ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




横浜山手聖公会。神奈川県横浜市中区山手町234。1997(平成9)年6月2日

横浜山手の観光の中心は山手本通りの外国人墓地からベーリック・ホールにかけてで、その中間の三叉路の角にあるのが横浜山手聖公会だ。資料では「クライスト・チャーチ」という名称も多く使われている。通りに向いて三層の西洋の城郭のような塔を向けていて、威厳がありそうな雰囲気だ。
J. H.モーガンの設計で、建築年は昭和9年というのと昭和6年とがある。聖公会のHPでは1931(昭和6)年。RC造で、塔屋の後ろに聖堂(礼拝堂)、聖堂の左右に部屋があるようだ。外観は「大谷石を効果的に使ったノルマン(英ロマネスク建築)風会堂」(『建築探偵術入門』文春文庫、1986年)、「イギリスの田舎風の、オールド・ノルマン建築の雰囲気」(『かながわの近代建築』河合正一著、かもめ文庫、昭和58年)なのだそうだ。


横浜山手聖公会。2013(平成25)年4月18日

建物は1945年5月29日 の横浜大空襲で焼夷弾によりに内部を焼失する。戦後、1947年 に修復された。1993年には外壁などを修復する工事が行われている。2004年1月4日に放火による火災で内部を焼失するという事件が起こるが、11月までに修復された。今、2016年4月撮影のストリートビューを見ると、建物全体に工事用足場が組まれている。外壁の化粧直しだろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





大徳帽子店。中央区銀座8-4。1985(昭和60)年6月2日

中央通りの銀座8丁目の博品館の隣にあった老舗の帽子店。明治14年創業という。店舗は関東大震災後に建った看板建築だろう。帽子だけでは商売は難しいのだろう、一般の紳士洋品も置いているようだ。撮影後数年して廃業したという。
大徳帽子店、タナカ眼鏡店、志ぐれ煮の貝新と並んでいる。現在はこの3軒が「三陽銀座タワー」に替わっている。貝新はそのビルの同じ場所で営業している。三陽銀座タワーはサンヨーレインコートとバーバリで知られる三陽商会の販売店で、2015年9月のオープン。ビルもそのときの竣工なのだろうか? 三陽商会はこのビルでバーバリを売りたかったに違いない。
博品館のビルは1978(昭和53)年9月の竣工で、玩具店の博品館もその時の創業。その前は「観光会館」というビルで、キャバレー・ハリウッドがあった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





左:帝国製鉄。中央区銀座8-4。1987(昭和62)年5月24日
右:村喜五号館。銀座8-4。1988(昭和63)年2月21日

左写真の3階建ての古そうな建物は外堀通りの東側にあった。その両隣のビルは変っていなくて、左が「小沢ビル(現・もりくま11)」、右が「銀座はちかん3110」。古い建物には「帝国製鉄㈱」の袖看板がついている。1986年の住宅地図には「フリーエ」とあり、1階にそのような店名の飲食店でもあったようだ。「大分合同新聞ビル」(1998.12築、9階地下1)に替わった。
右写真の村喜五号館は帝国製鉄のちょうど裏に背中合わせで建っていて、ソニー通りに今もある。アーチ窓が特徴で一見古そうに見えるビルだが、だれも特に注目するわけでもないので、1960年代に建てられたなんでもないビルなのかもしれない。「ヨーソロ」の看板があるが、地下2階に昭和43年5月27日に開店した「海軍酒場」。『異都発掘』(荒俣宏著、集英社文庫、昭和62年、580円)で取り上げられている。
村喜五号館の右の2階建ての家は写真では「緋羅野」というバーのようだが、この家も改装されてギャラリーとして使われている。
写真左端は「銀座はちかん3110」で左写真の右に写っている。外堀通りとソニー通りの両方に向いている。元々、外堀通り沿いに八官神社があった場所に1982年8月に建ったビル。ソニー通りに向いて拝殿を設けている。このビルには「鉄道模型バー」というのがある。八官町の町名が銀座に変わるときに町名を残そうと、「穀豊稲荷」と言われていたのを八官神社と改称したのだという。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





