たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

弁論術 <塩野七生著『ローマ人の物語IV ユリウス・カエサル』を読みながら>

2019-05-01 | 古代を考える

190501 弁論術 <塩野七生著『ローマ人の物語IV ユリウス・カエサル』を読みながら>

 

小糠雨とでもいえましょうか、歌川広重の東海道五十三次之内 庄野 白雨よりずっとやさしい振り方です。その中を、時にツバメが滑空し、あるいはヒヨドリが、あるいはマヒワが群れで飛び交います。杉檜の葉はかすかに濡れた湿っぽさを漂っています。やはり新緑の楓は見事に水に映えます。

 

そんな窓の外の風景を時折眺めながら、塩野七生著『ローマ人の物語IV ユリウス・カエサル』を一気にではないですが、楽しみながら読み進めています。

 

途中で仕事の医療記録を整理しつつ、あるいは森林関係の書物をひもといてみたりしつつ、再びその著作に戻りたくなるほど、面白いのです。

 

その話の前に、今日の花を取り上げておきます。ゲンペイカヅラです。源平合戦のゲンペイです。花冠でしょうか萼でしょうか、白一色のように一瞬思えます。ところが花冠の先からにょきりと出てきた花弁が見事な赤なんですね。それで赤と白の対の模様というかカラーが映えます。それが源平合戦の赤と白をイメージしているということで、名前になったようです。残念ながら、この花も花言葉を見つけることができませんでした。

 

ローマ人の物語で、共和制を通じて元老院派と市民派が対立を繰り返し、そのトップ的な地位の執政官も両派が競い合い何世紀も戦い続ける様子は、短期間に終わった源平合戦より中身が濃いですね。それにしても王政を倒した後、紀元前6世紀初頭から紀元前1世紀半ばまで続く共和制はいろいろな法をつくったり変えたり、戦争と議論の繰り返し、さすがローマ法の国と思うのです。まだ木庭顕著『新版ローマ法案内』の議論を理解するにはほど遠い状況ですが、塩野氏のおかげでローマが少し近づいてきました。

 

さて、今日は弁論術を取り上げようかと思います。実のところ、その技術論はテーマではありません。ちょっと皮相的なアプローチだけやってみようかと思っています。

 

というのは塩野七生著『ローマ人の物語IV ユリウス・カエサル』を読んでいて、当時の有力者で弁護士を経験していたのを知ったことが一つの契機です。キケロしかり、カエサルしかりです。というのは映画ROMEでは、主人公の一人とも言える一兵隊プッロが退役後事情で荒れて雇われて殺人を犯したとき、弁護人が雇われるのです。そのとき法廷らしい建物付近には弁護士と名乗って物乞いのごとく自分を雇ってくれと、大勢が近づくのです。この風景は19世紀ロンドンの風景を描いたチャールズ・ディケンズの『二都物語』だったかで登場する弁護士の様子によく似ていると思ってしまいました。

 

実際、雇われた弁護士の弁論はいい加減この上ないものでした。プッロは当然のように極刑に処断されます。

 

で、元に戻って、キケロは塩野氏の表現では当然ながら有能で巧みな弁論でいくも勝訴を重ねていい依頼人を得て、一旦豊かな財産を築きます。そして政治家として元老院議員となり著名な弁論を何度も行うわけです。

 

他方で、カエサルは弁護士としてはほんの一時活動しただけで敗訴ばかりで、とても向いているとは言えない、あるいは若すぎたのかもしれません。しかし彼の弁論は戦争において、あるいは元老院において、キケロを凌駕するすばらしいものであったのです。またその著述もすばらしくその著『ガリア戦記』は古今東西の文筆家なり評論家なりがベタ褒めだそうです。たとえばわれわれでも知っている小林秀雄がそうなのです。すごいなと思うのです。

 

ただ、塩野氏が引用した、『ガリア戦記』にある彼の演説内容は、ゲルマン人の大勢力を相手に尻込みする部下に対して、彼らに奮起を呼び起こさせたという、すばらしいもののようですが、私にはそれほどのものとはとても思えませんでした。理解力が足りないのでしょうか。あるいは2000年前の状況にたてないためでしょうか。わかりませんが、小林秀雄の評論を見て一度読んで見たいと思ったものの、その演説内容からは若干、気持ちが萎えてきたかもしれません。

 

