ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




タンジ理容店、ブックス2106。神奈川県横須賀市上町(うわまち)1-1。2014(平成26)年2月28日

平坂の中ほど、東側に並ぶ古そうな店舗。今、ストリートビュー(2017年1月撮影)を見ると、看板建築にしているタンジ理容店はアーケードに吊るされた看板がなくなっていて、廃業した様子だ。



宮城整骨院、トコロ薬局。横須賀市上町1-12。2014(平成26)年2月28日

1枚目写真の並びで数軒南(坂の上)のところ。宮城整骨院の看板の文字が家の大きさと釣り合わないし、子供の習字のような書体も気になる。ドアの貼紙は「休憩中」。
トコロ薬局は切妻屋根の家を看板建築風にしてもので、そう古い家ではないかもしれない。

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居酒屋香まる。神奈川県横須賀市深田台(ふかだだい)34。2014(平成26)年2月28日

釜屋金物店から平坂を上っていくと、3軒先から木造2階建ての古そうな家が3軒並んで建っている。坂道にあるため、屋根が3段に高くなっていく。
「香まる」は普通の居酒屋らしい。「Bagel café nico.」は2011年10月頃開店したベーグルを売るカフェ。実はベーグルとは初めて聞く言葉だが、ドーナツ状のパンを言うらしい。「ニコ」の隣はしもた屋らしいが以前は居酒屋だったような外観だ。「SAGA設計」の看板を付けた茶色い壁の3階建ての家は、銅板貼り看板建築ではないかと思う。


Bagel café nico.、SAGA設計。横須賀市深田台34。2014(平成26)年2月28日


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釜屋金物店
神奈川県横須賀市深田台(ふかだだい)1
2014(平成26)年2月28日

京急横須賀中央駅のすぐ東を南へ上っていく通りが県道26号線(三崎街道)で、その坂道が「平坂(ひらさか)」。その平坂の中ほどから通りの両側に「上町(うわまち)銀座商店街」のアーケードが始まる。アーケードが架かる始まりに建つのが「釜屋金物店」の3階建てのビルで、隣接して出桁造りの家が建っている。横丁との角にあって、建物の石積みにした壁が目立つ建物だ。釜屋金物店の旧店舗である。
上町銀座>[ 家庭・電器 ] (有)釜屋金物店』に、なんという本か分からないが、釜屋を紹介した本のページの写真が載っていて読むことができる。それには、「釜屋金物店は明治三十年代創業で、現在の建物は大正初期に建てられたもの」「家紋入りの特注瓦は震災のときにも落ちず、建物も瓦も建築当時のまま」「鋸山から切り出した房州石の防火壁」などとある。
Take4's 悠々知的生活>ご近所探索「釜屋金物店」』には、「「釜屋」という屋号は浦賀の「釜屋金物店」から初代の鈴木斎治郎さんが暖簾分けしてもらい、明治33年にこの地に店を出したことに由来する」とあり、「斎治郎さんは横須賀市の第14代市長を務めた人で「市長の店」としても知られていた」そうである。「先代の時、戦時中金属はすべて供出、戦後は商品の仕入れに奔走。夫婦で背中と両手にいっぱいの手荷物を抱え、川口市との間を日に何回も往復したという」から重い鋳物を持って混んだ電車に乗り込んだのだろうか。1回往復したら寝込んでしまいそうである。

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長栄商店。文京区大塚5-18
2006(平成18)年12月6日

不忍通りの富士見坂の坂下通り交差点から坂下通りに入ったところ。左奥のイチョウは不忍通りの並木。写真右の民家は戦前に建てられたものと思われる。写真では二軒長屋にも見えるが、一戸建ての家が接して建てられている。今は右の家が取り壊された。
写真左の家は「長栄商店」というペットショップ。『 Facebook>ご近所 茗荷谷界隈>長栄商店』の投稿記事によると、「創業は110年前、大本は鷹匠。焼夷弾の直撃を受けたが幸にも不発弾だった。その後、一時は野鳥を扱い、さらにインコや文鳥を扱う小鳥屋さんに転身。現在は、都内の小・中学校で飼育する鶏やウサギ、金魚、メダカ、解剖用のカエル、実験用マウス、教材用のイモリなどを扱う」という。ペットショップとは言えないがなんと言えばいいのか分からない。建物は戦後に建て替えたもののようだ。1986年の地図では「松本鳥獣店」で、「長栄」は屋号だろうか。
また『ご近所 茗荷谷界隈』には「会津八一の歌集「山光集」に「大正14年8月23日、友人山口剛を誘って護国寺の前を通り、富士見坂を上って小鳥屋で小鳥を買うところが歌われているとして、「とりかごをてにとりさげてともとわがとりかひにゆくおおほつかなかまち」と「ふみあまたともはよめれどおほつかのとりやにたてばわらはべのごと」が紹介されている。
文京区教育委員会が設置した富士見坂の説明板に「…大正13年(1924)10月に、旧大塚仲町(現・大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備されて坂はゆるやかになり、道幅も広くなった。…」として、「とりかごを」の歌が記されている。
漢字にしてみると「鳥籠を手に取り下げて友と我が鳥買いに行く大塚仲町」「文あまた友は読めれど大塚の鳥屋に立てば童のごと」だろうか。



