読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

真の音楽とは何かを問う小説、「音楽の海岸」(村上龍著/角川書店)

2007-12-08 04:21:39 | 本;小説一般
(1993年7月4日初版)
第一章 音楽の起源
第二章 旋律
第三章 調和音
第四章 律動
第五章 シンコペーション
第六章 即興演奏
第七章 楽譜
第八章 楽器と歌
終章 音楽の海岸

小説のタイトルと各章の見出しだけを見ると、まるで音楽理論書の体を成しています。が、もちろんこれは小説であり、各章のタイトルはストーリーのメタファーになっているんですね。「音楽の海岸」、それは冒頭の次ぎのエピソードで語られます。

「マルセイユからモナコまでを、コート・ダ・ジュールっていうらしんだが、そこの、ニースとモナコの間に、たくさんの入り江があって、その中の一つに、ある場所に立つと音楽が聞こえてくるっていう、岬があるらしいんだ、その岬を最初に発見したのは、昔のロシアの皇帝で、風のせいなのか、波とかまたは霊魂とかそういう超自然の力かわからないけど、音階とか音楽がはっきりと聞こえるらしくて、その後、いろんな人がその岬の所有権を巡って、争ったらしんだよ、オレは、いつかそこへ行ってみたいと思っているんだ・・・」

登場人物は、ヤマガミケンジ(29)と不治の病を持つその妹、彼が「飼って」いる女性、ミワコ、アミ、アヤコ、ナツミ、ヨリコ。そして帰国子女の高校生・ユリ。弁護士・シブカワ、映像作家・石岡、その秘書ソフィア、医師・サイトウ。

私にとっては、「半島を出よ」(10/29、11/4付け記事)に続く、2作目の村上龍作品です。読んでいて、先行して読んだ村上春樹さんの世界との類似点を感じました。村上春樹さんは、この時期に「ねじまき鳥クロニクル」(3/4、3/26、7/3)付け記事)を書いています。音楽を題材に採りながら、「みんなが、仲良くしなきゃいけないというプレッシャー」という「個人」の鬱積する世界感・・・、こんなところが私の感じた共通点。

また、ケンジとユリの次ぎの会話が印象的です。
「ケンジは、聞いてもいい?っていう言い方はよくない、と言った。誰がそういう言い回しを始めるのか、わからないが、聞いてもいい?なんていう言い方にはもう聞いているんだからな、あなた何とかだって言われません?っていうのも同じだ」。

「そういう言い方だったら、どんな残酷なことでも言える。あなたよく死んだほうがいいような顔してるって、言われません?あなたまわりのからのメカケの子とか、豚とかマヌケとか臭いとか、よく言われません?」

「何とでも言えるんだ。実はそいつが言いたいことなのに、まわりが言っていることのようにして、エクスキューズしようとするわけだ。オレは残酷なことを他人のせいにして逃げながら言うのは卑怯だと思うんだ」

私も同感です。マスコミが取材で「・・・・という声がありますが、この点については?」という質問をよくしていますが、「これは私が思っていることではないのですが」という予防線を張った、大変卑怯なやり方だと思いますね。

ケンジは「音楽」を嫌っています。しかし食わず嫌いではありませんでした。「バッハは大体全曲、ヘンデルは、主に古い木管の曲。ハイドン、モーツァルト、ロマン派はあまり聞かなくて、ピアノのものは、シューマンとショパンを中心に聞きました。シューマンは伝記も読んで、クララ・シューマンみたいな女性に、憧れたこともあります」

「ドビュッシーもよく聞きましたが、実を言うと、音楽が嫌いになった直接な原因が、ドビュッシーなんで、ちょっとね。オペラはイタリアものだけですけど、ヴェルディ、それとスカルラッティを少しだけ。ロシアの人はほとんど知らなくて、変わったところだと、ワグナーやベルリオーズ、マーラーなんかも、それにメシアンは数曲、バルトークは二曲、シェーンベルクも一曲だけ、聞いたことがあります」となかなかなリスナーです。そして、ケンジは最後にこう語ります。

「音楽が、嫌いになった、という言い回しは、本当は正確ではない。必要としない、と言うべきだった」

巻頭に「中上健次に捧ぐ」とあります。調べてみると、1977年に対談の共著で「中上健次vs村上龍 俺たちの船は、動かぬ霧の中を、纜(ともづな)を解いて」がありました。主人公の「ケンジ」は中上健二さんから採られてものでしょう。

中上健次(1946年8月2日-1992年8月12日)は、「和歌山県新宮市生まれの作家・批評家・詩人。和歌山県立新宮高等学校卒業。本名は、表記は同じだが読みは『なかうえ』。妻は作家の紀和鏡、長女は作家の中上紀、次女は陶芸家で作家の中山菜穂」。
「被差別の出身であり、のことを『路地』と表現する。羽田空港などで肉体労働をしながら執筆活動を行う。初期は、大江健三郎から文体の影響を受けた。デビュー作は『灰色のコカ・コーラ』。柄谷行人から薦められたウィリアム・フォークナーに学んだ先鋭的かつ土俗的な方法で、紀州熊野を舞台にした数々の小説を描き、ある血族を中心にした『紀州サーガ』とよばれる独特の土着的な作品世界を作り上げた。1975年(昭和50年)、『岬』で、第74回芥川賞を受賞。戦後生まれで初めての芥川賞作家として、話題を呼んだ。和歌山県那智郡勝浦町内の日比病院で腎臓癌のため死去。享年46歳」。(ウィキペディア)


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