ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




フェリス女学院大学6号館別館。神奈川県横浜市中区山手町68
左:2013(平成25)年4月18日、右:2016(平成28)年12月23日

山手本通りのべーリック・ホールの向かい側にある洋館。横浜市の認定歴史的建造物で、2012年の認定。そのサイトでは「構造・規模=木造2階、建築年代=昭和初期、設計・施工=不詳」。
神奈川の近代建築探訪>フェリス女学院大学6号館別館』によれば、昭和初期に住宅として建てられたのだろう、という。目立った装飾的なものがないので、二階の六角窓と白い壁に赤い窓枠が目立つ。
最近、右写真のようにグレーに塗りなおされてかなり地味になってしまった。



山手237-1号館。山手町237。2013(平成25)年4月18日

山手聖公会の裏手にある洋館。牧師の私邸かと思ったが『近代建築写真室@東京>横浜山手のフェリス女学院短大6号館別館、山手237番館・山手72番館』によると一般の住宅らしい。同サイトによると「設計・施工=不詳、竣工=昭和初期、構造=木造2階建て」。フェリス6号館別館になんとなく似ている。あっさりした外観で、庇を突き出した玄関ポーチのアーチが目立つ程度だ。

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セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ新校舎。神奈川県横浜市中区山手町85。1993(平成5)年5月5日

写真左の坂道は山手本通りの元町公園前交差点から東へ、北方小学校の方へ下る道。現在は「コルテーレ山手町」(2004年3月築、224戸)という5階建て4棟のマンションに替わっている。
セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジはウィキペディアによると、外国人子弟の教育施設としてカトリック教会のマリア会によって1901(明治34)年に開校した。幼稚園から高校までのインターナショナルスクールだった。1956(昭和31)年からはベーリックホールを寄宿舎として使用している。1982年には生徒数の減少で男子校だったのを男女共学に変えた。一時500人だったのが270人になっていたという。そしてバブル期の投資と事業に失敗し、廃校にして土地を売って清算した。2000(平成12)年6月に廃校、2001年には校舎は解体された。
「新校舎」としたのは『神奈川の近代建築探訪>セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ旧校舎』に対応して勝手につけた名称。写真では全体の形が分からないが、『…旧校舎』に掲載された絵葉書を見ると4階建て地下1階、コの字形平面の建物だ。



セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ旧校舎。1993(平成5)年5月5日

1枚目写真の煙突の後ろに新校舎と並んで建っていたが、道がくの字に曲がっていて、2つの校舎もくの字に配置されているので、その写真では新校舎の陰に入ってしまい写っていない。
『…旧校舎』によれば、「構造:RC造3階 地下1階、設計・施工:宮内建築事務所?、建築年代:大正12年」で、建ってすぐ関東大震災に見舞われたが修復されて使われてきたという。『…旧校舎』には校庭側から写された写真が載っている。



セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ。1993(平成5)年5月5日

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山手76番館。神奈川県横浜市中区山手町76。2016(平成28)年12月23日

ベーリック・ホールの裏手、元町公園の西に沿った道に面している洋館。『日本近代建築総覧』には「76長谷川邸、横浜市中区山手町76、建築年=昭和4年頃、構造=木造2階建、備考=もと稲垣邸」。個人の名前を出してしまったが、すでに住んではおられないということなので、かまわないだろう。引用した資料には姓だけでなく、姓名が載っている。2001年に横浜市認定歴史的建造物に認定されて、門の横にその銘板が置かれている。そちらのサイトでは「建築年代:昭和初期、設計・施工:不詳」。
急勾配の大きな切妻屋根が特徴で、その正面に切り込みを入れたというか、二段重ねにしたようなデザインがしゃれている。玄関ポーチは柱と腰壁にスクラッチタイルを貼り、丸窓を配してライト風の雰囲気も感じる。

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田村ビル。中央区銀座5-9。2010(平成22)年12月24日