天ぷら萩、日本観興ビル。中央区銀座8-4。1985(昭和60)年4月28日

外堀通りから花椿通りの方を見ている。花椿通りとの南(左)の角は空き地。切り口を見せている3階建ての建物が伸びていたのだろう。その半分になってしまった建物は陸屋根のようで、あるいはRC造かとも思える。「天ぷら萩」は昭和30年頃の火保図に記載がある。
萩の左の4階建てのビルは「日本観興ビル」。『日本近代建築総覧』に「日本観興ビル(旧伊丹ビル)、建築年=昭和6年、構造=RC、設計=不明、施工=月瀬組、備考=施工図にH.Kanakatsuとサインされる」で載っている。
日本観興ビルはソニー通りとの角に建っていてそのもう一方の角は、輸入洋品の「オサダ2号店」。
現在は萩とその隣の空き地に「プラーザ銀座ビル」、日本観興ビルは「ワタナベファーストビル」にそれぞれ建て替わっている。



左:日本観興ビル、1986(昭和61)年5月11日。右:天ぷら萩、1991(平成3)年頃

日本観興ビルの東側面の後ろが写っていないが、写真手前の「しど」の看板の右にくっついて写っている窓を中心に左右対称。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





オサダ、フロリダキッチン。中央区銀座8-5。1986(昭和61)年5月11日

舶来品の店・オサダがあるのは花椿通りと並木通りとの交差点の角。写真右奥へ行くと外堀通りに出る。花椿通りの両側は空襲での焼失を免れたようなので、写真の低層の店舗は戦前から建っていた可能性がある。正面は戦後の改装になるのだろう。1986年の住宅地図では「オサダ、フロリダキッチン、ジャック&ベティ(写真ではゲームイン)、宝仙堂(写真では「汁八」という店かもしれない)、オサダ(第二号店)」。
オサダ(輸入洋品店)はそのHPによると1971年の開店。フロリダキッチンは洋食屋と言っていい店構えだ。昭和30年頃の火保図に出ている。宝仙堂は建て替わったビルでドラッグストアを営業しているので薬局なのだろう。その隣はソニー通りとの角で、オサダ2号店は1号店と同じ金色?のタイル張りのような外壁の看板建築風の建物。
現在は1989年10月に建った「オサダビル」及び「プラザG8ビル」という8階建てのビルに替わっている。ビルの名称は2つあるようだが同じ建物だ。
「フロリダキッチン」をネット検索したらウィキペディアの「ゾルゲ諜報団」という項目の中にあった。写真の店とは関係ないのかもしれないが気になるので一応述べておく。ゾルゲは1933(昭和8)年に日本に入国する。「会合するための場所として、銀座のレストラン「フロリダ・キッチン」を指名」とある。その店と思われる画が『懐かしの銀座・浅草』(画=小松崎茂、文:平野威馬雄、毎日新聞社、昭和52年、2000円)にある。全面ガラス張りのレストランである。その明るい店内で情報のやり取りをしたのだろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






銀座ビガロ、たてべ雑貨店。中央区銀座7-6
上:2004(平成16)年2月7日
左:1986(昭和61)年2月2日

歩道があるのが銀座の花椿通りで、西五番街の通りとの角に写真のような古い建物が2005・6年まで残っていた。戦後すぐのバラックなのかもしれないが、『焼跡・都電・40年《下町》』(林順信著、大正出版、昭和62年、2000円)で昭和22年の航空写真を見ると、花椿通りの両側は空襲を免れたらしい家が黒く写っている。たてべ雑貨店のファサードは戦前の看板建築としていいような割と凝った造りだ。ということで、戦前からある建物ではないかと思うのだが……。
ビガロは看板の文字が読めなくてなんの店なのか判らない。西五番街側の隣は「銀座チャンピオン靴店」。
現在は「アソルティ銀座花椿通りビル」(2007年10月築、11階地下1階建)という1-3階にブランドショップが入ったビルに替わった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