古今東西の見識者のだれもが『ガリア戦記』になにかを解説したり、付け加えることはできないほど、よくできているというのです。にもかかわらず、塩野氏の解説は見事としかいえないほど、よくできています。『ガリア戦記』を読まなくても、塩野氏の著作を読むことでその弁論の巧拙も幾分かわかるような気がします。

 

カエサルの高い能力も、ROMEではさっぱり分からなかったものの、塩野氏の著作で見事に捉えられているかと思うのです。なんども窮地に立ったカエサルですが、そのたびに、悠々とした態度でときに長い演説で、ときに簡潔に対立意見や内部の反論を支配するのです。

 

カエサルの高い能力のうち、金銭に関わる部分ひとつとっても、その魅力を喝破していると思えます。それは借金の金額が増えれば増えるほど、貸し主の力が強くなるという一般的な理解を覆すものです。あまりに借金が多くなると、貸し主の方が自由がきかなくなるというのです。逆転するのです。カエサルは膨大な金額をある一人の富勇者クラッススから借ります。とても返済できない金額となります。ところがクラッススは、カエサルからの返済がうけられないと自分も大変なことになるからと、ときにカエサルの借金取りに代わって返済したり、さらにカエサルの債務の保証をしたりするのです。盗人に追い銭ではないかと思われるかもしれませんが、実際の社会ではときにありますね。

 

私自身、貸し主がどんどん貸したのはいいですが、借主が別の返済に困ったというと、自分の返済が受けられないと心配して、次々と貸し増しして、ときに他から借りてまで貸し増しするという事案をみることがあります。信じがたいことですが、返済されない不安を貸し主が抱えてしまい、借り主のことばを真に受けるということでしょうか。ただ、カエサルの場合は単なる乱費ではありませんし、騙すわけでもありません。

 

カエサルは、借りたお金を自分のために使うことはほとんどなかったと言います。自分の部下に与えるためとか、公共事業に出費するためとか、他のために使っていたというのです。経済人クラッススもそういうカエサルの将来を見込んでいたのかもしれません。

 

それは弁論と言ったことばだけで物事を決するもの以上に、力を発揮していたのだと思うのです。むろんカエサルはキケロに負けないほど勉学もしていたようで、だからこそ公正な法の改正を次々と理論的に、戦術的に行うことができたのではないかと思うのです。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


大嘗祭 <特例退位、国民が共感 異なる天皇像の間で>などを読みながら

2019-04-30 | 古代を考える

190430 大嘗祭 <特例退位、国民が共感 異なる天皇像の間で>などを読みながら

 

高野山の峰々が新緑と杉檜の濃緑と混じり合って鮮やかです。今日は天皇退位の日ですね。穏やかな一日が終わろうとしています。今日の花は退位とは関係なくティアレラ スプリングシンフォニーを選びました。とても可憐で清楚な印象の花です。花言葉をネットで探しましたが、見当たりません。ネットでアップされた写真の中には花弁が大きく捉えられていて、その感じがよくでています。小さな花弁なので、遠目だとほとんど形が見えず、綿帽子がほっそりした感じに見えます。でもしっかりした美しい花弁をもっていることがネットの写真ではわかります。

 

ところで、今朝の毎日は当然のように、第一面に<皇室天皇陛下きょう退位 202年ぶり、憲政史上初 平成の30年終わる>と大きく取り上げています。また、<皇室天皇陛下きょう退位 儀式、極力簡素に 陛下の意向尊重>では、皇位継承の儀式の主なものが下記の内容で掲載されています。

 

◆皇位継承に関する主な儀式

退位に関する儀式

 3月12日 賢所(かしこどころ)に退位及びその期日奉告(ほうこく)の儀

   -------------

   26日 神武天皇陵参拝

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 4月18日 伊勢神宮参拝

   -------------

   23日 昭和天皇陵参拝

   -------------

   30日 退位礼当日賢所大前の儀・退位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀

       (午前10時~)

       …………………………………………

       退位礼正殿の儀★

       (午後5時~)

即位に関する儀式

 5月 1日 剣璽(けんじ)等承継の儀★

       (午前10時半~)

       …………………………………………

       即位後朝見の儀★

       (午前11時10分~)

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10月22日 即位礼正殿の儀★

       …………………………………………

       祝賀御列の儀★

       (パレード)

        …………………………………………

       饗宴(きょうえん)の儀★

       (25、29、31日も実施)