音羽自動車内装シート製作所、玉木屋食料品店。大塚5-18。2011(平成23)年7月10日

1枚目写真の民家から100m程北へ行ったところ。昔の航空写真を見ると、写っている4軒の家、あるいはそのうちの3軒は、四軒長屋か三軒長屋だったようだ。写真ではそれぞれで改築、改修がなされているが、「音羽自動車内装シート製作所」が元のままで残ったのだろう。今はそれも看板建築風に改修されている。

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理容オハラ。文京区大塚5-16。1987(昭和62)年2月22日

春日通りと不忍通りとの交差点が大塚三丁目交差点。春日通りは尾根道で、東西に通っている不忍通りはどちらも坂道である。西へ降りていくのが富士見坂。護国寺の門前まで続く長い坂道だが、150mも行くと坂下通り入口交差点。大塚三交差点の標高は約29m、坂下通り交差点は標高約17mだ。そこから北へ入る通りが坂下通りで、北西方向にカーブしながら、東池袋の造幣局の横を通る。旧町名が大塚坂下町で、通りの名前はそこからきている。今は商店街とは言いにくいが「大塚坂下町親交会」が組織されている。
写真の理容オハラは坂下通り入口交差点から110mのところにあった看板建築の床屋。近年は二階の窓の上の壁をトタン波板を貼ってしまっていたが、一階は古いままの姿を見せていた。2014年には取り壊されたようで、現在は駐車場。写真左の民家は3階建てのマンション風の住宅に替わった。



坂下工務店、きしのパン店。大塚5-16。2011(平成23)年7月10日

1枚目写真からすぐ左のところにあるトタン葺きの看板建築にした二軒長屋。「きしの」は1974年の地図に「きしのベーカリー」で載っている。「坂下工務店」は1986年の地図では「いろは寿司」。
当ブログ前回で出した「音羽川」はこの辺りで坂下通り横切って、通りの西の裏手へ回っていったようだ。

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二軒長屋。文京区大塚5-7。2006(平成18)年12月6日

春日通りの大塚五丁目交差点から坂下通へ降りる裏通りの坂道を130mほど降りてきたところにある戦前からの二軒長屋。手前の長屋は、現在は左の半分が3階建てのビルに建て替わっている。車の止まっている横の家も、左の長屋と同タイプの二軒長屋だ。
下の写真はその長屋の方から撮っている。長屋の横の階段は春日通りへ出る路地で、『東京の階段』(松本泰生著、日本文芸社、平成19年、1600円)の「大塚5丁目・木の下を上る階段」。



上:二軒長屋、左:民家。大塚5-7
2006(平成18)年12月6日

左写真は階段の右にある民家。
写真の道路は微妙にくねりながら坂下通りへ向かう。つまりは川の跡で、音羽川(おとわがわ)が流れていた。『川の地図事典』(菅原健二著、之潮、2007年、3800円)に「……水久保、水久保新田(現・豊島区東池袋四丁目付近、雑司が谷霊園北側)を水源として東に流れ、雑司ヶ谷台(護国寺台)の東から関口台と小日向台の間(=音羽の谷の東)を南東に流れて江戸川(神田川)に注ぐ。……現在、水路は暗渠化されて下水道になっている。」とあり、写真の辺りは「雑司ヶ谷台の東」になる。
ここから少し北に行くと道が3本に分かれるところがあるが、その真ん中の路地が川跡で、通ったことはないが地図で見るとやはりくねっている。

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吉田金網工業、八百常。文京区大塚5-8。2009(平成21)年9月2日

写真の通りは春日通り。右奥(北の方向)の信号が大塚五丁目交差点で、地下鉄新大塚駅がある。通りの西側に並ぶ家並みは、戦後じきに建てられたと思われる木造店舗だ。吉田金網工業、八百常、ムサシヤ呉服店(茶色の壁、看板がないので廃業?)が1974年の地図に記載がある。

