たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大畑才蔵考その18 <元禄高野騒動の続きと寺社奉行の役割、桛田荘支配と小田井開設>などを少し考えてみる

2018-05-07 | 大畑才蔵

180507 大畑才蔵考その18 <元禄高野騒動の続きと寺社奉行の役割、桛田荘支配と小田井開設>などを少し考えてみる

 

連休明けなれど、仕事がたまっていて、忙しく打ち合わせや会議を終えるともう帰る時間。今日は朝刊もなく、ウェブニュースを見てもぴんとこないのです。

 

こういうときは神頼みならぬ、才蔵頼みで、久しぶりに才蔵考を書いてみようかと思います。といっても思いつきですので、いくつかの資料を斜め読みして、以前書いた元禄高野騒動の続編的な感じで行こうかと思っています。

 

この元禄高野騒動というか、寺社奉行という当時の最高裁に匹敵する裁判機関による江戸時代における大裁判劇?はとても魅力があるものの、資料を見いだせずにいて、今回は簡単な資料を基に、少し敷衍してみようかと思っています。

 

すでに前のブログで2回はこの裁判の内容を取り上げています。で、今回は白井頌子著『近世における高野山と紀州藩 -地士の分析を中心に』の中に、わずかな分量で、「元禄の高野騒動について」について言及している部分を引用したいと思います。

 

ここでは、騒動の原因と、裁判の内容、そして白井氏が関心を抱いている紀州藩の役割を取り上げています。

 

白井氏は高野春秋などを参考にしてコンパクトにまとめているようで、騒動の原因についても簡潔なもので、これだけで本当に原因が解明されたかはなんともいえません。ともかくその原因について次のように述べています。

 

高野山には学寮方、行人方の対立が中世からあり、江戸時代に入っても「学侶方の無量寿院澄栄が行人方の文殊院応昌に灌頂授供を約したのに対し、三〇〇〇人の学侶一同が、家康御朱印に背くものとして反対した。」ことから、紛争が本格化したのです。

 

この詳細は、むしろ<村上弘子著『高野山信仰の成立と展開』>を紹介しているブログが極めて詳細で、参考になりますが、いつか取り上げます。

 

で、双方からの訴えで何度かの裁許・裁決が繰り返された後、1692年の元禄高野裁許が最終的にくだされ、落着したようです。

 

結論は、以前も書いていますが、なぜか行人方の大粛正という一方的な結末です。上記村上著作の紹介ブログではこの点について高野春秋を基礎にしているようで<江戸初期における高野山の勢力は、坊の全数が1865軒であったが、その内訳は、学侶坊210軒、行人坊1440軒、聖坊120軒、谷之坊53軒で、行人方寺院が圧倒的多数派をしめていた。>

それが<元禄5(1692)7月、幕府は服従しなかった行人方の627名を大隅、薩摩、肥前などに遠島とし、行人方寺院、902軒を潰寺とする裁決を下した。

 行人坊で存続したのはわずかに280軒、新寺院の建設は禁止された。>というのですから、行人方の一方的な敗北で、その後は勢力を消失したのでしょう。

 

で、私が紹介したかった白井氏の著作ではその裁許がいかに大がかりであったかを示す記述がされています。

<この時、幕府の寺社奉行、大目付、目付の三人が上使として江戸から五〇四人を引き連れ高野山へ派遣されている。>寺社奉行を筆頭に500人の大舞台が江戸から橋本にやってきて裁判を行ったのです。

 

しかも、実際の警護スタッフとして、紀州藩は総動員令のように13000名という大々部隊を編成しているのですから、驚くべき内容です。

<その時に、紀州藩は、上使一行の警備と行人方の抵抗を阻止するため、紀州藩地士達を動員した。若山から御家老・奉行・物頭・諸士・同心など約一万三千人近くの人員が動き、橋本へは役人三六人・侍一〇〇騎・歩立一〇〇人・足軽一二〇〇人・人夫一五〇〇人、紀ノ川の上には人夫一万人を配置した。また、六十人者をはじめ、地侍共や大庄屋等にも、出張が命じられ、総勢八十一人の地士・帯刀人が出動している。この時、高野地士が動員されているかどうかは定かではない。>

 

ですから、私はこの元禄高野裁許は、江戸時代最大の寺社裁判だと思うのです。

 

で、小田井との関係ですが、木食応其上人が秀吉から高野山を守り、領土の保全を許可されていますが、彼こそ行人方です。その応其上人は、いま読み始めた和歌山県立博物館発行の『紀伊国桛田荘と文覚井』の中で、紀ノ川中流域の灌漑水利施設の改修をたくさん手がけ、「かせたの池」などもその一つとして紹介されています。その応其上人の地位を行人方トップが引き継いだわけです。上記文献の中に、桛田荘に祭られている宝来山神社が1614年に高野山の吉徳院(行人方)と地元土豪の是吉によって再考されたという記述があります。

 

まだこの文献をなかなか読めていないのですが、桛田荘など紀ノ川中流域の田畑を支配していたのは行人方ではないかと思っています。そして元禄高野裁許によって、行人方が追放された結果、しかも紀州藩もそのために13000名も配備したわけですから、その支配権を紀州藩が実質的に握ることがようやく達成できたのではないかと思うのです。

 

つまり、小田井から灌漑用水を中流から下流に引こうとしても、桛田荘などが行人方によって支配されていると、その反対に遭ったり、彼らに利することになり、紀州藩としてもそのような大事業に取りかかれなかったのではないかと、疑っています。そこに元禄高野裁許と小田井開設には重要な関連性を感じるのです。私のまだ根拠の乏しい推測ですが・・・

 

今日はこれにておしまい。また明日。

 

 


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