Negative Space

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オー!ブラザー:『ミネソタ大強盗団』『ロング・ライダーズ』『ジェシー・ジェームズの暗殺』

2016-01-19 | その他



 ウェスタナーズ・クロニクル No.38  特集:ジェシー・ジェームズ映画を観る(その3)

 コール・ヤンガー(クリフ・ロバートソン)を主役に据えた『ミネソタ大強盗団』(1972年)はシニシズムにおいて際立つ。ロバート・デュヴァル演じる頭髪の寂しいジェシーはその狂気が強調されている。ジム・ヤンガー役でルーク・アスキュー、クレル・ミラー役でR・G・アームストロング。隠れ家を襲われて負傷し、ジェームズ兄弟に置いてきぼりにされたコールらが檻に入れられて護送されていくのを住民たちがロックスターか恐竜(すなわち過去の遺物)でも仰ぎ見るような視線で見守るシーンで幕。女たちの視線を一身に集め、この期に及んでご満悦のコール。一方、逃亡に成功したジェームズ兄弟は、ボブを仲間に引き入れる相談をしながら荒野を進んでいく。原始的な野球の試合を延々映したシーンでコールが銃でボールをパンクさせるエピソード(「アメリカの国技はハンティングだぜ!」)、あるいは強盗団の捜索隊が無実の娼館の客らを問答無用で縛り首にする簡潔きわまりないエピソードが白眉か。音楽デイヴ・グルーシン。





  ジェームズ兄弟にステイシーとジェームズのキーチ兄弟、ヤンガー兄弟にキング版ボブ・フォードの3人息子デヴィッド、キース、ロバート、ミラー兄弟にランディ、デニスのクエイド兄弟、フォード兄弟にゲスト某兄弟をキャスティングした『ロング・ライダーズ』(1980年)は、ロマンティシズム(残酷な暴力描写と両立可能)に回帰している。タイトルバックで山地を駈ける強盗団の映像にいきなりスローモーションがかかる。数の多い人物を識別させるためなのか、テレビドラマ的なクロースアップが基本。異様に顔のデカいジェシーはコールに“family man”とからかわれ、ジム・ヤンガーとエド・ミラーは恋敵であり、コールはベル・スターをめぐってその夫とナイフで殺し合う。クライマックスのノースフィールド襲撃場面は『ミネソタ大強盗団』からのいただきと『ワイルド・バンチ』のへたくそなパスティッシュからなる(ウィンドーへの「飛び込み」にくわえて「飛び出し」まであって、いずれももったいぶったスローモーションがかかる。断崖からのダイブはなくて急流を横断するシーンでお茶を濁す)。ラストはフランクが探偵局に自首してジェシー埋葬の許可を要求する。ジェシーの遺体を乗せた列車が通過するのを一人の農夫が脱帽して見送るノスタルジックなショットで幕。南軍の退役軍人役でハリー・ケリーJr.、銀行員役でイライシャ・クックJr.が顔を見せる。ライ・クーダーの音楽は投げ槍。脚本家上がりの監督にしてはひどいシナリオだとおもったら、ヒルがはじめて他人の脚本で撮った作品であった。





 リドリー&トニーのスコット兄弟が製作に加わったアンドリュー・ドミニク『ジェシー・ジェームズの暗殺』(2007年)は、アクションシーンを省き、晩年のジェシー(ブラッド・ピット)の淡々とした日常を緩慢なテンポ(160分になんなんとする尺。いいかげんにせい)で描写したオセアニア流西部劇。テレンス・マリックかガス・ヴァン・サントかという感じの風景ショットがやたらインサートされ(撮影ロジャー・ディーキンス)、もったいぶっていることこのうえない。ジェシーの「静かな狂気」みたいなものにスポットを当てたつもりか? 原題(The Assassination of Jesse James by The Coward Robert Ford)からわかるように「バラード」の視点をアイロニカルに引き受けた作品で、白痴性を誇張されたボブ・フォード(ケイシー・アフレック)が真の主役であるところはフラー作品を踏襲する。ボブは少年時代からパルプ雑誌を読みあさってジェシーに憧れていたという設定。かれはいわばじぶんのかけがえのない分身であるジェシーをころしたのだ。レイ作品では黒人、フラー作品ではそばかす顔の白人が演じていた流しを豪州人ニック・ケイヴが演じ、フラー作品のような本人との鉢合わせ場面が最後のほうに出てくる。暗殺されるジェシーは額のガラスの反映でじぶんを撃つフォードの姿を見ながら死んでいく。つまりジェシーの視点から暗殺が描かれる。ジェシーの自殺的な傾向を強調した演出か? フランク・ジェームズにサム・シェパード(歳離れ過ぎ)、ロバート・フォードにサム・ロックウェル、チャールズ・フォードにジェレミー・レナー、ゼーにメアリー・ルイーズ・パーカー。ズーイー・デシャネル嬢演じるボブと恋仲の歌手は、フラー作品のバーバラ・ブリトンにあたるのだろうか。