Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

田中絹代は日本のダグラス・サークである:『流転の王妃』

2018-05-02 | 田中絹代



 田中絹代「流転の王妃」(1960年、大映)


 天城山中。薮に仰向けに横たわる片方の靴が脱げた女性の足、打ち捨てられた学帽、女学生の血の気のない顔のアップ、その顔を赤いブランケットで覆う女性の手のアップをつぎつぎ映し出す簡潔でスピーディーなモンタージュ。手の主はやつれた老けメイクの京マチ子である。かのじょが遠い目で前方を仰ぐと、色づいた銀杏の葉叢をバックにタイトルがあらわれる。

 キャメラがそのまま銀杏並木のあいだをクレーンでゆるやかに下降すると、画面右側から赤い表紙のスケッチブックとバッグを抱えた手に白い手袋をはめたセーラー服姿の女性(顔は映らない)がフレームインして足早に舗道を横切る。彼女の背後からこんどはカーキ色の軍服をまとった兵士らの隊列(やはり顔は映らない)がフレームインして、かのじょが横切ったばかりの舗道を軍靴の音も高らかに行進していく。立ち止まってかれらを眺める女学生は若き日の京。つづけて足早に行進する軍人らの足のアップを画面手前にとらえ、その奥にかれらと並行して歩道をゆっくりとあるきながらときおりかれらのほうをみやる京を小さくとらえるダイナミックな移動撮影にかぶせてクレジットが連ねられる。

 のっけから映画的な躍動感にみちた上々のオープニング。このタイトルバックのためだけでも一見の価値がある作品だ。

 前作『乳房よ永遠なれ』どうよう、ベストセラーとなっていた同名の原作をいち早く映画化。あいかわらず時流に聡い。いまの目でみると極端に省略的なアヴァンタイトルも、同時代の観客にはすぐに“あの事件”だとピンと来たわけだ。脚本は市川崑の片腕・和田夏十。京が『楊貴妃』につづいて中国の悲劇の要人を演じる。

 望まぬ結婚によって時代に翻弄される女性像は『恋文』『乳房……』を引き継ぐものだ。映画は記録映画さながらにヒロインのたどった数奇な運命を淡々と追いかけるだけだが、随所にヴィジュアル的な創意が盛り込まれて飽きさせない。

 サミュエル・フラーの映画どうよう田中の映画はしばしばエスタブリッシング・ショットを欠き、異化効果によって観者を不意打ちする。タイトルバックとどうよう足元のショットから入る場面が多いようだ。たとえば着物の女性と軍服の男性がはげしくもみあう下半身のショットがいきなりでてきたかとおもうと、女性が床に身を転がしてその上半身がフレームインし、かのじょが男から奪ったとおぼしきピストルを抱えていることから、京が溥傑(船越英二)の自殺をとめたのだとわかる場面がある。

 あるいはシュールなオレンジ色の夕陽に染まったテラスで絵を描く京の足元に娘の鞠が転がってくる場面。この場面では画面の奥行きを活用したフレーミングがあいかわらず冴える。蓋をしたピアノ鍵盤を画面左側に、ソファに腰かける侍女を右側に配し、扉の枠ごしに庭先で夕陽を眺める母娘の後ろ姿をとらえるエッジの効いたショット。あるいは下女と話しながら乳母車を押して庭を歩く京を追う長い移動撮影においてもまばらな立木を前景に配すことでダイナミズムがうまれている。

 窓越しのショットもあいかわらず多い。たとえば夫婦が扉を挟んで会話する長いシーン。柱が画面を二つに分断し、画面左側三分の一ほどの狭く薄暗いスペースに船越が立ち、いっぽう、なかば開け放たれ、鮮やかなブルーに染められた窓枠ごしに明るい室内に座った京を画面右側にとらえる鈴木清順ばりの奇抜なフレーミング。アンバランスに分断された夫婦の立ち位置が日満関係を脅かす見えない亀裂を暗示している。

 田中にとっては初のカラー作品。京のまとう真紅のチャイナドレスをはじめ、象徴性もゆたかな鮮烈な色彩感覚によって綴られたメロドラマ。