ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




越中屋精肉店。品川区東大井2-5。2013(平成25)年9月22日

旧東海道の日鮮技研の信号のある交差点から南へ50mほどのところ。写真左手前が越中屋精肉店だが看板がなくて廃業したように見える。



松本レジン。東大井2-5。2015(平成27)年5月30日

1枚目写真の中央に写っている出桁造りの家。『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁編集、2009年)では「松本レンジ株式会社、分類=商業、種類=その他(商業)工場兼店舗、構造=木造2階建切妻造瓦葺、建築年=明治末~大正初期」となっている。
「レジンresin」とは樹脂(松やになど)あるいは合成樹脂のこと。『品川区>製造業者DB>松本レジン』によれば、プラスチック製品製造業で、射出成型機で磁気テープの巻取り用リールやその関連の部品などを製造しているらしい。設立は1963年4月。写真の家の裏に工場が別棟であり、向かい側のビルに事務所があるようだ。

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日鮮技研。品川区東大井1-23。2013(平成25)年9月22日

旧東海道と、西へ行くと第一京浜国道の大井消防署前交差点を結ぶ通りとの交差点で、その角に日鮮技研という小籠包を売る店がある。建物は看板建築風だが古いものなのかそうでもないのか分からない。1981年の住宅地図では「キッサプリンス」で、旧東海道側の隣は今は日鮮技研だが、1981年では「中村菓子店」。


三上タバコ店。東大井1-23。2013(平成25)年9月22日

日鮮技研の角を西へ曲がると、隣が出桁造りの家で、前面を料亭の通用口のような外観にしている。その先が冨貴寿司の3階建てビルと3階建ての集合住宅。そして、裏通りとの角にタバコ屋だった出桁造りの長屋風建物と並ぶ。この並びは、古い航空写真を見ると、二軒長屋が3棟くっついて並んでいたようだ。料亭風の家はその1棟で、三上タバコ店だった家は長屋の半分が残っているのだと思う。

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かどやカメラ店。品川区東大井1-2。2013(平成25)年9月22日

京浜急行の鮫洲駅の駅前にある日本家屋。右の通りを奥へ行くと旧東海道に出る。建物の正面右側はかどやカメラ店。中央の玄関の横に「小唄教室」の看板がかかっていて、家自体が検番の建物のような外観だ。



平屋の民家。東大井1-3。2009(平成21)年4月12日

鮫洲駅から旧東海道に出たところにあった平屋の家。元は酒屋だか米屋だか、とにかく商家だったのだろう。現在はファミリーマートに建て替わっている。左の3階建てアパートは「クシダハイツ」で、1階は「串田米店」。こちらも建て替わった。



サメズコインランドリー。品川区東大井1-2。2015(平成27)年5月30日

旧東海道の鮫洲駅への横丁から北へ少し行ったところにある出桁造りの商家。北から旧東海道を来て、東大井入ってから初めて出会った古い日本家屋である。1981年の住宅地図では「肉屋」と「サメズコインランドリー」。

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太安堂。品川区東大井1-20。2013(平成25)年9月22日

京急鮫洲駅から旧東海道へ出る間の横丁。鮫洲運転試験場で試験を受ける人を相手にした代書屋が今でも2・3軒残っている。ぼくが運転免許の試験を受けたのは1967年だったが、やはりこの駅前の代書屋で書類を整え(タイプして作成してもらう)顔写真を撮って試験場に向かった。顔写真は自分で用意しなければならなかったので、主にそれが目的だった。当時は軒並み代書屋が並んでいたのではなかっただろうか。今はいったい誰が利用するのかと、代書屋の存在自体が不思議である。
上の写真は旧東海道から入ってところで、奥が鮫洲駅。写真左に並ぶ商店長屋は昭和20・30年代に建ったもののようだ。ごく最近の写真のつもりでいたが、すでに手前の太安堂と奥の白い長屋(はまやタバコ店、一番堂)が建て替わっている。その間の長屋に入っている「バスケット(喫茶店)」「中田堂瀬能事務所(代書)」はかなり長いこと営業しているようだ。「あんず(飲み屋)」の日よけのテントは「テルヤ(洋服店)」だったときのまま。


中田堂。東大井1-20。2009(平成21)年4月12日

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いちかわ西洋館俱楽部。千葉県市川市新田5-6
左:2006(平成18)年2月11日、右:2007(平成19)年4月8日