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11月14、15日 大嘗祭(だいじょうさい)

 ※★は国事行為の儀式

 

この生前退位と儀式のあり方については、憲法との整合性等をめぐり、三面の<クローズアップ特例退位、国民が共感 異なる天皇像の間で>記事で整理しています。まあ、この憲法論議はここではとりあげません。

 

最近、天皇の退位をめぐっていろいろ議論が喧しいので、私も少し勉強しようと、たとえば岡田荘司著『大嘗祭と古代の祭祀』などを最近読み始めています。この本をちらっと斜め読みしていて、興味深いところがあったので、今日はそれに触れてみたいと思います。

 

この著作では、平成天皇が即位した後行われた大嘗祭をめぐる当時の議論を最初に整理して、その後に展開された議論を次に収めています。

 

大嘗祭といっても、あまり関心のなかった私には、この著作で律令時代や平安時代、さらにその後の資料を踏まえて儀式の有り様を丁寧に記述している点は参考になります。図入りの解説で、とても面白く読めました。

 

で、大嘗祭はというと、おおざっぱに言えば、新たに即位した天皇が天照大神と食事を供にし(食事を提供するわけですね)、一夜を共にするという2つで構成される分けのようです。

 

岡田氏は、上記の後段に当たる一夜を過ごす点について、多数説となっている?折口信夫が唱えた聖婚儀礼説に対して、そうではないと反論を膨大な資料を踏まえて行っています。まあ、私にはあまり関心のない世界なので、どちらでもいい話です。ただ、岡田氏が大論文を書いて「厳粛・素朴な国家最高の『饗(あえ)の事(こと)』と指摘されている結論に異論はありませんが。他方で、聖婚儀礼説というのはそれが多数説ないしは通説になっていること自体が不思議です。

 

それより私が興味を抱いたのは前段の共食ということです。

 

岡田氏の言葉を引用すると、「大嘗祭の中心儀礼は、嘗殿における天皇「御」一人による神膳供進・共食(薦享の儀)と“真床覆衾”の二つの儀礼から成り立っているといわれてきた。」とされている、「共食(薦享の儀)」という用語です。

 

薦享(せんきょう)の儀という名前ですが、なぜ薦享というのか、説明がありません。それが岡田氏が多数引用している儀式を詳細に記述して残してきた律令・平安時代やそれ以降の記録にもなさそうです。

 

強いて言えば、著作の中で「『礼記』五(王制)には「天子諸侯宗廟之祭、春日柏、夏日締、秋日嘗、冬日系」とあり、同書(月令)にも「是月也、農乃登穀、天子嘗新、先薦寝廟-」とある。すなわち、中国の秋の収穫儀礼は「嘗」であり、新穀を租廟に薦め、天子もいただかれる。」という記述から、「薦享」ということばが儀式用語として使われたのかなと推測するしかないのです。「薦」ということばがなぜ使われたか勝手な関心が働いたのです。

 

ただ、寝床の畳にも、薦が必須とされていて、7枚ないし8枚とのことで、それが多少影響しているのかと思いながら、やはり格調高い『礼記』の記述からとったのかなと思うのです。

 

どうでもいい話ですが、個人的には気になるのです。

 

より興味深いのは食事として出される食物ですが、海山川の産物、とくに海産物が貴重なものとして取り上げられつつ、主食として米と粟となっている点です。そう粟が米と同等に位置づけられていたのです。この点、岡田氏は、飢饉など災害対策として粟を生産貯蓄していた趣旨を指摘しています。私は庶民にとって戦後初期くらいまでは米はぜいたくなものであったと思うのです。まして戦前や江戸時代以前は庶民には手に届かないくらいのものであったと思っています。大畑才蔵の記録では米を食べるのは年に数回と彼の清廉さを示す記述が残っていたと思います。粟や稗、麦・豆など雑穀が主食であったと思うのです。

 

それくらいは天皇でも承知していたと思います。陸田で育つ粟は縄文期以来、日本人にとって大事な食料であったと思うのです。それだからこそ、五穀の代表として粟を薦享(せんきょう)の儀に提供していたのではないかと思うのです。

 

それ以外に、竹・藁を使う様式が現在も続いているなど取り上げたいことが残りましたが、今日はこの辺でおしまいとします。また明日。


日本橋高島屋 <森まゆみ てくてくまち再見>を読みながら

2019-04-29 | 心のやすらぎ・豊かさ

190429 日本橋高島屋 <森まゆみ てくてくまち再見>を読みながら

 