晴海通りのすぐ裏で銀座四丁目交差点からも間近いところに、戦後まもなく建てられたと思われる木造2階建てモルタル壁の長屋式建物が残っている。『東京Deep案内>…三原小路(2014.11.12)』には「老巧化激しいこの田村ビルも、戦後間近に大地主の名前を冠して建てられたもののようで」とあり、建物の名称が判った。
2010年の時点では路地の手前から奥へ「焼肉 東京園」、その二階に「酒寮 よしの」、「中華 三原」、その二階に「大京会(関西調理師紹介所)」、2008年11月に閉店した「時計台(ラーメン)」、二階の「麻雀 みはら」の入り口、「BARビルゴ」と並んでいる。
現在は、東京園は閉店、ビルゴがあなご料理の「ひらい」に、時計台が「グラマシーテーブル」というフランス料理の店に替わっている。まだ建て替える予定はないようだ。


BARビルゴ。2006(平成18)年9月30日


中華三原、麻雀みはら。2013(平成25)年5月19日

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左:銀座中央ビル(中央信託銀行銀座支店)。中央区銀座7-9。1989(平成1)年頃
右:津山ビル。銀座7-10。2002(平成14)年10月5日

そう古いビルではないが、今は建て替わってしまったものを3点取り上げてみた。
左写真は中央通りの銀座七丁目交差点角にあった「銀座中央ビル」。現在は万年筆の「モンブランギンザビル」(10階建、2004年12月築)に替わっている。写真右に端だけ写っているビルは三菱銀行の割と低層のビルで、今も三菱東京UFJ銀行で変わっていない。
右写真の津山ビルは中央通り七丁目交差点を東へ、花椿通りを行って、三原通りとの角。現在は11階建てのビルに建て替わった。写真右の駐車場は1986年の地図では「国際興業銀座ビル」。現在は「ホテルユニゾン銀座七丁目」(13階建て、224室)が2016年6月にオープンした。



ニューギンザ第一ビル。銀座7-11。2002(平成14)年10月5日

花椿通りの、三原通りの1本東の通りとの角にあった4階建てのビル。戦後まもなく戦災の瓦礫を放り込んで埋め立てた三十間堀跡に建つ。昭和30年頃の火保図にすでに載っている。『都市徘徊blog>ニューギンザ第一ビル』によれば、2007年には解体されたという。
現在は「相鉄フレッサイン銀座七丁目」(13階建て、286室)が2016年10月1日にオープンした。

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銀緑館。中央区銀座6-11。左:1988(昭和63)年2月21日、右:2002(平成14)年10月5日

銀緑館のある銀座6-11は中央通りにあった松坂屋デパートと一体で再開発され、まもなく「GINZA SIX」が開業する。高級ブランドショップが中心のようで、僕などは行きそうもないし、なにやら中国人の爆買いを狙ったような感じもあり、それが一服したらしいので、前途多難なようにも思えるのだが……。
銀緑館は『日本近代建築総覧』では「銀緑館、銀座6-11、建築年=大正13年、構造=RC、設計=松岡(自家設計)、施工=浜田組、現在も竣工時の国産エレベーター使用、同社長松岡は蔵前工業出身と云う」となっている。銀緑館の名称は「銀座六丁目のビル」の意味ではないかと思う。
看板の「TARU(樽)」は地下にあるバー。「Since 1953」とある。1階の「思文閣銀座店」は昭和12年京都で創業した古文書、古書画の店で、銀座の店は昭和45年の開店らしい。今は5丁目の外堀通りにあるビルに移った。



銀緑館。左:2007(平成19)年3月9日、右:2008(平成20)年11月5日

左写真左の全面ガラス張りのビルは「栄ビル」。右写真、銀緑館の右は「銀座松坂屋パーキングビル」と「オリコミビル」。ちなみに、銀座6-11の東側の家並みは1986年では、南から「栄ビル(同栄信金銀座支店)、銀緑館、銀座松坂屋パーキングビル、オリコミビル(折込広告社)、松坂屋事務館、銀座鴻池ビル、ステーキスエヒロ」。


1956年1月に公開された大映の映画『宇宙人東京に現わる』に写った銀緑館の映像。岡本太郎がデザインしたヒトデ型の宇宙人が出てくるSF特撮映画だ。「新天体R」が地球に接近して天変地異が起こり、避難する人々を東京のいくつかの場所で撮影した中のワンカット。昭和30年頃の火保図に対応するわけで、左に「同栄信用金庫」、銀緑館の右は「折込広告社」、日本建築が料理屋の「湖月」6階建てのビルが「折込広告社」となるかと思う。