京成本線市川真間駅の南、住宅街に残されている洋館で、小さなコンサートホールやギャラリーに貸し出されている。『千葉県>文化財>西洋館倶楽部(渡辺家住宅)』によると、「東京株式取引所の仲買人であった丸水渡辺商会の店主・渡辺善十郎により、日本家屋の母屋に隣接するゲストハウスとして建てられたもの」で、「昭和2年(1927)建築の木造3階建ての洋館」。ベイウインドウ状に張り出した玄関ホール、その上のバルコニー、正面以外の3面は「破風の拝みを押さえた袴腰型切妻破風を中心とする屋根」、側面軒先の千鳥破風、などを外見の特徴としている。内部も建築当時の照明器具などが残されているという。いちかわ西洋館俱楽部の開館は1997(平成9)年で、同年、国の登録有形文化財に登録された。
いちかわ西洋館倶楽部 ホームページ』には、オーナーである渡辺氏がこの館の歴史について寄稿されていて、興味深いエピソードが語られている。関東大震災で深川の邸宅が被災したため、市川に1000坪の敷地を求めて別荘を建てたらしい。当時の総武線は両国までで、都内に通うのは不便だと、じきに深川へ戻ってしまったとか。東久邇宮盛厚王が国府台陸軍野重砲連隊の将校として赴任すると、この西洋館が殿下の宿舎に借り上げられた。戦時中には空き家となっていて、敷地内に焼夷弾が落ちたものの大事には至らなかったという。

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旧京成倶楽部。千葉県市川市真間1-9。2003(平成15)年11月19日

京成本線の市川真間駅の北に、ホームからも見えている建物。『「帝都」の残映>伊藤邸』では、1929(昭和4)年に建てられた木造2階建ての建物。「京成電気軌道社の社員倶楽部として建てられたが、竣工後まもなくから葛飾瓦斯(現京葉ガス)の本社屋として使用され、現在は個人の住宅として使用されているという変遷が激しい建物」。したがって当ブログでは建物名称は「伊藤邸(旧京成電気軌道社員倶楽部・旧葛飾瓦斯本社屋)」で、『日本近代建築総覧』に「伊藤和夫邸、市川市真間1-9-10」とある建物である。ネット上では「旧京成電鉄社員倶楽部」としているのが多い。
東京東郊における都市形成過程~京成電鉄市川真間駅周辺部を対象として~』では、「京成倶楽部(社員の福利厚生施設)」は1929年に竣工してすぐに京葉ガスの本社となり、1945年からは個人住宅になった、としている。
市川真間駅の前にあった京成電鉄診療所(現在は取り壊されて京成不動産が管理する駐車場になっている)の前に「本多貞次郎頌徳碑」がある。本多貞次郎は京成電鉄の創業者で政治家でもあった。京葉ガスの創立にもかかわっている。また、旧京成倶楽部、市川医師会館、京成電鉄診療所、がある真間1-9のほぼ全域が本多貞次郎邸だった。



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モハノンド。千葉県市川市真間2-19。2006(平成18)年2月11日

写真右手の通りは真間川に架かる手児奈橋のすぐ南。角の日本家屋も看板建築風の商店長屋(四軒長屋)も、たぶん昭和30年頃建てたものではないかと思う。通りは南の京成本線の踏切まで「真間本通り商店会」が組織されている。店が立ち並んでいるわけでもなく、通りの幅が広いので商店街とはいいにくい。
写真の通り沿いの家並みの裏側は駐車場だが、昭和22年の航空写真では匚形平面の長屋と思われる家が2棟並んでいる。戦前からある長屋だったらしい。その南の棟は1975年まで、北の棟は1990年まではあったことが『Googleマップを使って過去の地形図や空中写真を見る』から判る。
現在は写真手前の角の家が取り壊されて駐車場になっている。その右の平屋の家は今も「駒子」という居酒屋。四軒長屋は残っているが営業している店があるのかどうか怪しい感じだ。



市川二業組合検番。市川市真間2-11。2006(平成18)年2月11日

「真間本通り」の京成本線の踏切のすぐ北にあった日本家屋。『『ぬけられます』あちこち廓探索日誌>千葉県 市川市 その2(2009.07.12)』に「市川二業組合検番」とあった。市川に花街があるとは意外だが、国府台は幾つかの連隊の駐屯地だったからそれを背景に花街が成立した。今でも料亭が3軒あるという。『雅万歩>浅草橋~市川(2011.01.04)』によれば、2010年に建物は取り壊されたという。今は駐車場になっている。花街はどうなってしまったのだろう?