今朝はある事件の医療記録の整理をしていて、少し煩雑だったことから、気分転換に小田井堰を歩きました。大畑才蔵考などとブログに書きながら、遠目では見ていましたが、近くまで行ったのは初めてでした。ただ、立入禁止の表示とチェーンが張られていて、間近に近く付くことはできませんでした。

 

代わりに、紀ノ川の河川敷に降りて、砂利が滞積する大きな河原、さらに小さな流れに残った石伝いにちっちゃな中州までいって、正面から小田井堰を見ました。今年の大畑才蔵ネットワーク和歌山の歴史ウォークは小田井堰からのコースになりそうです。そのときは小田井土地改良区のYさんに解説してもらおうかと思っています。

 

その河原にもいくつかのきれいな野草が咲いていて、今日の花言葉に選ぼうかと思いましたが、まだ事務所の花シリーズ?が始まったばかりなので、もう少し続けることにしました。

今日はヘリオトロープです。小さな花弁ですが、元気で長く咲いていて、結構いいです。さっと枯れてしまうのも可憐かもしれませんが、長く咲き続ける元気印もいいです。さて<ヘリオトロープの花言葉>によると、<「献身的な愛」「夢中」「熱望」>が花言葉だそうです。名前の由来も<花言葉の「献身的な愛」は、太陽神アポロンに恋をした水の精クリティが、ヘリオトロープに姿を変えたというギリシア神話>からきているそうです。太陽神アポロンを仰ぎ見続けたとのことですが、それくらい強靱なのかもしれません。

 

さて今日のお題ですが、簡単にまとめようかと思います。毎日朝刊<週刊サラダぼうる・森まゆみてくてくまち再見 日本橋高島屋 増改築で風格高く>で、日本橋高島屋が2009年に日本の百貨店で初めて重要文化財に指定されたと紹介されています。

 

その理由は<重文指定に関わった後藤治・工学院大理事長が高島屋史料館TOKYOでのセミナーで語った。

 「各地のデパートを見て歩きました。デパートは営業し、客が入る場所ですから増築が多い。それもどんどん雑になるのが通例。高島屋の場合、当初の建築も優れているが、増改築もレベルが高く、元の建物と一体となって品格を保ち、価値を増しているというのが、指定の決め手になりました」>

 

当初は<33年に新築した時はコンペで当選した高橋貞太郎(1892~1970年)の設計>で、<戦後、改修をしたのが村野藤吾(1891~1984年)>で、<2人の仕事が不可分なものとして価値>があることが指定理由とのこと。

 

でもこれでは中身がよくわかりませんね。森さんは建築が専門ではなかったのではないかと思いますので、<京都工芸繊維大の松隈洋教授>の話でしょうか<7、8階の増築は高橋案を生かして黄土色の古典的なスタイルにし、その下3階から6階までガラスブロックを積み重ね、明るさとモダンさを出している。あそこに蛇みたいな愉快な意匠が挟まっているでしょう。あれも面白い>というところに多少、意匠面でのユニークさと価値が認められたのでしょうか。

 

これでは日本橋高島屋のよさがやはり分からない。私は日本の百貨店の中で最も好きなのがこの店です。といってもそんなに多くの百貨店を行脚したわけではないですし、ここ20年くらいはたぶん行ったことがないと思います(難波とかでちょいと買い物がある程度です)。私が通っていたのはバブル期前後の90年ころでしょうか。日本橋三越や銀座三越、新宿伊勢丹などいくつかの店を時折訪れていましたが、やはり日本橋高島屋はとても落ち着くいい雰囲気をもっていました。正面階段を上がるときが気分よく、そのときの周囲の落ち着き、2階に並んだ店舗の気品みたいなものがすてきでした。むろん店員さんの何気ない対応も心安らぎました。こんな感覚を日本で味わうことができたので、海外に出かけていっても、どんな店に入るときもさほど気後れすることがありませんでした(まあ、どうでもいいことですが)。

 