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ボルドー、スエヒロ。中央区銀座8-10。1988(昭和63)年2月21日

銀座三原通りのほぼ南端にあった老舗のバー。いわゆる「銀座のバー」ではなく、正当な、酒を楽しむ店ということだ。いつものようにネット検索してみると、まず、各新聞の閉店の記事が目に付いた。「1927(昭和2)年に開業した銀座で現存する最古のバー「Bordeaux」が、建物が老朽化し、オーナーの新沼良一氏(83歳)は高齢になり健康も害して、2016年12月22日で89年の歴史に幕を下ろす」という内容だ。建物はまだ取り壊されていないようだ。創業者は新沼氏の、新橋の芸者だった伯母で、氏も20代半ばから店に入った。
近代建築レストラン散歩>ボルドー』によると、奥田謙次という建築家の設計で、内装もすべて彼が手掛けたという。
隣の銀座スエヒロも昭和初期に料理屋として建った建物らしい。建物の左に「ランチタイム」のメニューを出している。「牛すき焼き定食―700円、牛しゃぶ定食―700円、幕の内弁当―500円」などと読める。



ボルドー、スエヒロ。左:2008(平成20)年11月5日、右:1992(平成4)年2月16日

スエヒロは昭和30年頃の火保図に、すでに「スエヒロすき焼き」で載っている。上の写真では「銀座スエヒロ/ちゃんこ柏戸」の看板に替わっている。建て替わった「銀座MEビル」は1994年の竣工なので、撮影後じきに取り壊されたらしい。

『銀座わが街―400年の歩み―』(銀芽会編、白馬出版、昭和50年、980円)という本に、終戦直後の状況を述べた中に以下のような記述がある。写真のボルドーとの関連は不明だが、気になるので紹介する。
 この〈占領軍による〉接収の中で、銀座人にとって嫌であり困ったことは、駐留軍慰安施設の提供であった。こともあろうに、日本政府がやってのけたのである。“特殊慰安施設協会”の名のもとに8月28日開店、終戦後二週間とたたない開店である。日本政府のもっとも早い仕事はなんと慰安婦を提供することだったとは――。米軍はこの施設をR.A.A.(リクリューション・アミューズメント・アソシエーション)といった。場所は二丁目の伊東屋、いまはないが三丁目の録々館、八丁目の千疋屋、耕路、ボルドー、日勝亭、七丁目の東宝ビヤホールなど、七カ所が接収され使用されたのであった。
これらの施設が娼館だったわけではなく、女性が接待する飲食店だったようにも思える。設立の半年後、昭和21年3月にGHQの命令で解体する。そのため、銀座一円に街娼がうろつきだしたという。ぼくは子供の時から、意味はよく分からなかったが「パンパン」という言葉は覚えた。


『懐かしの銀座・浅草』(画・小松崎茂、文・平野威馬雄、毎日新聞社、昭和52年、2000円)から、昭和初年に描かれたボルドー。「銀座最古のバー・ボルドー 昭和二年の営業でスコッチ一杯一円八十銭 今の金で五千円位か」のキャプションが付く。

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ソニービル。中央区銀座5-3。2016(平成28)年1月1日

今年3月いっぱいで取り壊しになるソニービル。まもなく見納めである。1966年4月15日竣工、設計は芦原義信、施工は大成建設。
『銀座建築探訪』(藤森照信・増田彰久著、白揚社、2012年、2800円)にソニービルが計画段階の時のエピソードが述べられているので、それを紹介する。当時、ビル建設に関わった黒木靖男氏に取材したものだ。
現在のソニービルの建っている場所には20坪ほどの小さなビルがあって、そこにソニーのショールームがあった。周りを買収して214坪にして、ショールーム専用のビルを建てることにしたが、どのような建物にするか、なかなか決まらない。社長の盛田昭夫(1921-1999)は設計者の芦原義信(1918-2003)と黒木氏ら3人を集めてホテルオークラの一室で徹夜のブレーン・ストーミングをおこなう。盛田がF.L.ライトのグッゲンハイム美術館の名を口にしたのがきっかで具体的に話が進みだす。エレベータで上に上がってから自然に降りていくという平面のコンセプトだ。当初のビルのあった三角地は空き地としてさまざまなイベントに提供することは、芦原の発議ですぐ盛田が賛同した。
テナントの招致には盛田自身が率先して動いた。その結果が、トヨタ、専売公社、フジフイルム、東レ、大成建設。地下は制限がなかったので5階分も掘ってしまった。マキシムも盛田が口説いた。また、ソニー直営のソニープラザを入れた。1966年4月29日にオープンした。当時ぼくはまだ学生だった。ビートルズが来日した年である。

