読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

ホテル界の巨人が書いた、「『帝国ホテル』から見た現代史」(犬丸一郎著/東京新聞出版局)

2008-06-06 16:50:33 | 本;ノンフィクション一般
<目次>
1章 子供心に
2章 青春はジャズとともに
3章 アメリカ生活を楽しむ
4章 米欧で見聞を広める
5章 ホテルの改革と結婚
6章 ライト館と新本館
7章 ホテル新時代を迎えて
8章 ホテルあれこれ
9章 思い出すままに

この本を読んで犬丸一郎さんの人生を知ると、戦前から戦後にかかる日本のもっとも良い時代の、最も先端を過ごした良家のお坊ちゃまがそのまま、日本の顔となる「帝国ホテル」を率いてこられてきたことがわかります。ここで登場する人物、出てくる風景が眩しくて、犬丸さんという人の人生には暗の部分がなかったのかと思うほどでしたが、「終わりに」で、「苦労話などは面白くないないという人もあるので、帝国ホテルを舞台とした楽しい思い出や、忘れられない人たちとのエピソードを中心につづった」とありました。どおりで、と少し安堵したところです。

ホテル業界では帝国ホテル、ホテルオークラ、ニューオータニを指して「御三家」と呼ぶそうです。ホテルオークラは、1962年、大倉喜八郎氏の長男で大倉財閥の二代目である大倉喜七郎氏によって開業。ホテルニューオータニは、1964年に大谷米太郎氏によって開業しています。両者が、東京オリンピックに併せて開業したのに対し、帝国ホテルの開業は、1890年11月7日。隣接する鹿鳴館と密接な関連を持ったホテルとして井上馨が渋沢栄一、大倉喜八郎の両氏を説いて有限会社帝国ホテル会社を設立したホテルで、まさに日本の顔として長く君臨しているホテルです。

その経営権は「渋沢から大倉、そしてその死後は長男の大倉喜七郎へと引き継がれたが、戦後喜七郎が公職追放にあい、さらに財閥解体によって喜七郎が持ち株を放出せざるを得なくなると、かわって東京殖産の長田庄一から巨額の資金援助を受けた『北支の煙草王』こと金井寛人が1953年に株式の多くを獲得して会長となる。1977年の金井の死後は、その全持ち株が小佐野賢治の国際興業に譲渡。2004年にはその国際興業がサーベラス ファンドに買収されるが、2007年10月に国際興業保有帝国ホテル株式の大半が三井不動産に売却され、現在は三井不動産が約33%を保有する筆頭株主となった」。(ウィキペディア)

犬丸氏の華麗なる留学遍歴は、ご自身が語られるように「父が敷いたレールの上を歩く」もので、多少自嘲気味に綴られていますが、海外留学の経験のない私には垂涎ものの体験です。その中で培われた犬丸流海外営業の着目点、秘訣が次のように語られます。

「1970年代半ばに入ると、自動車に代表される日本製品が米国市場を席捲し、多くは日本企業が西海岸に進出していった。現地で日本製品を売るのは米国人ディーラーである。その中で特に業績のいいトップディーラーたちを各企業は年に一度、日本に招待し、慰労するようになった。いわゆるインセンティブ(報奨)ツアーである」。

「帝国ホテルにも、いくつかの会社からツアーの企画が寄せられた。私は、これはビジネスになると思った。企業からの予約を待つのではなく、むしろこっちから出向いていって売り込む方が得策だと考えた」

「さっそく単身、飛んだのはロサンゼルスである。そこでロサンゼルスの日本航空の支店に掛け合い、セールス担当のビューイック大槻氏と協力して事にあたることにした。それからが忙しかった。自動車、オートバイ、タイヤ、楽器、電機、食品・・・。ロス、サンフランシスコ周辺の各日本メーカーをくまなく回り、ツアーの企画を持ちかけた・・・招かれる米国人は夫婦同伴である。少なくて百組、多ければ三百組がホテルに泊まる。これを閑散期、つまり6月や11月に充てれば、ホテルは大助かりだった」。

一方、犬丸氏はフランスへも営業展開しています。

「フランスで仕事をする場合、少々困るのが言葉である。当時は英語がほとんど通じなかったし、こっちもフランス語は得意でなかった。しかし、アポイントをとるときぐらいはフランス語の方が早いと考え、私は一計を案じた。泊まっていたホテルの交換台に行き、交換手の女性にチップを渡したのである」。

「ふだんチップとは無縁の交換手は大喜びだった。そこですかさず、営業先のリストを見せた。『実はお願いがある。これらの会社に電話して、私の代わりにアポイントをとってくれないか』交換手はにっこり微笑んで、私の“秘書”を務めてくれた。外からのメッセージもすべて英語に訳してくれ、ちょっとした裏技は予想以上の効果を発揮した」。

また、犬丸さんにとっての「いいサービス」とは?

