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ジェシー・ジェームズ映画を観る:『地獄への道』『無法の王者ジェシー・ジェームズ』

2016-01-17 | その他


 ウェスタナーズ・クロニクル No.36

 特集:ジェシー・ジェームズ映画を観る(その1)

 ジェシー・ジェームズを英雄として描いた映画はサイレント時代にもあったが、そうしたイメージを決定づけたのは大ヒットを記録した『地獄への道』(1939年)である(不ランクを主役とするその続編『地獄への逆襲』はすでにとりあげた)。この作品は西部劇というよりもファミリー・メロドラマであり、その価値は、ジェシーが実際に暮らしていたミズーリの小村付近にロケを敢行し、フランク・ジェームズの息子に話を聞き、地元住民をエキストラに雇って、瑞々しい田園風景を贅沢なテクニカラー画面に定着させたドキュメンタリー的な側面にあるといえる。ノースフィールド襲撃場面で騎乗したままウィンドーに突っ込むジェームズ兄弟(タイロン・パワー、ヘンリー・フォンダ)、ノースフィールドから逃走中、やはり騎乗のまま崖からダイブする兄弟、列車の屋根を中腰で伝うジェシーのシルエットといった名場面のストックショットは、ニコラス・レイの『無法の王者ジェシー・ジェームズ』(1957年)にそのまま借用された。




 「ジェシー・ジェームズの真実の物語」をタイトルに謳った『無法の王者……』は『地獄への道』の脚本家ナナリー・ジョンソンの物語に基づくとクレジットされているから、リメイクと言ってよい。ただし、複数のフラッシュバックを使った複雑な構成と、メロドラマ的な要素を排除した淡々とした語り口によって『地獄への道』とはまったくちがった映画に仕上がっている。ノースフィールド襲撃で幕を開け、逃走する一党の描写にフラッシュバックが絡む。故郷の母親の安否を気遣う兄弟の会話から病床の母親(アグネス・ムーアヘッド)の場面へ移行し、そこから母親のフラッシュバックでジェシーが兄を追って南軍に入隊するために家を飛び出すまでのいきさつが物語られる。ついで、看病しているゼー(ホープ・ラング)のフラッシュバックが続き、二人の出会い、洗礼式(洗礼を施すのはキング版で裏切り者を演じたジョン・キャラディン)、結婚して家庭を持つまでが綴られる。『地獄への道』の家庭的なジェシー像を、母親とゼーのフラッシュバックによって代表させているといえよう。その後、洞穴での兄弟の会話からフランク(ジェフリー・“キング・オブ・キングズ”・ハンター)のフラッシュバックへと移行し、昔の敵に復讐したために恩赦が取り消され、地獄(ノースフィールド)への道を辿ることになったいきさつが運命感豊かに説明される。前二者のフラッシュバックとは異なり、ここでは無法者としてのジェームズ像が提示される。それが閉じられると舞台は冒頭のノースフィールドに回帰し、冒頭で使われたいくつかの映像がそのまま反復される。フラッシュバックが開いたり閉じたりするたびに赤い煙がもくもくと立ち上るが、これは筋を追いやすくするためにレイの意向を無視して撮影所が入れたもの。
 母親が犠牲になる実家の爆破(ここでは負傷)、暗殺に先立つ子供の遊びは『地獄への道』を踏襲している。ジェシーが撃たれたことを知って野次馬が押し掛け、記念の品をくすねていく。かつてジェシーの強盗を支持したミズーリの民衆の面影はもはやそこにはない。アイロニーたっぷりの幕切れ。『地獄への道』が時系列に沿った安定的なプロットによって家庭的なジェシーを描いていたとすれば、ここでは分断され入り組んだ時系列によってジェシーの流浪の人生が物語られているといえようか。レイは主役にジェシーやジミー・ディーンと同じぽっと出の田舎の少年であるプレスリーを想定していたが、専属俳優(ロバート・ワグナー)を起用したい撮影所の圧力で実現しなかった。キング版同様ジェシーの地元にロケするという希望も叶わなかった。農場の未亡人の借金の肩代わりをしてやるエピソードは、コール・ヤンガー(アラン・ヘイル)がパルプ雑誌で英雄視されているジェシーを揶揄うくだりに先立たれることで、このエピソードの虚構性(神話性)を強調している。ラストは「ジェシー・ジェームズのバラード」を歌いながらジェシーの家からの坂道を下ってくる黒人の流しをとらえたロングショット(『ジェシー・ジェームズの暗殺』に似た構図がでてくるが、このシーンはその地形から判断するに『ワーロック』などで使われているフォックスのセットで撮られたものであろう)。黒人の流しはノースフィールドへ赴く直前のシーンでもちらっと登場し、いわば予言者的な狂言回しの役割を割り振られている。