“お客さん! 本を忘れているよ。”とは、購入したエロ本をレジに忘れて立ち去ろうとしたシイ君に、エロ本店員が放った台詞である。その店員は、エロ本専門書店店員らしからぬ朴訥とした初老男性であった。店構えも寂れた一般書店風で、ぎらついた性欲を感じさせないものだった。かつては一般書店だったものが、経営難からやむを得ずエロ本専門店になったのかも知れない。そう、今回はお楽しみ、筆者の10代日本式童貞浪人生思い出シリーズだ。21世紀直前の日本では、浪人生とエロ本にはまだ密接な関係があった。本稿はそういう文化的な記録としても、いささかの価値があると考える。
この台詞を聞くことになった経緯は以下のとおりだ。参考にしてもらいたいエロチカ。
①エロ本専門店
“川向うのエロ本専門店へ行けば、良品があるらしい”そんな噂が予備校の寮内に広まったのは、桜の木に若葉が目立ち始める頃だった。既に何人かの医科歯科志望生らが、その書店で洋モノ・ハード・コア本を入手し、大いに満足しているのだという。さっそく我々も出かけることになった。その頃のメイプル生はグルーピング活動を終え、メンバー間では食堂などで屈託なく談笑する程度の関係が構築されていた。そうなると、自ずと“エロ”つまり“下の処理”についての情報交換が始まってくるのである。寮の個室での下の処理には、これまでの家族の様子を窺いながらのオソルオソルの処理とは違う解放感があった。しかしテレビの回線もなく、ネットなど望むべくもない当時は、エロ本が必要であった。
②地方都市のエロ本事情
ところが当時のその地方都市は、エロ本の入手に問題を抱えていた。こういった成人書物の販売は、一般書店に加えてコンビニや(長距離運転手を対象にした)国道沿いの自動販売機などが挙げられる。しかしその地方都市特有の条例の影響なのか、一般書店やコンビニにおける成人書物の品揃えがたいへん貧弱、つまりソフト・エロ風味のものしか置かれていなかったのだ。浪人生たちはしばらくの間、寮から徒歩15分の場所にあるコンビニで、縁の太いメガネをかけた面長な中年女店員から購入したソフト・エロ雑誌で間に合わせていたが、特にハード・コア志向の医科歯科志望の浪人生たちが不満を募らせていた。
④エロ本専門店へ行く
講義の後に、4、5人の浪人生で川向うへと繰り出した。工学部志望(童貞)の筆者は、医科歯科志望者のようなハードコア本は必要としなかったのだが、新しい友達と知らない町を歩くことに楽しみもあり、付いていくことにした。それにシイ君が来ることで安心感もあった。彼だけは新しい友達ではなく、高校時代からの友人だったのだ。入寮当時のシイ君は、布袋寅泰と羽生結弦選手を混ぜ合わせたような不敵な風貌をしていて、積極的なグルーピング活動をせずとも自然に寮生と溶け込んでいっていた。夕暮れ前のエロ本専門店へと続く道は風があり、肌寒かった。
筆者は店内の膨大な卑猥画像に目がくらんでしまい、適当な本をササっと選んで会計を済ませた。他のメンバーも思い思いの品物を購入し、ビニル袋に入った品物を手に店先に集まった。だがシイ君が出て来ない。シイ君は丹念に商品を物色したせいで、皆に遅れをとったのだ。シイ君がやおら会計を済ませ、ニヤニヤ笑いながら奥まった店内から手ぶらで出てきたときに、“お客さん! 本を忘れているよ。”と声が店内に響いた。シイ君は慌てて“あっ すみません”と振り返ってレジへ戻った、というだけの話だ。布袋寅泰と羽生結弦選手を混ぜ合わせたような不敵な風貌のシイ君が、慌てて振り返って戻ったシーンが可笑しくて、新しい友達全員で笑ったのだ。新しい風が吹いた気がした。因みにそのときシイ君が購入したエロ本が、“ベスト・ビデオ”であり、後に寮内でベスト・ビデオ争奪戦が始まるほどの人気本となる。慧眼の持ち主である。