「ホテルで働く人間にとって大切なのものは三つある。目と耳と口である。せっかく神様から与えられたものだから、ちゃんと使わないともったいない。特に目は大事だ。目配りなくして気配りはありえない。目を見れば、その人がどう思っているかが分るし、目で合図もできるし、さまざまなものを『見る目』も養う必要がある」

「耳は、聞くためにある。苦情が一つ寄せられれば、それは氷山の一角と考えなくてはいけない。たまたま、そのお客様が指摘してくれたから、われわれに伝わったのである。苦情を言ってくれる方々には感謝の気持ちをもって接しなくてはならない」。

「口は慎むものである。言葉遣いにも気をつけないといけない。世の中の言葉が乱れているのは、上質なサービスを受けたことがない人間が増えているからだ。きれいな言葉で話しかけられたことのない人間に、きれいな話し方はできない。話し方はその人の教養と人格を表すものである」。

「ホテルにおけるサービスの良し悪しは、『きめの細やかさ』と『さりげなさ』のバランスによって決まる。どれほど丁寧にではあっても、従業員がベタベタまとわりついていたのでは、お客様が迷惑する」。


犬丸一郎(いぬまる いちろう、1926年3月10日 - )は、「実業家。1926年、当時帝国ホテルの支配人だった犬丸徹三さんの長男として、東京都に生まれる。1949年に帝国ホテルに入社、清掃係、客室係、調理場勤務を経て、翌年、アメリカに留学。大学でホテル経営を学ぶ傍ら、アメリカ屈指の高級ホテルで働き、近代ホテルのノウハウを習得。1953年に帰国後、再び帝国ホテルに勤務し、副支配人、常務、専務、副社長を歴任し、1986年には社長に就任。バイキングやフードフェスティバル、シアターレストランなどのさまざまな新サービスを導入し、帝国ホテルの改革に尽力してきた。1997年に社長退任後、2年間顧問を務め、1999年に退社」。


犬丸徹三(てつぞう、明治20年(1887年)6月8日 - 昭和56年(1981年)4月9日)は、「日本の実業家。石川県能美郡根上村(現・能美市)に農業兼機織り業 犬丸六右衛門・いその長男として生まれる。犬丸家は根上から4キロほど西へ隔たった『犬丸』から移住し江戸時代には犬丸屋の屋号で代々自作と小作をかねて農業を営んでいた。明治に入ってからこれを姓として名乗るようになったという」。

「芦城小学校高等科、旧制小松中学校(現・石川県立小松高等学校)を経て、1910年東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。在学中ある事件がきっかけで、学校は欠席しがちとなり禅と読書と政治演説に力を入れたため最後から数えて3番目の成績でかろうじて卒業した。就職先はなかなか見つからなかった。満鉄経営の長春ヤマトホテルを振り出しに、上海、ロンドン、ニューヨークのホテル勤務を経て、帝国ホテル常務で支配人だった林愛作に招かれる。1919年帝国ホテル副支配人となりその後、常務、代表取締役、専務等を経て、1945年社長。1970年顧問となる。」。

「ホテル経営を積極的に改革をした結果、帝国だけでなく日本のホテル業界を一流に引き上げた功労者である。ただ、『傲岸不遜』『オーナーの金井寛人にも頭を下げなかった』という噂も根強い。世界的文化遺産であるライト館取り壊しの責任者として世間の非難を浴びたが、建物が老朽化していたなど犬丸にも同情すべき点はある」。

「1957年、当時の帝国ホテル支配人であった犬丸が旅先のデンマークで魚介料理や各種の燻製などを客が好きなものを好きなだけ食べられる『スモーガスボード』という北欧の食べ放題料理スタイルに出会い内容的に『これはいける』と確信し、当時パリのリッツ・ホテルで研修中であった村上信夫にこのスモーガスボードの研究を指示を出し、それらのヒントによって考案された供食スタイルが『バイキング』である。1981年4月9日に93歳で死去」。

徹三氏の「スモーガスボード」に関するウィキペディアによる記述は、一郎氏によれば多少補足が必要のようです。実際は一郎氏が留学時代に、米国で流行ったレストランを見つけ、そこで供されていたのが北欧伝統のスタイルの、定額料金で食べ放題だったこの「スモーガスボード」であり、帝国ホテルに導入を検討したのは一郎氏たったようです。

「スモーガスボードとは、デンマーク語で『パンとバターのテーブル』という意味を表す。もともとは友達同士がありあわせの食べ物を持ち寄り、バターと塗ったパンと一緒に食べられる家庭料理だった。料理はニシンやサケなどの魚介類を中心に酢漬けや燻製など四十種類くらいが定番だった」。

「帰国後、私は常原久弥料理長にそのスモーガスボードについて話した。『ぼっちゃん、そりゃ今は無理だよ』。確かに材料は足りないし、ノウハウもない。しかたがないか・・・と、一時はあきらめていた」と書かれており、その後北欧を旅してた徹三氏が気に入って上記のようになったようです。

