Negative Space

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The Searchers 2.0:『馬上の二人』

2016-04-01 | その他


 西部瓦版~ウィスタナーズ・クロニクル~ No.44

 ジョン・フォード『馬上の二人』(1961年、コロンビア)

 同じく脚本にフランク・ニュージェントを戴く『捜索者』の事実上のリメイクなるも、フォードが本作の監督を引き受けたのはもっぱら泣きついてきたハリー・コーンへの義理からであり、もともと誰がどう撮っても失敗作になることがわかりきっている素材。

 というわけで、見るからに傷だらけの映画だが、胸を打つ瞬間には事欠かない。 

 魔女のような出で立ちで現れるメエ・マーシュの悲しみ。コマンチに同化したじぶんはすでに死んでいるので戻ることはできない、誰にも自分のことを話してくれるなと捜索者たちに言い渡す。

 背中に赤ん坊らしきものを背負い、羽織った赤い上着の背を傴僂のように出っ張らせた別の娘は、すでに英語を口にすることができず、本名で呼びかけられると泣いてテントのなかに駈け戻る。その顔は真っ赤な染料で暈取られ、頭巾からわずかに金髪がのぞいている。

 キャンプへの出発前、父親(ジョン・クェイラン)から攫われたこの娘の年齢を聞かされて顔を曇らせるスチュワートのリアクションも忘れがたいディティールのひとつだ。

 クアナ・パーカー(『捜索者』の酋長と同じヘンリー・ブランドンが演じている)と敵対する酋長(ウッディ・ストロード)のスペイン人妻(リンダ・クリスタル)を取り戻したスチュワートが、妻を奪い返しに来たかれを射殺すると、その瞬間、死体の傍らで砂を空中に蒔きながらコマンチ式の祈祷を口にしはじめるクリスタル。スチュワートが一喝し、はじめて正気に戻る。

 クリスタルを白人らしく見せるためにスチュワートが彼女のお下げをアップにしてみせたりするユーモラスな一幕はもっとも心温まる瞬間だ。

 コマンチのもとから強引に連れ戻された凶暴な少年。いっけん誠実そうな初老の男性が育ての親を買って出るが、少年は奴隷のようにロープで車輪に繋がれている!

 息子を攫われたショックで精神の平衡を失ってひさしい男性の妻(ジャネット・ノーラン)は少年を実の息子と思いこんでいる。夜間に忍んできてロープを切り、ついでにコマンチ式に束ねた髪をも切ろうとすると、少年がナイフを奪い、彼女を殺す(殺害の瞬間は見せない)。

 おとなしいコミュニティの連中がたちまち松明を手に集まり、リンチの衆に変貌する。捕えられる際にはじめて少年の身元がわかるが(’’Mine!’’)、時すでに遅し。少年が弟であったことを知ったシャーリー・ジョーンズも、その傍らのウィドマークも、なす術もなく一部始終を見守るほかない。

 『アパッチ砦』をおもわせるダンスシーンとカットバックで示される殺人シーンからこのリンチに至るまでの急展開は息をのむばかりである。

 シャーリー・ジョーンズの男装が、弟を溺愛していた父親への愛と罪悪感からであるという設定も悲しいが、演出にうまく利用されているとはいえない(映画の半ばあたりでいつのまにか女性の服装になっている)。

 スチュワートとウィドマークの会話を3分51秒に及ぶロングテイクで見せる有名な河原のシーン。リハーサルだとばかり思いこんでいた俳優たちの愉快なアドリブが堪能できる。

 『捜索者』のウェイン同様、シニカルなスチュワートが最後に人間性に目覚めるというラストはとってつけたようで、デウス・エクス・マキナとして無理やりリンカーンを持ち出して感動的なラストに仕立てようとした『シャイアン』ほどではないにしても、やはりしらじらしさが残る。

 上述のマーシュ、クェイラン、ストロード、コメディー・リリーフのアンディ・ディヴァインに加え、ハリー・ケリーJr.、ケン・カーティス、アンナ・リー、ジャック・ペニックら「一家」がちょい役で顔を見せる。ほかに親戚筋(?)のジョン・マッキンタイア。