たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

紀氏と「木村」姓 <日本人のおなまえっ!選【村がつく名字】>を見ながら

2018-06-29 | 紀ノ川の歴史・文化・地理など

180629 紀氏と「木村」姓 <日本人のおなまえっ!選【村がつく名字】>を見ながら

 

昨日も少しむしむしする夜でした。そしてサッカー・ロシアW杯の決勝トーナメント進出をかけた大一番が始まる午後11時がもうすぐでした。が、その開始時刻を迎える前に眠気が勝ってしまい、試合の行方は夢の中。

 

今朝のNHKラジオ番組「すっぴん」では高橋源一郎氏登場の日なので久しぶりに聞いていると、源一郎さん(とラジオでは呼ばれているのでそう呼称させてもらいます)は日本中?が騒いでいるロシア大会のこと、日本代表チームの活躍や決勝進出のことも、一切知らない、蚊帳の外にあって、初めて知ったとのこと。これは素晴らしい、だれもがTVや多様な情報媒体が取り上げるテーマに踊るわけではないのですから、当然ですね。源一郎さんのいいところはこういう情報の波を気にしないところでしょうか。

 

ところで、決勝進出という結果はわかったのですが、その後の情報を確認すると、見ていた人は誰もが冷や汗をかくどころか、日本チームの試合運びに不満やわけがわからないといったいらだちもあったことが想像できます。見なくて良かったと思う次第です。

 

とはいえ、西野監督の恐るべき決断と選手一丸の薄氷の上を歩くプレイは、仮に決勝進出できなかったとしても、評価されてもいいかもしれません。それはサッカーの試合、ワールドカップの意義を貶めるとの批判とか疑問を私も感じつつ、他方でそこまで割り切れるメンバーたちにやはり拍手を送りたい思いです。

 

またまたサッカーW杯の行方の話になりましたが、昨夜はNHK番組を見て少し考えながらぐっすり眠ってしまったのです。それは<人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!選【村がつく名字】>です。時々見ていますが、見るたびに人の名前っていろんな姓があり、面白い来歴があるものだと感心するのです。

 

昨夜も「村」のつくいろいろな名前の由来が話題となりました。その中で、「木村」という名前について、私は考えたこともありませんでしたが、紀氏と関係することがわかりました。

 

途中から見たので正確ではないですが、たしか木村という地名が使われているところが全国に4カ所か5カ所あり、それが紀氏と関係するというのです。普通は木が多いところとか、特別な木が生えているところとか、そういったイメージを浮かべますが、紀氏という氏族が古代に拠点を置いていたことから名前が残ったようです。氏族の名前というと、逆に地名の名前からとったとも言われますね。

 

紀氏といえば、藤原不比等を筆頭に藤原家が政権を担うようになる前までは、大伴氏とともに文武両道に秀でて、軍事部門を担う有力者だったと思います。

 

桓武天皇の時代ころに、東北蝦夷の征討軍を率いたのは当初は、たしか大伴氏、紀氏でした。その紀氏の一門が関東など各地で拠点を置き、中には古墳を作ったようです。そういった拠点の中に、紀氏の村という名前が残り、いつの間にか「木村」に変わったのでしょうか。

 

あるいは紀氏という名称を使うことがはばかれるようになったのでしょうか、「木」という当て字を使うようになったのでしょうかね。類似のケースとしては、蘇我氏の場合はいえるのではないでしょうか。「蘇我」という地名は千葉市の近隣にある場所しか知りませんが、ほとんどは曽我とか、曽賀とかに地名も、人名も変わったのではないかと思うのです。

 

ところで、紀氏については、以前も紹介した日根輝己氏がいくつかの著作で詳しく論述していて、『紀氏は大王だった』では天皇に匹敵する存在であった可能性を示唆しているように思います。その中身はいま思い出せないので、割愛します。

 

ここまで紀氏を取り上げてきたのは、「紀ノ川」という名前をいつも心のどこかで気にしているからです。一級河川というのは行政上の区分ですが、紀ノ川はむろん一級河川ですし、やはり大河の一つといってもよいと思うのです。でも不思議なのは和歌山県境を東に一歩踏み入れると、吉野川に名前が変わるのです。いつからそうなったのでしょうか。いや、そもそもどちらが先に名前がつけられたのでしょうか。はじめから2つの名前だったのでしょうか。それが不思議なのです。

 

これだけの大河の名前が流況なり河川形態上、識別するものがないのに、昔で言えば国が変わったから名前が変わるといったことがあったのでしょうかね。あまり調べたことがありませんが、支流になると(そう識別されると)、別の名称がつけられるのはわかります。でも吉野は国名でもないですね。地域の名前として古代では宮をおいたりして、由緒正しかったので?、吉野川ありきだったのでしょうか。

 

他方で、紀伊の国に入ると(紀氏がいつ頃からいつ頃までこの地に支配を及ぼしていたかはっきりしませんが)、紀ノ川と名前を変えるだけの影響力があったのでしょうね。といっても吉野川も、紀ノ川もその名前の命名時期をいつ頃とできるのかもわかりませんが。

 

実際、行政上は、戦後初期にようやく吉野川と紀ノ川を総合する河川計画が樹立できたようで、何百年にわたって水利・治水事業を総合的に行うことを阻んできたわけですから、名前の違い以上に、その河川流域の人たちにとってみれば、大きな壁があったのでしょう。

 

さて分けのわからない顛末になりそうですので、この辺でおしまいとします。また明日。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