それは建物がもつ全体の雰囲気、松隈氏が指摘するような意匠デザインなど、豪華を競うこともなく落ち着きをもった品の良さを感じさせ、店内を歩く顧客層も雰囲気に馴染んでいたように感じます。2000年代に入りショッピングセンターといったものが各地で増大し、そういった雰囲気は消し飛んでしまいました。そこには建築家の魂というか、心意気といったものはうかがえません。商品は多様で多種大量、サービスも多様かもしれません。しかし、そこには私の落ち着くような雰囲気や場所もなかなかありません。高齢者のぼやきになりました。

 

ぼやきはほどほどがいいようで、今日はこの辺でおしまい。又明日。


古代に惹かれる <謎に挑む、盗掘を阻む><『新しい古代史へ1 地域に生きる人びと>などを読みながら

2019-04-28 | 古代を考える

190428 古代に惹かれる <謎に挑む、盗掘を阻む><『新しい古代史へ1 地域に生きる人びと>などを読みながら

 

今日は連休2日目ですか。田舎は静かです。静寂といってもよいでしょう。聞こえるのは鳥の声くらいでしょうか。連休をあちこち出かけて混雑に拍車をかけるのもそれぞれの感性ですのでそれもよいでしょう。今朝の毎日一面で大きく取り上げていたいのは<西日本豪雨10連休、被災地で汗 岡山・真備で写真洗浄/広島・呉で畑を修復>でした。こんな連休の過ごし方もいいですね。

 

さて、今日の花はトリアシスミレ。<トリアシスミレの花は>に写っている花とは少し違う感じですが、葉の形が変わっていて、先端で細く別れていて、鳥の足に似ていると言われると、はあ、と思いつつも、まあ、ネーミングですからOKでしょうか。花弁の色・形を無視しているところがちょっと面白いです。その花言葉は<「誠実、小さな幸せ」>ですか。

 

さて、古代においても誠実さはやはり評価されたのかもしれません。塩野七生著『ローマ人の物語I ローマは一日にして成らず』をざっとですが読み上げました。登場する人物が多すぎて地理も不案内なためまだぼやっとしたところにあります。次は途中をとばして一挙に『ユリウス・カエサル』を今日から読もうかと思っています。というのはアマゾンのプライムビデオでは、ROMEというタイトルで、紀元前50年ころから30年ころまでのローマを、カエサルやアントニウスなどを中心に長編ドラマとして描いていて、最近これを時折見ています。カエサルのような独裁官といった人たちの生活や考え方を描くだけでなく、ローマ市民、市民権のない庶民、奴隷などの生活や考え方が色濃く描かれていて面白いです。

 

わが国の歴史小説なり映画・ドラマではどうしても武将とか英雄、天皇・貴族といった人が中心になっていますね。庶民の生活は江戸時代くらいにならないと資料不足で描けないのでしょうかね。むろん澤田ふじ子・瞳子両氏のように、奈良・平安・室町まで庶民や奴隷をリアルに取り上げた作品もあるので、皆無というわけではありませんが、歴史家が慎重である分、小説家は大胆な仮説で描いてもらいたいと願うのです。

 

塩野氏のローマ物語Iは紀元前10世紀くらいから4世紀くらいまで長丁場を扱い、全体の総括的な意味合いもあるのでしょうか、リアルな状況描写はほとんどありませんが、全体を理解するのに論理的で解説も丁寧で面白く読みました。ROMEでカエサルの人間像を含め多層な社会構造のリアルな状況を多少理解しているので、読み進めるのを楽しみにしています。

 

前置きがまたまた長くなりましたが、今朝の毎日記事<ストーリー謎に挑む、盗掘を阻む 混乱続くエジプトの考古学者たち>は、いくつかの点で古代(西洋における)研究の最近の状況の一端や、新たな魅力を浮き上がらせてくれます。

 

篠田航一記者の熱意あふれる記事です。私の関心をまず惹いたのはピラミッドの建設がどのように行われたかでした。<紀元前5世紀の歴史家ヘロドトスは著書「歴史」の中で、カイロ近郊ギザにある巨大ピラミッドを建設したクフ王(紀元前26世紀)を結構悪く書いている。ピラミッドを造った労働者を奴隷のように働かせた、というトーンだ。>そうですね。映画でも奴隷がムチで叩かれたりしてまさに苦役を課され、それでようやく完成するといった画像が普通に当然と受け止めてきたと思います。

 