東京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大学)。文京区湯島1-5。1938(昭和13)年

母のアルバムにあった駿河台で撮った写真。日付は記載がないが昭和13年と思われる。右の写真に写っているのが母らしいが、当時18歳ということになる。元の写真が直焼きと思われる小さなものなのでスキャンしても解像度は低い。左の写真は本郷通りの聖橋の南で撮っている。学生らしいのが二人写っている。通行人がたまたま写ってしまったようではなく、二人を立ち止まらせて写したように見える。母とその妹を学生二人が駿河台辺りを案内して歩いた時の写真かと推測してみたが、はたしてどんなものだろう?
聖橋の対岸に写っているビルが今の東京医科歯科大学で、1935(昭和10)年8月に竣工した校舎・病棟である。当時は「東京高等歯科医学校」で、「東京医科歯科大学(旧制)」となるのが1946(昭和21)年8月。
コの字型平面の建物だったのを、戦後、ゆがんだロの字型平面になるように増築している。現在、最初に建った中央部分が「2号館」として残されている。ぼくはこの稿を書くまで国立大学だとは知らなかった。
落合道人>島峰徹もビックリの地下式横穴古墳群。』に、建設現場から地下式横穴の古墳群が出現したことが紹介されている。1934(昭和9)年4月のことだったという。後に調査報告書にまとめられている。また、「同校の設計・建設を指揮していた大蔵省営繕管財局工務部長の大熊喜邦」という一節があり、設計者が記されている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





第一金森ビル(病院会館)。文京区湯島1-5。1987(昭和61)年5月

写真手前は本郷通りで、信号は湯島1丁目交差点。蔵前橋通りが分岐する地点で、本郷通りを横断している車は外堀通りから順天堂医院と東京医科歯科大の間を来て春日通りの方向へ向かっている。本郷通りには王子駅-通三丁目(日本橋)の19番の都電が走っていて、「湯島二丁目」電停があった交差点だ。昭和46年3月17日で廃止された。
角のビルは昭和22年の航空写真に写っているビルのようなので戦前に建てられたものと思える。1986年の住宅地図では「第一金森ビル」だが、1969年の地図では「病院会館」で、東京医科歯科大附属病院と関係があるのだろうか。白いタイル張りの壁、押上窓の階段室が塔屋になっていて、ビルの後ろは2階建て。
湯島1-5は東京医科歯科大とその附属病院がほとんどを占める。その北西の角に一般のビルが数棟、本郷通り沿いに並んでいた。1986年の地図では第一金森ビルから左へ「エルマ㈱/東洋炭素、伊藤伊ビル」、写真には写っていないが「大和建設㈱/大和産業」。現在は第一金森ビルと東洋炭素が取り壊されて駐車所になっていて、その左は「ミリオンプラザお茶の水」(2004年1月築、13階建て47戸)というマンションと「お茶の水医学会館」(2014年5月竣工)に替わっている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





廣和ビル。文京区本郷2-17。1988(昭和63)年10月16日

壱岐坂の通りの壱岐坂通り交差点の北側のすぐ西に「廣和紙業」という会社が入る廣和ビルという4階建ての小さなビルがある。写真の3階建てのビルはたぶんその旧ビルだと思う。現在、写真左の看板建築が残っているようなのだが、写真では黒くつぶれていて同じ建物かどうか分からない。写真に写っているビルはみな建て替えられていて、廣和ビルだという決め手はないのだが、他に思いつく場所もない。昭和22年の航空写真ではではその存在がはっきりしない。どうもまだ建っていないようだ。
1986年の住宅地図では、左から「茂木商会」、横丁が入っているように見えるのは奥に「江戸製版印刷」「広和ビル、壱岐坂平和マンション」、看板建築のような建物は無視されていてネジの看板が「神戸ビル」。神戸ビルの右が弓町本郷教会のある横丁である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





借家。文京区本郷2-35。2007(平成19)年2月16日

弓町本郷教会の前を南へ行ってすぐのところに同じ木造の民家が2軒並んでいた。戦前に借家として建てられたものだろう。この辺りの古い航空写真を見ると、広い庭付きの、お屋敷と思われる家が点在している。そういう屋敷の敷地に建てられたものではないかと思う。右の家の方が原形に近いようで、それを見ると全体に日本家屋の造りだが、正面1階はモルタル壁に洋風の窓を2つ開けている。玄関の脇に洋館風の一室を設ける文化住宅の変形だろうか。
現在は2軒とも、またその裏の住宅も取り壊されて時間貸しの駐車場になっている。2013年7月撮影のストリートビューにはまだ右の家が瓦屋根に網をかぶせた状態で残っている。


借家。1989(平成1)年5月5日



大谷石の塀。本郷2-35。2007(平成19)年2月16日

1・2枚目写真の右の家の横は路地が東へ入っている。昔の航空写真を見ると、その路地に4軒の、同じ造りの借家が並んでいたようだ。1・2枚目写真の借家と外観はほぼ同じ造りだったようで、南の路地側に小さな庭があり、写真の石塀がそれらの借家と路地を区切っていたのだろう。石塀には出入り口がないようなので、玄関は北側の路地にあったらしい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