また、犬丸さんが国内に先駆けて手がけたものとして、セントラルキッチンがありました。それは1970年、大阪万博の三日前に完成した新本館に導入されました。

「地下に大きな料理場を設け、肉や鳥の処理、野菜の下ごしらえなどをすべてまかなうことにした。この方法をとれば、各レストランは料理と味付けに専念できる。しかも食材の無駄は最小限に抑えられる。セントラルキッチンの導入で、帝国ホテルの料理場は、より機能的になった」。

ここに設置されたのは、シカゴの「ホテル・ショー」という見本市で見つけたロータリーオーブンでした。

「幅約4メートル、奥行き約3メートル、そして高さが5メートルほどもある。内部では何枚もの鉄板が回転し、一度に大量の料理が作れるように設計されていた。一台でローストビーフなら500人分を一気に焼ける。私たちは即決で二台買うことに決めた。このロータリーオーブンは購入から30年以上が過ぎた今も、ホテルの料理場で稼動している」。

さらに、犬丸さんが国内で最初に手がけたのが、「シアターレストラン・インペリアル」。今で言うところの「ディナーショー」でした。

「帝国ホテルは長い間、外国客を主なターゲットとしてきた。私が帰国した1950年代前半はまだ旅客機の数が少なく、外国人客の多くは、船で来日した。世界一周の豪華客船が神戸につくと、彼らは京都。奈良を周って、東京にやってくる。都内を見物した後は、日光や箱根に足をのばし、横浜で待つ船に再び乗り込むという旅行プランが主流だった」。

「団体向けのバスツアーはあっても、食事とショーを同時に楽しめる場所はなかった。盛り場にはキャバレーがあったが、夫婦連れ立って旅する外国人にとっては、なかなか足を踏み込めるような所ではなかった。私は、米国を旅行した際、ラスベガスに行ったことがあった。ジュディ・ガーランドの舞台などは素晴しく、食事付のナイトショーを帝国ホテルに導入できないものかと思案していた」。

「そこで始めたのが、『シアターレストラン・インペリアル』というサービスである。1966年3月1日、第一回のディナーショーは『チェリーブロッサムショー』の名で幕を開け、雪村いづみさんを中心に華やかな舞台が繰り広げられた」。


帝国ホテルを語る上で、忘れてならないのは、1923年に竣工し、1968年新本館建設のため解体されたライト館の設計者、フランク・ロイド・ライトです。

「1923年、設計から11年の歳月を経てライトの本館は完成、9月1日に落成記念披露宴が開かれることになった。関東大震災が東京を襲ったのは、まさに宴の準備に大忙しの時だった。周辺の多くの建物が倒壊したり火災に見舞われる中で、小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変わらぬ勇姿を見せていたライトの帝国ホテルはひときわ人々の目を引いた」。(ウィキペディア)

~彼らにとってライト館は文化財だった。ライトがその生涯で設計した唯一のホテルが帝国ホテルである点も、保存運動の中で強調された。(中略) 最後の夜、ライト館は満室になった。レストラン「プルニエ」では、オペラ歌手の藤原義江さんと女優の田中絹代さんが食事をしながら、思い出話にふけっていた。お二人とも長い間、ライト館に住んでいた方である」。(本文「ライト館解体」より)~

フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright、1867年6月8日 - 1959年4月9日)は、「アメリカの建築家。アメリカ大陸と日本に多くの作品を残している。ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の三大巨匠と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とすることもある。)。ウィスコンシン州生まれ」。

「ウィスコンシン大学マディソン校土木科を中途退学し、シカゴへ向かった。叔父ジェンキンの紹介により、建築家のライマン・シルスビーの事務所で働き始めたが、1年ほどでシルスビーの事務所を辞し、ダンクマール・アドラーとルイス・サリヴァンが共同して設立したアドラー=サリヴァン事務所へと移った。アドラー=サリヴァン事務所ではその才能を見込まれ、事務所における1888年以降のほとんどの住宅の設計を任せられた。ライト自身もサリヴァンをLieber Meister (愛する師匠)と呼んで尊敬し、生涯にわたりその影響を肯定し続けた)。

「1911年に帰国したライトを待っていたのは、不倫事件によって地に落ちた名声とほとんど来ない設計依頼という危機的状況であった。依然妻は離婚には応じていなかったが、ライトはチェニー夫人との新居を構えるべく、母アンナに与えられたウィスコンシン州スプリング・グリーンの土地にタリアセンの設計を始めた」。

「その後、少しずつではあるが設計の依頼が増えてきたライトを更なる事件が襲った。タリアセンの使用人が突如発狂し建物に放火した上、チェニー夫人と2人の子供、及び弟子達を惨殺したのである。現場に出ていたライトは難を逃れたが大きな痛手を受け、さらには再びスキャンダルの渦中の人となった。そのような中で依頼が来たのが日本の帝国ホテルの仕事であった」。

「そのスタイルには変遷もあり、一時はマヤの装飾を取り入れたことがあるが、基本的にはモダニズムの流れをくみ、幾何学的な装飾と流れるような空間構成が特徴である。浮世絵の収集でも知られ、日本文化から少なからぬ影響を受けていることが指摘されている。孫娘に、アカデミー賞女優のアン・バクスターがいる」。(ウィキペディア)


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