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サッポロ銀座ビル。中央区銀座5-8
1982(昭和57)年6月20日

サッポロ銀座ビルの写真というより80年代の銀座の歩行者天国の写真だろう。中央通りの歩行者天国は1970(昭和45)年8月2日に始まったという。撮影当時ならほかに撮るべき対象はいろいろあったと思うが、まだ建物に対する興味も知識もなかったのだろう。
サッポロ銀座ビルは「地上10階・地下4階建ての、サッポロビールグループのサッポロ不動産開発が所有する複合商業ビルである。日産銀座ギャラリーやビアホール「銀座ライオン」などが入居していた」(ウィキペディア)。竣工は1970年6月。「日産ギャラリー」の名称の方が一般的だったかもしれない。
2014年4月で営業をいったん終了、解体されて建て直され、2016年9月24日に「GINZA PLACE」が再オープンした。
このビルにあったレストランに一度入ったのを思い出した。『銀座の絵本』(河原淳編、新評社、昭和52年、650円)というガイドブックで店名を確認すると3階の「モンセニュール」という店で「日本人向きにアレンジしたフランス料理……」とあった。
それにしてもここ数年の銀座の建物の新陳代謝はすごいもので、三愛ドリームセンター(1963年1月竣工)も建て替えて不思議ではない時期にあるが、どうするのだろう?

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銀座松坂屋~銀座ヤマトビル。中央区銀座7-9。左:1985(昭和60)年6月2日、右:1986(昭和61)年8月31日

ライオン銀座7丁目店を取り上げるわけだが、まずそのビルを含む中央通りの昭和末の街並みをご覧いただく。銀座松坂屋(1階南の角は協和銀行銀座支店)、パレギンザ、銀座共同ビル(太陽神戸銀行銀座支店)、交詢社通り、銀座ライオン七丁目店、東芝銀座セブンビル、パールビル、銀座ヤマトビル……と並んでいる。
現在は6丁目は再開発で「GINZA SIX」のビルが完成まぢかで、今年(2017年)4月の開業予定である。銀座ライオン七丁目ビルは勿論健在。東芝銀座セブンビルは「Zara」の看板のある新しそうなビルになっているのだが、高さは東芝銀座セブンビルと同じようなので、そのビルを改装したのかもしれない。パールビルはGoogle地図では「ニコラス・G・ハイエックスセンター」となっていて、そのビルに建て替わっている。銀座ヤマトビルはGoogle地図では依然とし銀座ヤマトビルでラオックスになっている。建て替わったのだか改装しただけなのかどうも分からない。




ライオン銀座7丁目店。銀座6-7。
左:2002(平成14)年5月4日、右:1988(昭和63)年2月21日、左下:1986(昭和61)年8月31日

1934(昭和9)年4月8日に大日本麦酒㈱本社ビルとして竣工した。大日本麦酒㈱は現在のサッポロビール㈱。1階の「銀座ビヤホール」は4月26日に開店している。設計は菅原栄蔵、施工は竹中工務店、SRC造6階地下1階である。
現在の外観は1978年(昭和53年)に全面改装されたもので、建築当時の面影は搭屋部分や内装に残る。建築時の外観は『サッポロライオン>歴史・沿革』にも写真があるが、『建築士から見た…>銀座ライオン』というサイトに正面からのカラー写真が載っている。その記事には、「ル・コルビジェにより提唱された「ドミノ理論」の採用と「近代建築の五原則」、その中の一つである。「水平連続窓」を、日本で初めて採用した建物ではないかと思う」とある。菅原栄蔵とF.L.ライトの影響についてはどの参考資料でも言われているが、ル・コルビュジエとの関連は他では言及されていないように思う。アール・デコ風の、あるいはライト風の塔は、現在は下部を残して撤去されてしまった。
ビルの後ろ、あずま通りとの角から撮った写真には中央通りの向かいにあった「東海銀行銀座支店」が写っている。

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