ところが最近の研究では、そうではないという研究成果が生まれているようです。

<最近の研究によれば、建設に従事した人々は奴隷などではなく、綿密に組織立てられたグループ単位で働き、豊かな食生活を営んでいたという。1988年、ギザのスフィンクスが位置する場所から約400メートル南で、当時の人々が住んでいた町「ピラミッド・タウン」の跡が見つかって以降、こうした状況が徐々に分かってきた。定説が塗り替えられるのも古代史の面白さだ。>

 

これまではピラミッドやスフィンクスといった世界遺産にばかり注目がいっていましたが、その建設を担った人たちはどうだったか、「ピラミッド・タウン」といった作業現場・まちの様子にも注目されるようになったわけです。

 

私が以前このブログで紹介した澤田瞳子著『与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記』は、奈良時代の東大寺大仏をつくる建設現場の状況について、飯場を舞台に見事に描かれていると思うのです。聖武天皇や行基の位置づけも興味深いですが、なによりそこで働く人たちの人物像が光ります。

 

また脱線しました。この「ピラミッド・タウン」から、いわゆる仁徳天皇陵とか応神天皇陵という巨大古墳も、もしかして人々がすすんでつくったのではと一瞬、思ってしまいました。日本書紀では、たしか唯一に近い古墳築造の様子を描いている、箸墓築造については、庶民が協力してバケツリレー並みに二上山から土を運んだとか記されていたかと思います。そんなことは・・・と思っていましたが、もしかして・・は一応、考えておく必要がありましょうか。

 

なにせ「仁徳」と何世紀も経った後、諡(おくりな)がつけられたわけですから、そういった伝承があったのかしら。竈の煙の話はどうもと思うのですが。

 

もう一つ、この記事で興味を惹いたのは3人の女性研究者でした。一人は日本人。

<発掘チームの中に、エジプト在住歴17年の日本人考古学者、矢羽多(やはた)万奈美さんがいる。・・・ 「当時の生活を知る上で大切なのは、ゴミ捨て場です。考古学者にとっては宝の山。日本でいえば貝塚ですね」 ・・・ 一般労働者が住んでいたエリアからはヒツジやヤギの骨が見つかった。一方で身分の高い人々の居住区にはウシの骨が多い。「古代人にとってもやはり牛肉は高級だったようです。作業員はビールを飲み、パンを食べ、栄養価の高い食事をしていました。今はヘロドトスが唱えた『奴隷説』は、ほぼありません」 >と明快です。すばらしいですね。女性研究者のアプローチ、地味ですが定説を覆す意欲を感じます。

 

少し冗舌すぎるので、あと一人、<中米ドミニカ共和国出身の女性考古学者キャスリーン・マルチネスさん>を取り上げます。<本業は弁護士だが、古代エジプトに魅せられた幼少期からの夢をあきらめきれず、法廷に立つ傍ら、考古学の学位も取得。05年から私費も投じて発掘を始めた。20カ所以上を調べた結果、アレクサンドリアから約50キロ南西のタップ・オシリス・マグナ遺跡にたどり着いた。>やりますね。

 

で、マルチネスさん、<「自らをイシス神の化身と考えたクレオパトラは、アントニウスと共にここに眠っているはずです」>と、その墓を発見しようと、発掘を続け、いろいろ関係するような遺物を発見しています。アントニウスもクレオパトラも、ROMEでは極端な性的愛好家のような人物に描かれていますが、さて実態はどうなんでしょう。弁護士も十人十色ですが、こういう夢と希望を求めるタイプはいいですね。

 

ところで、もう一つの記事、<今週の本棚磯田道史・評 『新しい古代史へ1 地域に生きる人びと 甲斐国と古代国家』=平川南・著>は、さすがいま話題の歴史家・磯田氏が取り上げるだけの興味深い本です。ただ、西暦800年前後を古代と呼ぶのはやはり少し抵抗がありますが、わが国では仕方ないでしょうね。

 

<古代社会の地方のありよう>を語ると磯田氏は指摘するものの、「武蔵」「等々力」「栗原」という地名の呼び方とか、古代の一戸ごとのマイナンバー制とか、興味のある話ですが、どうも、暮らしの実相とまではいかないような取り上げ方です。ただ、栗原が呉原から来た馬の飼育場を意味する地名というのは分かりますが、等々力はなんでしょうね。昔ある大きな執行事件現場で、なんども下準備で訪れた東京の等々力渓谷近くを思い出しましたが、そこが馬と関係するとは・・・

