読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

映画史上最も美しい反戦映画、「ひまわり」(伊、仏、ソ/1970年)

2007-12-19 05:19:13 | 映画;洋画
原題:I Girasoli (Sunflower)
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
脚本:チェーザレ・ザヴァッティーニ、アントニオ・グエラ、ゲオルギ・ムディバニ
音楽:ヘンリー・マンシーニ
撮影:ジュゼッペ・ロトウンノ
出演:マルチェロ・マストロヤンニ、ソフィア・ローレン、リュドミラ・サベーリエワ、アンナ・カレーナ

「貧しいジョバンナとアントニオは海岸で出会い、すぐに恋に落ち、挙式をあげる。しかし、そこへ第二次世界大戦が始まってしまう。アントニオは狂人を装い、徴兵から免れようとするも失敗。戦争へと駆り出されてしまう。終戦後、ジョバンナはアントニオを待ち続け、同じ部隊にいたという男を見つける。男の話によると、アントニオはソ連の極寒の雪原で倒れたが、そこを誰かに助けられたという。ジョバンナは、愛するアントニオの生存を確認するため、ソ連へと足を運ぶ」。

「ジョバンナはソ連に着き、アントニオの写真を見せて回っていると、一軒の家を紹介される。その家を訪れると、幸せそうな妻子の姿があった。真実を知り傷心したジョバンナは、そのままイタリアへの帰国を決める。駅で汽車を待っていると、アントニオが現れる。ジョバンナは何も言わずに汽車に飛び乗り、涙を流し去って行く。後日、アントニオは考えた末、もう一度ジョバンナに会うためイタリアへと向かう」。(ウィキペディア)

ウィキペディアに記載されているデータで見る限り、監督として「靴みがき」(1946)から「旅路」(1974)まで15作、俳優として「寝台の秘密」(1954)から(1974)まで13作の作品があります。監督としても俳優としても亡くなるその年まで現役として映画に関わっていたということになりますが、デ。シーカ氏にとっては映画人冥利に尽きるのではないでしょうか。

ヴィットリオ・デ・シーカ(Vittorio De Sica,1901年7月7日-1974年11月13日)は、「イタリア出身の映画監督・俳優。イタリアのフロジノーネで生まれ、最初は舞台俳優であった。いくつかの劇団を渡り歩いた後、1933年に自分の劇団を設立、映画にも出演するようになり、イタリア演劇界でスターとなっていった」。
「1940年に映画監督としてデビュー。脚本家のチェーザレ・ザヴァッティーニとコンビを組んだ『靴みがき』や『自転車泥棒』などでイタリアのネオ・リアリスモの巨匠とみなされるようになる。1951年の『ミラノの奇蹟』でカンヌ国際映画祭グランプリを、1971年の『悲しみの青春』でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した」。

ウクライナの地に咲き乱れるひまわりタイトルバックの音楽と一面のひまわりが、早くも美しくも哀しい物語を予感させます。咲き誇るひまわりに私たち日本人は英霊たちの魂を見るのかもしれません。全編に繰り返し流れるヘンリー・マンシーニのテーマ音楽「ひまわり/愛のテーマ」は、心に染み込んでくるような美しさを奏でます。(http://jp.youtube.com/watch?v=wbU-a99giUg)

ヘンリー・マンシーニ(Henry Mancini、1924年4月26日-1994年6月14日)は、「アメリカ合衆国の作曲家及び編曲家。特に数々のグラミー賞、アカデミー作曲賞に輝いた映画音楽家として有名。マンシーニは1924年にオハイオ州クリーブランド市にイタリア系アメリカ人として生まれ、ペンシルヴェニアで育った。出生時の名前はエンリコ・ニコラ・マンチーニ(Enrico Nicola Mancini)。父はフルート奏者。幼い頃より英才教育を受け、名門ジュリアード音楽院に進学した。第二次世界大戦では軍楽隊で活躍」。

「1952年にユニバーサル映画音楽部に勤務し、『グレン・ミラー物語』などのアレンジを担当した。1960年代からは主に、ブレイク・エドワーズ監督の元で『ティファニーで朝食を』『シャレード』などオードリー・ヘップバーン作品で注目を集めた。特に『ティファニーで朝食を』でヘップバーンが歌った「ムーン・リバー」は名曲とされている。他に『刑事コロンボ』のテーマ(もとはNBCのウィール、NBC Sunday Mystery Movie のテーマ)や、『ピーター・ガン』のテーマ、『ピンク・パンサー』のテーマ、『ひまわり』のテーマなどがよく知られている。1994年、ビバリーヒルズにて、ヘップバーンの後を追うように癌で病死した」。(以上、ウィキペディア)

主演のマルチェロ・マストロヤンニについては、昨年12/19日付の記事「イタリアの名優『マルチェロ・マストロヤンニ』」、同じく昨年9/20付け記事「イタリアのセックス・シンボル『ソフィア・ローレン』」を参照ください。

ネオレアリズモとは、「イタリアにおいて、1940年代から1950年代にかけて特に映画と文学の分野で盛んになった潮流。イタリア・ネオリアリズムとも言われる。リアリズムの方法で現実を描写する傾向は、当時のイタリアで支配的だったファシズム文化への抵抗として、また頽廃主義の克服として、1930年代ごろすでにあらわれ始めた新たな社会参加から生まれた。知識人は歴史的責任を自ら引き受けなければならず、人々の要求を代弁しなければならないという考え方が、この時期広まっていた。このため、ネオレアリズモの作家・映画人たちは、日常語を模範とした平易で直接的な言語を採用した」。

「ネオレアリズモが確固たる地位を得たのは1943年から1950年にかけてである。この時期はファシズムとナチズムに対する抵抗の時期であり、また戦後の混乱期であった。この間多くの作家が、初めはパルチザン闘争に、次いで政治的議論に関わりあった。パルチザン闘争、労働者の要求、市民の暴動といった主題が、この時期のネオレアリズモ映画やネオレアリズモ文学によく現れる」。

「この時期の映画は、内戦による恐怖と破壊を経験したあとで未来を築こうとあえいでいたイタリア社会に現れた問題や現実に題材をとっていた。ネオレアリズモふうの映画を製作した主な映画人としては、ロベルト・ロッセリーニ、ヴィットリオ・デ・シーカ、ルキノ・ヴィスコンティ、また脚本家のチェーザレ・ザヴァッティーニらが有名である。主な作品は、ロベルト・ロッセリーニ『無防備都市』(1945年)、ヴィットリオ・デ・シーカ『自転車泥棒』(1948年)、ルキノ・ヴィスコンティ『揺れる大地』(1948年)」(同上)


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