Negative Space

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ファミリー・アフェアー:『荒野の決闘』

2016-04-06 | その他


 西部瓦版~ウェスタナーズ・クロニクル~ No.46

 ジョン・フォード『荒野の決闘』(1946年、フォックス)


 『駅馬車』からほぼ二十年ぶりの西部劇。フォードもフォンダもマチュアも軍隊生活を経ての復帰第一作。戦争はこの作品に大きく影を落としている。ある論者によれば、本作は戦争の寓話ということになる。アープの戦いはドッジ・シティーでは終わらず、トゥームストーンにもちこされ、反復される。ドッジ・シティーが第一次大戦であるとすれば、OK牧場の決闘は終わったばかりの第二次大戦なのだというわけだ。その後のアープの半生を考えるならば、この「寓話」はきわめてペシミスティックな将来を予言していることになる。

 リンゼイ・アンダーソンが本作をその主題的な親近性ゆえに、フォードのフィルモグラフィーにおいて『モホークの太鼓』『怒りの葡萄』『タバコ・ロード』の系列に位置づけられるものとみなすのにたいし、この論者タッグ・ギャラガーは、同時代の『逃亡者』『コレヒドール戦記』とともに「暗い三部作」をなすものと位置づけている。

 フォードは駆け出し時代に雑用係としてアープ本人と関わったことがあり、本作はアープ本人に聞かされた昔話に基づくとフォード自身は言うが、事実にそぐわない点が多い。

 アープが話しかけるジェームズの墓石には没年が1882年と記されているが、OK牧場の決闘は1881年10月26日の出来事である。前半で殺されるジェームズは兄弟の末っ子ではなく長男であり、クラントン兄弟の父親はOK牧場の決闘の時点ですでに故人、エトセトラ、エトセトラ。

 物語の推進力になっているはずの復讐のモチーフが、余計なエピソードがつぎからつぎへと挿入されることによって宙吊りにされ、先送りされることは脚本のウィンストン・ミラーも構成上の欠陥と認めているが、ぎゃくにこのユルさがいいのだという見方をする人もいる(遊びがなくお役所仕事的な『OK牧場の決闘』の味気なさを思い起こそう)。

 敵を背後から狙い、息子らを鞭打つ“オールド・マン”クラントン(ウォルター・ブレナン)の死が野蛮な原始的共同体の終焉を象徴するというヴィジョンは『フロンティア・マーシャル』と重なるが、アープ兄弟とクラントン一家の family affair という図式は『フロンティア・マーシャル』にはない本作のオリジナル。

 「フォードはフォンダの歩き方を愛した」(ウィストン・ミラー)。慈善舞踏会の場面は、フォードが愛した『若き日のリンカーン』におけるフォンダの足さばきを再現させるためだけに書かれた場面であるらしい。

 ファイナルカットにはフォックスの大君ザナックの手が入っていることが1990年代に判明している。試写版(104分)の出来に不満を抱いたザナックがロイド・ベーコンを呼び寄せて一部のシーンの取り直しをさせ、最終的にこれより7分ほど短いバージョンが公開された。

 「愛しのクレメンタイン」の旋律が最初に流れるタイミング(試写版ではアープとクレムがドックの部屋に入った時点で流れはじめる)、ラストの頬への接吻、そして手術の場面でのドックとクレムの簡潔な言葉のやり取りといった演出の根幹に関わる大きな相違点がある。

 とくに最後の箇所は、医師と看護師として出会い、恋に落ちた二人の過去を伝える唯一の箇所であり、現在では「ジョン」「クレム」と呼び合っている二人が、ほんの一瞬かつての関係に戻り、「ミス・カーター」「ホリデイ先生」と互いを呼び合うのである。それと同時に恋の炎がほんの一瞬、あくまで静かに、ふたたび燃え上がるのだ。傍らのアープにとってはなんとも妬ましい一瞬であるわけだが、クレムとツーショットで映されるフォンダの表情はというと、帽子の庇が大きく影を落として完全なシルエットになっており、あえて読みとれないようにしてある。ジョー・マクドナルドの手になる、いっけん無駄に審美的なだけの、コントラストが強く、逆光を多用した本作の画調が、このショットにおいていわばはじめてその必然性をともなうことになるし、このショットがなければフォンダは飄逸で純朴なところが魅力なだけのお気楽なアープで終わってしまう。

 恋が職業意識をつうじて現れるという点ですぐれてハワード・ホークス的な場面と呼びたいこの場面に無駄な変更を加えてしまったことで、胸をかき乱すタイトなドラマになり得た本作は、薄味の紙芝居(あるいはせいぜいが"詩")を超えるものではなくなってしまっている。

 コレクターズ・エディション版DVDに収められたドキュメンタリー「非公開試写の復活」はザナックを擁護する台詞でしめくくられているが、これがザナック一族への純然たる社交辞令にすぎないことはドキュメンタリー本篇を見ればばかでもわかる。

 生前のフォードはインタビューで好きな自作を聞かれるとその都度違った作品を挙げるのを習いとしていたが、名作の誉れ高い本作を挙げたことは一度もなかった。これは代表作になっていたかもしれない本作へのザナックの仕打ちをフォードが生涯許していなかったことを示す事実だとする見方がでてくるのもとうぜんであろう。

 フォードはその後、『シャイアン』の幕間のどたばたシーンにおいてふたたびワイアット・アープを登場させている。舞台はドッジ・シティーなのにアープ(ジェームズ・スチュワート)がドック(アーサー・ケネディー)とすでにつるんでいるのはアナクロニズムではないか、と勘ぐるなかれ。アープがトゥームストーンでドックと知り合ったというのは、それこそ『荒野の決闘』が流布させた伝説であるようで、実際には二人の出会いは1877年頃に遡り、ドックはドッジ・シティで歯医者を開業している。アープに「むずかしい手術はなぜいつも俺の役目だ?」と問われ、「俺は歯医者だから、歯を撃たれたら俺の出番だ」とドックが受けるギャグは辻褄が合うわけだ。

 なんでもアレックス・コックスがOK牧場の決闘を『羅生門』ふうに再現した新作を撮るそうな。