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 

 

 


亀形石と水 <大阪・四天王寺 「亀形石」>などを読みながら

2019-04-27 | 古代を考える

190427 亀形石と水 <大阪・四天王寺 「亀形石」>などを読みながら

 

一昨日のNHKクローズアップ現代プラスでAIで将来代替される職種が話題の一つになっていました。タイトルは<AIに負けない”人材を育成せよ ~企業・教育 最前線~>で、上記以外に認知症を防ぐ、あるいは直すといったさまざまなAIの可能性も取り上げられていました。その代替されうる職種が私たちが現在、日常的に利用しているほとんどのサービスをカバーしている感じですね。上記ウェブ上にその表がアップされていますが、90%以上に行政書士や税理士が、50%以上に公認会計士や司法書士が上がっています。弁護士は入っていませんが、どうでしょう、私が以前このブログでも書きましたが、50%以上までいくかわかりませんが、相当程度カバーされると思っています。

 

他方で、行政書士も複雑な事案ではAIでも対応できないと思います。むろん税理士、公認会計士、司法書士も同様ですね。番組で解説されていた創造力やコミュニケーション力などそれぞれの職種でよりレベルアップした能力が求められるのではないかと思います。

 

それから今後の(幼年期を含めた)教育のあり方について、松尾豊さん (東京大学大学院 教授)と田坂広志さん (多摩大学大学院 名誉教授)の意見が対立したのが興味深かったですね。前者はAIを積極的に採用で、後者はある一定の年齢まで制限・禁止するというものです。先進国でも両方のやり方が行われているようです。当然でしょうね。一つしかないと考える方がおかしいでしょう。義務教育でもそうでしょう。

 

さて、この話題はこの程度にして、今日の花言葉に移ります。今日は姫うつぎを取り上げます。<5月19日の花ヒメウツギ(姫空木)>によると、<秘密・秘めた恋・夏の訪れ・古風・潔白>ということです。この中で、<古風>というのはなんでしょう。清楚な雰囲気もあることから、その延長線でしょうか。潔白ということばも、秘密とか秘めた恋から怪しまれつつも天に恥じないということでしょうか。まあ、いろいろ考えるものです。私のように創造力の乏しい人間には花言葉で楽しめます。

 

さて本日のお題に入ります。今朝の毎日記事で大きく取り上げられ、①<大阪・四天王寺亀形石、7世紀に製作 国家祭祀用か>②<大阪・四天王寺「亀形石」7世紀製 酒船石遺跡に同遺構 祭祀跡か>③<大阪・四天王寺亀形石造物 1300年、祈り映す亀 国家から庶民へ>の3つがアップされています。

 

<四天王寺(大阪市天王寺区)は26日、建立の祖・聖徳太子の没後1400年忌(2022年)に向けて、境内の亀井堂にある亀形石造物を初めて学術的に調査したところ、7世紀に造られたものだったと発表した。>聖徳太子の没後1400年忌ですか、日本書紀では旧暦25日薨去とされていますね。

 

亀形石造物が7世紀製作とした根拠について、<女帝・斉明天皇(在位655~61年)の祭祀(さいし)遺構とみられる奈良県明日香村の酒船石(さかふねいし)遺跡で2000年に発掘された亀形石造物と年代や規模、構造がほぼ一致した。>と、有名な酒船石との比較検討の結果のようです。

 

②の記事に両方の写真が、③の記事に両方の図が掲載されています。これで違いがある程度分かります。酒船石は多くの人が見たことがあると思います。私も一度見たことがあり、斉明天皇時代の特徴的な石造物の一つかなと思うのです。

 

この両者の違いについて、<網伸也・近畿大教授(考古学)は、四天王寺と飛鳥の亀の表現を比較し、前者は爪や甲羅の表現が写実的だが、後者は「漫画チック」だと指摘。>のとおり、前者は誰が見ても亀ですが、後者はデフォルメしていて、別の意味で芸術性を感じます。

 

この比較から、網氏は、<「四天王寺の方がより古く、仏教を重んじた孝徳天皇に関わる施設ではないか」と話す。>とされていますが、四天王寺の方を古いと推認できる根拠としては上記の差では弱いと思うのですが・・・まして難波宮に都を移した孝徳天皇に関係する施設として、孝徳朝につくられたとみるのはまだ早いのではと思うのです。だいたいこの亀形石造物が仏教とどう関係するのでしょう。日本書紀の記載にそのようなことがうかがえるものはなかった記憶です。この点はすでに諸説あることが記事でも指摘されていますが、想像の域を超えない感じです。

