Negative Space

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地獄でなぜ悪い:『ザ・ワイヤー/THE WIRE』最終シーズン

2015-08-12 | ドラマ



 『ザ・ワイヤー/THE WIRE』シーズン5(2009, HBO)

 マルロ捜査への予算を引き出すためにマクノルティが捏造したシリアル・キラー事件に「ボルティモア・サン」の記者テンプルトンが功名心とルサンチマンからのっかり、上から下まで虚偽と腐敗に隅々まで冒されつくした一社会の地獄絵があぶりだされてくる。

 悪の化身マルロは警察の違法捜査の標的になる一方、伯父ブッチーを殺されて復讐の鬼と化したオマールも、亡霊同然のすがた(モップの杖)になりはてつつ日夜通りをさまよいながら鵜の目鷹の目でかれを狩り出そうとする。ブレヒトあるいはフリッツ・ラングをおもわせるシニカルな人間喜劇。ご都合主義的に現れた精神薄弱者のホームレスにすべての責任がなすりつけられる。それをよしとしないなんにんかのばか正直たちは左遷され、あるいは失職する。プロップ・ジョー、オマール、スヌープ(’’How my hair look, Mike?’’)、ついでにチーズが殺される。釈放されたマルロは闇夜にみずからの血の匂いに興奮する。マイケルは後戻りできない地点を踏み越える。先行するシーズンのいくつもの悪夢が反復強迫的にくりかえされ(ワンシーンのみ登場のプレッツのみる悪夢)、最終シーズンで“救済”されるのはワンシーン出演のネイモンドをのぞけばシーズン1からの影の主役のひとりバブルズだけだ(公式ガイド本「THE WIRE, TRUTH BE TOLD」にはマクノルティとバブルズの平行性を指摘する考察がある)。マクノルティの賭けは、フランク・ソボトカやバーニー・コルヴィンやストリンガー・ベルの思い描いた挫折したユートピアの夢につらなるものだろう。ラストで反復される wake のシーンでそれらの夢が葬り去られ、笑い飛ばされる。ボルティモアの朝。シーズン1の最初のエピソードのラストで通りを睥睨していた二体の巨大な彫像の下で今日も新たな死体が発見される。

 『ザ・ソプラノズ』がスコセッシのパロディーであり、『ブレイキング・バッド』がタランティーノへのオマージュであり、『バッドメン』がヒッチコックとダグラス・サークのブレンドであるとすれば、『ザ・ワイヤー』はロバート・アルトマン的な手法の可能性をテレビシリーズという枠組みのなかで全開させようとしたシリーズと思いっきり贔屓目な評価もできようか。

 錯綜した社会関係全体を描きとろうとするヴィジョン、アクションはじめ刑事もののクリシェを排した脚本、地元密着型のリアリティあふれるキャスティングとスタッフワーク、目先のテクニックを拒絶した禁欲的な演出。なるほどアヴァンギャルドではある。映画的というよりはコミックス的なタイプ・キャスティングはブレヒト的ふうと受け取っておけばよいのだろうか。しかし、一応の主役ジミー・マクノルティ=ドミニク・ウェスト(一挿話の演出を担当している)に積極的な魅力が欠けていることは、やはり決定的なウィークポイントだろう。そのために最終シーズンの不条理劇が図式に落ちてしまったのは惜しまれる。突出した中心人物のいない「群像劇」だから、キャラへの余計な感情移入はいらないということにはならない。この点がいい時のアルトマンとの決定的なちがいであろう。もっとも、ドン・ドレイパーにしても、トニー・ソプラノにしても、ウォルター・ホワイトにしても、われわれの感情移入を拒むように最初から造型されている[としか言いようがない]ところがある。きょうびのテレビシリーズ[いわゆる「海外ドラマ」]のひとつのトレンドなのか知らん。