履 歴 稿 紫 影子
香川県編
第二の新居
私が父母に連れられて教理の加茂村から引越した第一の新居は、明治の維新前には武家屋敷であったのだが、維新後は清水と言う農家の所有になったと言う家であって、私たち親子はその清水さんの家に借家住居をして居た者であった。
その日が何時であったかと言うことは、父の履歴稿にも残って居ないので判然として居ないのだが、家主の長男が結婚をして別居をするのだからと言う理由で、私たちが住んで居た借家を返してほしいと言って来た。
その時の私は、尋常科の二年生になったばかりの頃ではなかったかと思っているのだが、私達の家族は、その清水さんの借家から約三百米程北方に当たる第二の新居へ引越すことになったのであった。
新に引越した新居は、第一の家から右へ二百米程行った所に在る銭湯の前から西方へT字路になって居る道を百米程行った所の右側に在った。
この第二の新居も嘗ては武家屋敷であったらしく、表は門構えの家であったが、屋内の間数は六畳が三間に台所と言う一棟二戸建の手狭な家であった。
そしてこの家の構造は、門をくぐると約五米程を敷石伝いに玄関へ行くようになって居たが、玄関を這入った所の土間は、第一の家と同じように家の裏側へ筒抜けて居て、その突き当った所に井戸があった。
また、玄関を這入った左側には六畳間が在って、その奥とその右隣りに二つ並んで六畳間があった。
台所は、玄関からあがった六畳間の右隣に在って、裏に筒抜けて居る土間との間には第一の家と同じように仕切りと言う物は無かった。
そしてこの家の井戸水も第一の家と同じように飲料不適の水であったので、一桶いくらと言う有料の水を炊事と飲料に使って居た。
表の門は向かって右端に在った。
そして左側は、隣家の門までが白壁の土塀になって居た。
併し門内の隣家との境は板の塀で仕切られて居た。
また、玄関の土間からあがった六畳間とその奥の六畳間の表側には縁側があって、外壁との間に2、3の庭木が植って居た。
この第二の家には、5カ月程しか住わなかったのでこれと言った追憶は無いのだが、第二の家が狭かった関係か、私が姉さんと呼んで居た叔母が、再び法勲寺村の生家から通学をするようになって、私達と一緒に引越さなかったのが私にはとても淋しかった。
その事があったあとで、父からひどく叱られたのだが、その時の私にはとても面白かった事件が、この第二の新居時代に一度あった。
それは、私が兄と二人で銭湯に行った帰り道でのことであったが、私達の第二の家から銭湯へ行く途中に、昔は亀山城の重役が住んで居たと言う。
可成広い屋敷が在って、その門前にとても大きい枝垂れ柳が一本あった。
その日が何時であったかと言うことは記憶にないのだが、風も薫ると言う初夏6月の或る日暮時に何時ものように私は兄と二人で銭湯に行った。
私達兄弟が脱衣場から浴槽へ這入て行くと、斉藤という兄の同級生の顔が、ポッカリと湯船の中に浮いて居た。
兄は、その同級生と話に夢中になって、私が丹念に流し終っても、兄達二人の長話は終わりそうになかった。
途方にくれた私は、幾度も湯船へ無駄につかって兄達の話が終るのを待ったのだが、何時果てるとも判らないと言う状態であったので、「兄さん、俺は先に帰るわ。」と言って、私は浴槽を出た。
私が銭湯の暖簾を潜って表へ出るまでには、兄はまだ脱衣場へその姿をあらわして居なかった。
銭湯の暖簾を潜った私が表に出ると、其処に初夏の薫風が待って居たかのように、思わぬ長湯にのぼせた私の頬を心地よく撫でてくれた。
銭湯を出た私は、速い足どりで枝垂れ柳のある所まで帰った時に、兄は未だかと振返って見たものであった。
そうした私が振返った時には、既に夜のとばりが四辺を包んで居て、外燈の無かった路上の視界を狭めていたので、私の目の届く限りの路上には人の影すらも見えなかった。
併しその時の私は、誰か人の近寄って来て居るような気配を感じたので、じいっと今自分が銭湯から歩いて来た路上を見据えた者であった。
そうした私の耳には、カッ、コッと言う下駄の音が、徐々に近寄って来て居た。
その足音を耳にした私は、その足音の主を、てっきり兄の足音だな、と思ってしまったものであった。
よし、それならば一つ兄貴を吃驚させてやれと、悪戯気を起した私は、地上すれすれに枝垂れて居る柳の枝をかいくぐって、太い幹の後に隠れてその足音の近づくのを待って居た。
私の着衣は、南国香川県の初夏なるが故に、当然白地のものであった。
枝垂れ柳の幹に隠れた私は、兄貴を吃驚させるのには、こうした恰好か、それともこうかと、平常大人の人達から聞かされて居た幽霊と言うもののポーズを工夫して居た者であったのだが、その足音の主が、やがて柳の前にさしかかったので、私は垂れ下がって枝垂れて居た幾条かの枝を掻分て、其処から顔を出すと、「うらめしやぁ。」と言って出て行ったのであったが、と、その途端であった。
「キヤァ。」と、女性の悲鳴がしたかと思うと石鹸その他の銭湯用の道具を容れた洗面器を私に投げつけて、転がるように逃げて行った。
その瞬間「しまった。」と、私は一応思ったのだが、何と言っても尋常科の二年生と言う私であったから、その慌てて逃げて行った恰好が、とても滑稽に思えたので腹を抱えて笑ったものであった。
そうした私に、「オイ、何をそんなにゲラゲラ笑って居るんじゃ。」と声をかけて宵闇の中から兄の顔が出て来た。
私は、肩を並べて歩く道すがら、事の顛末を兄に話をしたのだが、性格的に無口であった兄は、「ウン、ウン」と頷くのみであって、別段興味を持った様子は無かった。
さぞかし面白がるだろうと思って話したものを、只無表情に兄が聞き流したことが不満であった私は、家に帰ってから、手振見振にも工夫を凝らして、得意然として父母に話したのであったが、そうした私の話が終るや否や、「馬鹿者」と父に一噶されて鉄拳の制裁を受けたことを覚えて居る。