ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




篠田屋酒店。江戸川区南小岩8-4。2018(平成30)年1月14日

小岩駅南口から南西方向に柴又通りまで一直線に通っている「昭和通り商店街」は、その真ん中あたりで「小岩中央通り五番街」と交わる。その先は商店街という感じではなくなり、閉店してしまった店が多い。外灯も駅側とは違ってしまう。
ビルに替わっていないところは、上の写真のような具合で、古い家も看板建築風に造った戦後のものだ。中に戦前の建物かと思える酒屋があった。「篠田屋酒店」で、平屋に見えるが、後ろは二階建てになっているのかもしれない。

下の写真は柴又街道との交差点で、南側の昭和通り商店街の入り口。左角の家は戦後に建てたものらしいが、正面を看板建築のように造っている。店名は読めないが、横の字は「野菜/果物」なので八百屋だった家だ。


昭和通り南側の入り口。南小岩8-3。2018(平成30)年1月14日

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ABCファミリー衣料店。江戸川区南小岩7-29。2018(平成30)年1月14日

小岩駅南口から南西方向に千葉街道までまっすぐに通じている「昭和通り商店街」には格安の衣料品店が多いそうだ。ABCファミリーはその一つで、建物は平屋なので戦後すぐに建てられたバラックのようにも見えるが右の二階建て部分もあって、戦前築の建物なのかもしれない。
ABCファミリーの右は空き家になっているらしい看板建築風の店舗。その家の裏には、モルタル壁に「定食居酒屋さがの」と書かれているが、通りの表側は居酒屋だったようには見えない。



リシャール。南小岩7-29。2018(平成30)年1月14日

リシャールは「Gal’s Bar」と看板にあるが女の子向けの店ではなくギャルが接待する店らしい。建物は戦後に建てられたモルタル壁のアパート風のもの。裏から見るとまるで廃屋だが、今もその状態のままで使用しているようだ。夏は隣の家と共に蔦で覆われる。


リシャールの裏側。南小岩7-29。2005(平成17)年3月15日


マルキ屋寝具店。南小岩7-29
2018(平成30)年1月14日

リシャールの右(南)は空き地で、続いてふとんの「マルキ屋」とカメラの「もりかわ」の看板建築風の店舗、そして小さな看板建築風の空き店舗(2013年のストリートビューでは「越後屋」)、と戦後まもなく建てられたと思われる古い建物が並ぶ。


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What'z up?、ミヤザキ花店。江戸川区南小岩7-23。2005(平成17)年3月15日

JR総武線の小岩駅南口から「昭和通り商店街」に入って「小岩中央通り五番街」との交差点まで250mほどだが、その間の商店街の西側にある古い建物を紹介する。駅側入り口からすぐのマルイ漬物店は当ブログ前回で取り上げた。
次はマルイ漬物店から5・6軒南の並び。看板建築の二軒長屋で、「What’z up?」という古着屋の小岩店と「花の店 ミヤザキ」。ワッツアップは2000年頃の開店で、その前は袖看板がそのまま付いているように「ぜにや菓子店」。建物は戦後に建てたように見える。

下の写真はミヤザキ花店から横丁を2本通り過ぎたところにある二軒長屋。2軒とも空家ではないかと思う。裏の駐車場から建物の裏側を見ることができるが、2005年の写真から13年経った今では、どうみても廃屋である。


小岩ラジオ商会。小岩7-30。左:2018(平成30)年1月14日、右2005(平成17)年3月15日



オオタニ家庭金物店。小岩7-31。2005(平成17)年3月15日

随分と間口が広い店だが奥行きはそれほどでもない。正面の看板建築風の造りは戦後の改修のようだが、本体は昭和22年の航空写真に写っている建物かもしれない。

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ヤマグチ時計店、竿辰。江戸川区南小岩7-27。2005(平成17)年3月15日

JR総武線の小岩駅南口から南へ、千葉街道までの一直線の道路が「昭和通り商店街」。駅に近い方は「南小岩昭和通り商店街」で、千葉街道に近い方が「小岩昭和通り商店会」、と組織はふたつある。なぜか北にある方が「南小岩昭和通り」。
ヤマグチ時計店は駅から昭和通り商店街に入ってすぐのところにある古い三軒長屋。衣料品店(丸正傘店?)、ヤマグチ、釣具の竿辰が入っている。昔は五軒長屋くらいあったらしい。竿辰の二階の壁は銅板だかトタンを石積み風に見せたもので、あるいはオリジナルのファサードか? 竿辰は昭和16年開業の老舗。平成23年9月にすぐ近くだが昭和通りの裏手へ移った。


石渡文具店、マルイ漬物店
南小岩7-23。2005(平成17)年3月15日

ヤマグチ時計店の向かい側の二軒長屋。こちらは二軒とも石積み風の二階の壁が見られる。写真左奥の居酒屋「つるや」はストリートビューを見ると建物がなくなっていた。

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西沢電気工業社。港区三田4-1。1990(平成2)年2月11日

