ベイエリア独身日本式サラリーマン生活

駐在で米国ベイエリアへやってきた独身日本式サラリーマンによる独身日本式サラリーマンのための日々の記録

メイプル寮

2021-05-02 00:37:24 | 生活
メイプル寮とは、筆者が過ごしていたとある地方都市にある大手予備校の寮のことだ。筆者の田舎にはローカル予備校しかなく、そこで高校時代と変わらぬメンバーと共に高校4年生のような1年を過ごすことに不安があったために両親に願い出て、この地方都市の大手予備校へ行くことを許してもらったのだ。そしてメイプル寮に入った。新幹線の車窓からこの寮を見ることができたので、何とか1年で浪人生活を脱却した後も帰郷の度に、『あ、メイプルまだある』などと思っていたが、いつからか無くなってしまっていた。少子化や情報通信化の影響だろうか。今日はそんな浪人生活を終えて二十年近い週末の昼下がり、その頃の思い出を身バレしない程度で書いていこうと思う。




メイプル寮の思い出は以下のとおりだ。参考にしてもらいたい。



①寮のシステム
寮は6階建てで、屋上は洗濯物が干せるようになっていた。入り口は診療所のようなガラス扉になっていて、そこを入ると右手に受付のような窓口があり、寮長か寮母がいる。正面には寮生全員のプラスチック製の名札がぶら下げてあった。名札の表は黒字、裏は赤字で名前が書いてあって、これを外出するときは赤にして、帰ってくると黒に戻すシステムである。門限は午後8時だったと思う。と言うのも、午後8時になると寮内に放送が流れ、寮母が優しい声で『はい、八時です。八時になりました。』と言うからだ。2階から6階まで浪人生でぎっしりで、合計100人以上の浪人生が居たのだが、入寮から早いうちに何となくグループが出来上がってしまい、それに乗り遅れると輪に入るのは難しい。筆者は運よく比較的大きな輪に入ることができたので、わびしい思いはせずに済んだ。



②寮長・寮母
寮長と寮母は受付と繋がる1階の部屋で暮らしていた。寮長は姿勢のいい痩せた男で、掘りの深い顔をしていた。当時彼は喉頭がんか何かの手術後だったのか、始終マスクをしていてうまく言葉を喋れなかったのだが、それでも明るくよくしゃべるので、言っていることが判らずに戸惑うことがあった。寮の部屋には電話がなく、携帯電話の所有率もまちまちだった当時は、両親からの電話は寮本部にかかってくる。それが各階の洗濯室にある電話に転送されるのだ。その転送を知らせる放送が、。『206、タカハシ、電話!、206、タカハシ、電話!』と、寮長のフガフガ声で寮内に流れるので、『あ、またタカハシは親から電話だな』とわかるのだ。寮母はフランスパンが似合うジブリ映画に出てきそうな優しい雰囲気の女性で、“若いころは美人だったに違いない”など言う人もあった。




③かまど屋
寮の玄関を出て左手の細いビルの1階はかまどやだった。駅前の人通りの多い場所から随分と離れて、立地はよくないはずなのだがそこそこ客がいたようだ。そこでは40代位の苦労人風の女性が一人で働いていたのが記憶にある。今はこのかまどやもなくなってしまっている。



 ある夏の日の夕暮れ時に、予備校の夏期講習からの帰り道、寮の正面にある公園で夏祭りの準備をしている人々に出くわし、どういう訳だかその盆踊りのリハに加わって踊ったことがあった。ほとんど仕上がった祭りの会場で、数人の祭り関係者と浪人生のみで踊り狂い、妙な夢心地になっていた。浪人の不安や童貞の苛立ち、夏の匂い、薄暗さ、そんなものも影響したのだと思う。最後にはすっかり祭り関係者の人たちと打ち解け、『明日の本番も踊りに来て』と言われたのだが、筆者はそれには行かず、部屋でベットに寝転んで祭りの音を聴いていた。あの町内の祭りは今でもやっているのだろうか。

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