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朝倉青果店。千葉県市川市真間4-4。2006(平成18)2月11日(他2枚も)

市川真間の手児奈霊神堂の裏手の十字路で、その十字路を中心に商店が20軒くらい集まっていたようだが、写真を撮った頃にはすでに半減していた。今ではさらに数軒になってしまっているようだ。『市川市真間商店小歴』を見ると「手児奈橋通り会」という商店街である。
写真の角の八百屋「朝倉青果店」は健在。隣の魚屋「魚朝」は営業しているのかどうか怪しい感じだ。その建物は今もあるが日よけの看板はなくなっている。その右の2軒は、今は取り壊されて駐車場になっている。その先の下見板の家は残っている。その隣の「昭和クリーニング」は取り壊されて駐車場に。



広瀬パン店。市川市真間4-2

朝倉青果店の十字路の南東の角。自販機だけの店になっているようだ。今は住宅に建て替わっている。右奥の塔屋は市川市立真間小学校。
下の写真の新川屋雑貨店は上の写真の左の枠外にあった。やはり住宅に替わっている。


新川屋雑貨店。市川市真間4-2

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関家、小川屋酒店。中央区佃2-5。1989(平成1)年10月29日

清澄通りの相生橋に近い新佃島交差点を西へ入り、その横丁の突き当りに近い辺り。写真右手が清澄通りの方向。1986年の住宅地図では瓦屋根が関家、看板建築風の家が小川屋酒店、4階建てのビルは当地図ではまだ駐車場だ。後ろのビルの塔屋に「NKK」とあるのは「日本鋼管佃島社宅」。
昭和22年の航空写真を見ると、この周囲は家がないか、建ち始めたばかりのように見える。空襲の被害はなかった地区だから、建物疎開が行われたのかもしれない。ただし、昭和22年の航空写真には写真の日本家屋と思われる家が建っているように見える。取り壊しを免れたのか、戦後いち早く建てたものなのか……。小川屋酒店は戦前からある店。写真ではしもた屋に見える建物の左側は「小川薬局」だった。
現在では写真の家並みは右端のビルを除いて、3棟のマンションが建ち並んでしまった。すなわち、「リバーシア佃」(2004年12月築、7階建12戸)、「ニューシティアパートメンツ月島」(2005年7月築、8階建36戸)、「スカイコートパレス月島」(2015年6月築、8階建24戸)。そして日本鋼管の社宅のある一画は「ザ・クレストタワー(月島)」(2004年9月築、32階地下2階建て387戸」が建つ。

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佃1-9の家並み。中央区佃1-9。1989(平成1)年10月29日

佃堀の東にある100×34mの矩形の町域が佃1丁目9番地。その中心、細い路地の中に佃天台地蔵尊がある。写真は東側に向いた家並みで、西側は佃堀に向いていて、当ブログ前回の2枚目の写真がそれ。長屋やアパート形式の家もあるようだが、ほぼ1戸建て住宅が7・80軒、ぎっしりと立ち並び、7本の路地が東西に通じている。戦前に建てられた家がまだ半分程度残っているようである。
明治中期に埋め立てられて造成された新佃島や月島とは異なり、江戸時代からある土地だ。写真の通りから右側は海だったわけで、かつては漁師町だったのだろう。現在では築地魚市場に勤める人が多いという。商店はほとんど見られない。上の写真では「大吉」という居酒屋らしいのとその何軒か先にミスパーマ松本の緑の日よけが見えるだけだ。写真中央の家の後ろの大木が佃天台地蔵尊の銀杏の木。



大吉。1989(平成1)年10月29日



民家。2005(平成17)年3月25日

ストリートビューを見ると、2枚目写真の「大吉」の看板を出している家は建て替えられている。その右の家が上左写真で、これも建て替えられて「今昔きものわかば」という店になっている。そこから1軒おいて佃天台地蔵尊入口の家で、これは現存している。

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