桜田通りの三田四丁目交差点の南側。写真左が慶応大正門の方で、桜田通りは写真右の家並みが切れているところで南西の方向へ曲がる。白っぽい壁の看板建築の裏に見えている瓦屋根は大松寺。写真の看板建築の長屋は大松寺の家作なのかもしれない。現在は普通の一戸建て住宅に替わっている。
下の写真は大松寺の南の西蔵院や大聖院の桜田通り沿いの家。2014年の時点で残っていた戦前築と思える古い家だが、今、ストリートビューを見たら、タケナカ理容店の左の「エイト通商」と「つくし」(そば屋?)はなくなっていた。


タケナカ理容店、つくし。三田4-1。2014(平成26)年4月23日

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二軒長屋。港区三田2-16。1990(平成2)年2月11日

三田の慶応大学の南を通る桜田通りの三田四丁目交差点で、後ろのビルは慶応大学の南館。窓が3つ並ぶ看板建築は二軒長屋で、店の看板がないのでしもた屋かもしれない。1982年の地図に1軒を「㈲理科電機工業」としてある。その右のビルの緑色の看板は「中華料理 英龍」。写真左の看板建築風の家は住居だと思う。取り付けられた看板は「三菱銀行」。田町駅のそばの支店を指しているのだろうか?
今、ストリートビューを見ると、写真右のビルはそのまま存在していて「ラーメン二郎三田本店」になっていた。二軒長屋は取り壊されて駐車場になっている。写真左の家は建て替えられていて、海鮮丼の店があったらしいが、2017年9月に「びっくり屋」という八百屋が開店した。

下の写真は1枚目写真の裏手にある酒屋で、現在では建物はそのままで居酒屋として商売をしている。『東京・歩く・見る・食べる会 会員便り>第三十七回 三田・芝の浦編 平成23年11月12日』によると、建物は明治26年(1893)に酒屋として建てられた。平成13年に若干の手直しをして居酒屋にした。隣の津国屋ビルは元は蔵があったらしい。その右の木造の家は津国屋の倉庫。



津国屋酒店。三田2-16。1990(平成2)年2月11日

加賀乙彦の「永遠の都」(新潮文庫で全7冊)という小説に津国屋酒店が登場する。著者の自伝ともいっていいが、小説だから事実通りというわけでもないだろう。著者である少年の、母方の祖父が元海軍軍医の時田利平で、もう一方の主役である。大正2年、三田綱町に時田病院を開業して、発展していく様子が描かれる。北杜夫の「楡家の人々」と通じるところがある。
祖父の実名は野上八十八、病院は「野上病院」。その病院があったところが、桜田通りの三田四丁目交差点の日産自動車のビルから慶応女子高の門にかけてのところだった。津国屋酒店とはごく近所だからそこから酒を買うのは自然である。桜田通りの向かいの「三田北寺町大松寺」は時田家の葬儀が行われたり、病院が空襲で焼け落ちるときの避難場所になった。

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綱町三井倶楽部。港区三田2-3
2011(平成23)年9月13日(他も)

設計=ジョサイア・コンドル、施工=不詳、建築年=大正2(1913)年12月、構造=レンガ造2階建て地下1階。三井財閥の貴賓接待所として建てらた。コンドルの晩年の代表作である。明治43(1910)年に着工して完成まで4年を要した。当初は「三井別邸」と呼ばれた。
鹿鳴館があるようにコンドルは倶楽部建築を得意としたという。綱町三井倶楽部はルネサンス様式を基本に、庭に面したベランダなどにバロック的デザインも取り入れている。外見は石造りのように見え、構造のレンガは見えない。外壁は白色タイル貼りに隅石積み、また、コンドルの新しい試みとして小屋組みには鉄骨が用いられている。日本人建築家ではとても到達できない質の高さを至る所に見ることができる(『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)。
建物の南側には広い庭園が広がっている。本館と同じ台地上にある純英国風の西洋庭園もコンドルの設計。本館が完成後、その隣接地を取得して1919(大正8)年に着工、1922(大正11)年完成(三井広報委員会>三井の迎賓館・綱町三井倶楽部)。

