の腕のアップではじまる。心地よさそうに腕をさすっているのはふみ子である。病気のせいで幼児返りが進行しているふみ子は、かつて愛した森雅之がつかったのと同じ浴槽につかりたかったとその妻に向かって無邪気に言う。先行するシーンと同じ杉葉子が同じアングルでとらえられた小窓から顔を開けて顔を出すが、乳房を除去したふみ子の胸部をまともに目にして驚きのあまり「ご免なさい!!」と叫んで乱暴に小窓を閉める。それと同時にふみ子は頭を浴槽に潜らせる。壁にもたせた腕に顔を伏せて荒い息遣いのまま自分を落ち着かせようとする杉。乳房を除去したあとをみてくれとふみ子が小窓を開ける。小窓ごしに浴室のふみ子が見える(胸から下は死角になっている)。恐怖に怯えた杉は体を背けつつ「ばかなこと言ってないで早くあがりなさい」と平静を装おうとする。月丘と杉の真に迫った演技が凄みを帯びる。女性監督にしてはじめて撮れた場面ではないか。ちなみに成瀬映画における杉葉子という女優の日常的身振りの的確さと優雅さは田中絹代も評価するところであったのであろう、『月は上りぬ』につづいて杉の着替えの場面をまたも登場させている。月丘が胸パッドと乳当てを装着する場面もある。ラストちかく、病室で記者の葉山良二に愛撫をねだる場面では、ベッドの上に置かれたままの胸パッドと乳当てが涙を誘う。

 本作にかぎらず、田中作品における窓越しのショットの多さも成瀬的だ。ふみ子と記者の長い言い合いは病室の窓の外から鉄格子ごしにとらえられ、愛の成就の不可能性を暗示する。鏡の使い方も面白い。杉がはじめて見舞いに訪れる場面は、病室の壁にかけられた鏡ごしに登場する。ふみ子が最後に葉山良二と視線を合わせるのも手鏡ごしのことである(葉山が不意に病室に戻ってきて、自分の顔を見るふみ子の背後の扉を開ける)。

 ふみ子が森雅之と最後に別れる場面は、雨に濡れた地面を映した俯瞰のロングショットに雨傘がフレームインするところからはじまる。キャメラはそのままバス停まで並んで歩く二人のすがたを移動撮影で追うが(『恋文』の靖国の場面のような強風が吹きすさんでいる)、バス停にたどりついた二人が立ち止まったあともそのまま移動をつづけ、すこし先から振り返って超ロングで二人を捉える。画面右側に写り込んだ糸杉のような三本の背の高い木がわれわれの視線を惹きつける。このすぐあとの場面でわれわれはこの奇妙なショットが森の死を暗示していたことに気づかされる。

 ふみ子が病院を抜け出して小学校の息子のようすをひそかに見に行く場面もすばらしい。宙を飛ぶボールのショットにつづき、ホイッスルを吹きながら生徒らを指導中の杉のショットが映る。ついでグラウンドの端へと転々とするボールを追う息子を移動で捉えたロングショット。百葉箱の影からそのボールを受け止めて息子に転がしてやる手のショットにつづいて息子を幸福そうに見守るふみ子のアップがくる。息子は手の主が母親であることに気づくことがない。今を盛りと萌え立つ自然とおもうさま戯れるふみ子のショットに自作の歌が字幕でかぶさる。

 前後するが、タイトルバックではまず豊かな乳房の女性の彫像が大写しになり、つづいて晴天を抱く洞爺湖のショットがくる。女性像は皮肉なことに病に倒れたふみ子に贈られた短歌賞の記念品となる。そして女性の象徴ともされてきた乳房を喪失することでふみ子は女性として花開く。映画はタイトルバックと同じ洞爺湖のショットによって幕を閉じる。