下の写真は上の写真の裏側。大塚五丁目交差点のすぐ裏から坂下通りへ斜めに降りていく道路から見上げた春日通りに表を向けた家々だ。左写真の黄色い日よけがムサシヤ。
吉田金網工業の横から、坂下が階段になっている坂道が下の道路と結んでいる。その坂下が下右の写真。『東京の階段』(松本泰生著、日本文芸社、平成19年、1600円)に「大塚5丁目・末広がりの階段」で載っている。高低差は約4mとあり、坂道部分を入れると春日通りとは約5mの高低差だろうか。その春日通りの標高は27.2mである。


左:ムサシヤ呉服店の裏、右:アパート。大塚5-8。2006(平成18)年12月6日

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スイートコーナーの長屋。文京区大塚3-7。1987(昭和62)年2月22日

春日通りのお茶の水女子大学の向かい側。看板建築にした長屋が4棟並んでいた。銅板張りの四軒長屋が2棟、3階建ての二軒長屋とモルタル塗りの三軒長屋である。1986年の住宅地図を見ると、右の四軒長屋は右から「スイートコーナー、浦田寝具店、キムラ理髪店、田畑印刷」。次の四軒長屋は「エノモト製作所、松竹理髪店、菊地博誠社(鳥獣剥製専門店)、しもた屋」。3階建ての二軒長屋はともにしもた屋だろうか。三軒長屋は「浅井印刷、ZETTON(洋品店?)、桜坂(1974年の地図では「エリヤント洋装」)」。



ZETTONの長屋。大塚3-7。1987(昭和62)年2月22日

現在は、スイートコーナーの長屋は「エタナール文京」(2001年11月築、10階建)というマンションに替わった。もう1棟の四軒長屋が残っていて、エノモト製作所と松竹理髪店が営業を続けていて、あとの2軒はベニヤ板や鉄板で塞がっている。2009年9月撮影の写真では「菊地博誠社」の看板は架かっていた。3階建ての家は「リックスL御茶ノ水女子大前」(1998年8月築、11階建38戸)というマンションに、三軒長屋は「山田ビル」(1990年5月築、6階建)というオフィスビルになっている。

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山手公園管理事務所(旧山手68番館)。神奈川県横浜市中区山手町山手公園。2013(平成25)年4月18日

『近代建築散歩 東京・横浜編』(小学館、2007年、2900円)には、「山手公園管理事務所(旧C.F.フランコ邸)。建築年=1934(昭和9)年、設計・施工=不詳/不詳」「フランコ氏は東洋バブコック社(現・日立バブコック)の社員だった。下見板張りのバンガロースタイルの住宅建築は、東南アジアなどの旧植民地に見られる。周囲に巡らせたベランダに特徴がある」とある。関東大震災後に外国人向け住宅として建てられた洋館だ。東洋バブコック社はボイラー部品製造会社。1986(昭和61)年に横浜市が取得して現在地に移築した。
『日本近代建築総覧』に「小船幸次郎邸、中区山手町68、建築年=昭和7年、構造=木造1階建」というのがある。「小船幸次郎」をネット検索してみたら、「1907~1982。横浜市生まれの作曲家、指揮者」として『ウィキペディア』に項目があった。旧山手68番館との関係の有無は不明だが、一応記しておく。


山手公園管理事務所(旧山手68番館)。2013(平成25)年4月18日

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カトリック横浜司教館別館。神奈川県横浜市中区山手町45。2013(平成25)年4月18日

建物名称は「カトリック横浜司教館別館」というから、カトリック山手教会の敷地に建つ「カトリック横浜司教館」の別館という位置づけらしい。
近代建築写真室@東京>カトリック横浜司教館別館』によると、1927(昭和2)年の建築、設計・施工=糸川工務店で、外国人向けの賃貸として建てられた「山手45番館」だった。大きな切妻屋根と、そこに設けられた割と大きなドーマー窓が目を引く。
上写真の右、アーチの屋根の建物(司祭館・信徒館)のところにあったのが山手イタリア山庭園内に移築された「ブラフ18番館」。この洋館も外国人の住宅だったが、戦後はカトリック山手教会の司祭館として1991年まで実際に使われていた。
下の1993年の写真では角にガレージがあって、山手本通りに向いてはブロック塀だ。ブラフ18番館はすでに解体されている。


カトリック横浜司教館別館。1992(平成5)年5月5日

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