内部の様子は『アクトデザイン凛太郎のブログ>綱町三井倶楽部』に、6回にわたる詳細なレポートがある。




明治末から大正にかけては三井財閥が飛躍的に発展した時期である。明治41年には三池港が開港し三池炭鉱の石炭の輸出量が増大。明治42年には「三井合名会社」(三井銀行、三井物産、三井鉱山などを束ねる持株会社)を設立、「三井慈善病院」を開院。三井合名会社の社長に三井総領家(北家)第10代当主・三井高棟(たかみね)、参事に團琢磨、顧問に益田孝というのがトップの布陣。この背景で綱町三井倶楽部の建設も出てきた。
三井高棟は明治43年に、團琢磨同行で7か月の欧米歴訪をしている。そこで高棟は三井家の迎賓館の必要性を感じた、という話がある。高棟はそもそも建築が趣味で、あちこちに日本建築の別邸を造っている。
大正3年のシーメンス事件、それに関連した「金剛事件」で三井物産の幹部が有罪判決を受けると、再度組織の変更を強いられ、益田が後退し、高棟と團の「名コンビ」の体制で三井財閥は大正期の繁栄に向かう(三井広報委員会>高棟・團の名コンビ誕生)。



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東京地方簡易保険局。港区三田1-4。1990(平成2)年2月11日

建った時は「東京簡易保険支局」、現在は「かんぽ生命保険東京サービスセンター」。1966(昭和41)年の住宅地図には「郵政省/東京地方貯金局/東京地方簡易保険局/三田台郵便局/港電報局三田台分室」。1983(昭和58)年の「港区全図」では「東京地方簡易保険局/三田台郵便局」。
2017年1月30 日に日本建築学会から、かんぽ生命保険・日本郵政・都知事・港区長宛に「「旧東京簡易保険支局およびその敷地」の保存活用に関する要望書」が出されている。取り壊しの計画があるのだろうか。以下、建物に関しては「要望書」と、日本建築学会の後藤治氏の「旧東京簡易保険支局およびその敷地についての見解」を参照した。
東京簡易保険支局は設計=逓信省営繕課(中心の技師は張 菅雄ちょう すがお)、施工=大林組で1929(昭和 4)年 3 月 31 日に竣工した。総工費は435万円。RC3階地階付き、「交差する中央廊下で全体が田の字に分割され、4 つの中庭を設ける」。
建築様式は古典主義に新しく台頭した「アール・デコ」または「セセッション」のディテールが加わった折衷様式。また「ウイーンの郵便貯金局のホール(オットー・ワーグナー設計、1912 年竣工)を彷彿とさせる内部階段吹抜け等が、設計者の西洋近代建築の正確な理解の証左となっている」。
日本に残っている近代建築のなかでも有数の巨大建築である。状態も良好ということなので周囲の環境も含めて、残していく歴史的価値はあるだろう。



正面中央の玄関と三田台郵便局の入り口。1990(平成2)年2月11日



東京地方簡易保険局宿舎。三田1-4。2011(平成23)年9月13日

敷地の西南にある建物。『日本近代建築総覧』の備考に「宿舎あり」とあるので、それということにする。1966(昭和41)年の住宅地図には「官舎 ガレージ」で、1階のアーチはガレージだったのを部屋に改装したらしい。


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クオーレ、立花食堂。神奈川県横須賀市上町2-5。2014(平成26)年2月28日

上町(うわまち)銀座商店街になっている県道26号(三崎街道)の「うわまち病院入口」と「豊島小学校入口」交差点の間。京急バスの「聖徳寺坂上」バス停があるところ。
写真左の看板建築は「クオーレ(CUORE)」という喫茶店だが、閉店してしまっているようだ。その右が「立花食堂」。外のメニューを見ると、食堂というだけに何でもあるが、「もり、かけ」が最初に出ているので、古くからあるそば屋が続いているのかもしれない。

立花食堂から右(南東)へ3軒目が下の写真の銅板貼り看板建築。豊島小学校入口交差点の角で、この交差点は五差路になっている。平坂から続いていたアーケードの商店街はここでようやく終わりになる。
銅板貼り看板建築の看板は「AST横須賀“和技”氣功施術院」。右は「トヨスポーツ」。スポーツ用品の販売店だろうか? チームを相手の商売かもしれない。「横須賀市アーチェリー協会事務所」の表札もある。その右は「写真シミズ」と「証明書用/写真撮影」の看板があるが営業はしていないようだ。



和技気功施術院、トヨスポーツ、写真シミズ。横須賀市上町2-5。2014(平成26)年2月28日

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モリモーターズ、がらくら小雀、近野葬儀社
神奈川県横須賀市上町2-4。2014(平成26)年2月28日

三崎街道の「うわまち病院入口」交差点からすぐ南、エノモト写真店の向かい。アーケードで見にくいが銅板張りの看板建築が2棟並んでいる。「モリ モーターズ」と「がらくた 小雀」。小雀は骨董というほどでもない古い雑貨を置いてあるような店らしく、数百円でこんなものを買ったという報告がネットに幾つかある。
小さな「山一ビル」を挟んで「近野葬儀社」の洋風看板建築。『日本近代建築総覧』に「植森金物店、建築年=昭和初期、木造2階建」で載っている。先頭アーチの独特な装飾は「イスラム風」と言われている。アーチの枠の内側はモルタルの造形、外側はタイルを貼ったものらしい。

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