 

余分の話をしてしまいました。この石造物自体に迫りたいと思います。

 

石造物がある<亀井堂は五重塔や金堂など中心伽藍(がらん)の北東に位置。>

その亀井堂の中に③の写真で見られるように、おそらく地表面から階段で降りていったところに、湧水源があり、そこから2つの亀の石造物が繋がっているようです。

<現在の地表面から約1・5メートル低い水の湧く場所に、1対の2匹の亀が向き合う形で据えられている。現在は、上の亀(全長122センチ、幅154センチ)の口から流れ出た水が下の亀形水槽(全長215センチ、幅152センチ)にたまる仕組み。水面に戒名を書いた経木(きょうぎ)を浮かべ先祖を供養する「経木流し」の場として今も用いられ>てきたそうです。

 

その点、酒船石は、私の記憶では、石造りの水道から水を引き、長方形の貯水槽で一旦水をため、そこから亀をデフォルメした水槽?に注ぎ、さらにその先には排水?するようになっていたかと思います。一見すると、両者の思想に共通するものがあるとはいえないと思うのです。とはいえ、深い意味合いがあるのかもしれないので、ここは断定しませんが。

 

で、この石造物が7世紀製作とした根拠については

<今回、石の材質を調べたところ、下の亀形水槽と上の亀の台座部分(手足含む)は、凝灰岩の一種「竜山(たつやま)石」の巨大な一枚岩を削り出して造られていた。また、台座部分は元は水槽だったが、上の亀の頭と甲羅(いずれも花こう岩)が後世にふたをする形で補われ、手足もその際に付け足されたことがわかった。>

このことから、両者の形態上の相似性を認めたのでしょうかね。私は上の亀はともかく、下の亀がかなり異なる形態に見えるのです。

 

他方で、材質や祭祀がどうやら決め手になったようです。

<元文研の佐藤亜聖主任研究員によると、大型の竜山石は、7世紀に大王家の石棺や藤原宮の大極殿など王権中枢部で限定的に使われたという。また、水槽を並べて水を流す祭祀形態は古墳時代からあったが、8世紀になると見られない。加えて、酒船石遺跡と同じく亀形石造物に水が流れる構造で、同様の役割を果たしたと考えられることから、亀形水槽と上の亀の台座部分は、7世紀にさかのぼると判断した。>とのこと。

 

竜山石の利用が限定されていたことは説得力がありますか。ただ、水槽を並べて水を流す構造を前提に、祭祀形態としていますが、亀井堂の方はどうも流すというより、明確な貯水槽ですね。現在経木を浮かべているという利用の仕方が自然ですね。建造当時は酒船石のように流すようにできていて、その後閉めたというのであれば別ですが。それに足部はべつにして、斉明朝の多様な石造物とも明らかに異なる意匠ですし、それ以前、あるいは前後に類似の形態の石造物があったのでしょうかね・・・

 

そんなことは本日の主題ではないのに、また脱線が延々と続いてしまいました。今日のお題は水、しかも湧水です。四天王寺がある位置はたしか上町台地(あるいは孝徳期は岬?)であったと思うのですが、台地ですし、その西はなにわの海、東側は湿地か湖に近い状態であったのではと思うのです。すると水をどのように工面していたのか気になっていましたが、この亀形石造物は地表面から1.5m下に湧き水が出ていたようです。四天王寺は台地(岬)の根元付近であったのではと思うのですが、南方から石川や大和川など多くの河川が北流し、その一部が伏流水となって台地の下を通っていたのかなと勝手な想像を働かしました。

 

仮に仁徳天皇がいて最初に上町台地に都を建設したとすると、そのとき水をどうしていたのかといつも気になっていました。孝徳天皇の場合、仁徳時代に湧き水の水源を発見していたのであれば、上町台地に都をつくることに水の面では支障がなかったかなと思うのです。

 

他方で、天水だよりの時代、日照り旱魃のおそれを常にかかえていたことから、祭祀説も指摘されていますが、上町台地では生活の飲み水としても大事な水源であったのかなと思うのです。

 

思いつきはこの程度にして、今日はこのへんでおしまい。また明日。