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荷風『断腸亭日乗』
十一月廿一日。「この日欧州戦争平定の祝日なりとて、市中甚雑沓せり。日比谷公園外にて浅葱色の仕事着きたる職工幾組とも知れず、隊をなし練り歩くを見る。労働問題既に切迫し来れるの感甚切なり」。
荷風はこのとし不惑を迎えている。
「十一月十六日。欧州戦争休戦の祝日なり。門前何とはなく人の往来繁し。猶病床に在り」。
このように病気を理由に、あるいは散策によって、かれは時代の中心を離れようとする。
八月十四日。「用事を終りて後晩涼を追ひ、漫歩神楽坂に至る。銀座辺米商打こはし騒動起こりし由。妓家酒亭灯を消し戸を閉したり」。
荷風散人は偶然のドラマの演出家である。遊歩がその媒体である。散策はかれを世間と時代の外に誘うのではなく、そのただなかへと不意に引き寄せる。路地裏の角を曲がると現実につきあたるのだ。現実。これこそが外なのだ。
かれを家から追い出し、放浪へとおいやるのもまた偶然である。
「八月八日。筆持つに懶し。屋後の土蔵を掃除す」。すると包まれた陶器や文具のたぐいがなにげなく見つかる。「之に依つて窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし。再び築地か浅草か、いづこにてもよし、親類縁者の人〴に顔を見られぬ陋巷に引移るにしかず。嗚呼余は幾たびか此の旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、遂に長く留まること能はず。悲しむべきことなり。」
これは偶然のなせるわざだろうか。いってみれば放浪への欲望がかれの嗅覚を刺戟したのだ。
転居がきまり、にわかに身辺が慌ただしくなる。
「十二月廿三日。雪花紛々たり。妓と共に旅亭の風呂に入るに湯の中に柚浮かびたり。転宅の事にまぎれ、此日冬至の節なるをも忘れゐたりしなり。午後旅亭を引払ひ、築地の家に至り几案書筺を排置して、日の暮るゝと共に床敷延べて伏す。雪はいつか雨となり、点滴の音さながら放蕩の身の末路を弔ふものゝ如し」。
多忙にまぎれることも現実逃避である。オブジェが(あるいは自然が、現実が)忘れていた自己をむりやり思い出させるのだ。ささいな日常の変転がもたらす深い味わい。
『断腸亭日乗』は人間関係の即物的な描写と自然の詩的な描写から構成されている。放浪の予感によって、自然描写の味わいも深まりをます。
「十一月廿日。本年秋晩より雨多かりし故紅葉美ならず、菊花も亦香気なし。されど此の日たま∧快晴の天気に遇ひ、独り間庭を逍遥すれば、一木一草愛着の情を牽かざるはなし。行きつ戻りつ薄暮に至る」。
すべて偶然のなせるわざであり、放浪への欲望のなせるわざだ。
年の暮れの一連の場面の演出も心憎い。
「十二月廿五日。終日老婆しんと共に家具を安排し、夕刻銀座を歩む。雪また降り来れり。路地裏の雪亦風趣なきにあらず」。
あざやかな場面転換である。舞台はまわりまわってやまない。
この三日後には芸妓と浅草寺に詣で御籤に大吉と出る。「冀はくはこの大吉一変して凶に返ることなかれ」。
偶然がおのれをもてあそぶことを予感せざるをえないがゆえの祈りである。そして年が変わる。
「十二月卅一日。新春の物買はむとて路地を出でしが、寒風あまりに烈しければ止む。寒檠の下に孤座して王次回が疑雨集をよむに左の如き絶句あり。
歳暮客懐。
無父無妻百病身。
孤舟風雪阻銅塾。
残冬欲尽帰猶嬾。
料是無人望倚門。
是さながら予の境遇を言ふものゝ如し。忽にして百八の鐘を聴く」。