歩行者の頭に瓦が落ちてくる場合のように、
ある方向に進む因果系列に対して、別の因果系列が交錯してくる場合。
一般に必然な法則は、現実には無数の因果系列の交錯の中でしか貫徹されないから、
人間の認識の不完全さのために常に偶然的事件が起こる。
・・・そうそうこれだよ、と思った。
この文章は広辞苑の「偶然」を引いて見たもの。
「せいめいのはなし」の養老さんと福岡伸一さんの対談の中で出てくる話で、
「平衡が次にどのような平衡状態に遷移するのかは偶然に過ぎない。
ドミノ倒しのような因果律的思考は動的平衡の考え方の対極にある。」と、
福岡先生が言っている。
ドミノ倒し云々の話で言っているのは、
種を蒔いて芽が出たのは種を蒔いたことが原因とは言えない・・
土、光、水、空気。そのようないろいろな現象があったことで、
その時その時の動的平衡状態が(芽が出た)という平衡状態に繋がった。
・・・と、こういうような主旨の事を福岡先生は言っているんじゃないかと思う。
けれど、「平衡がどのような平衡状態に遷移するかは偶然に過ぎない」
・・これはどうなんだろう?というのが私にはある。
勿論言葉というものは認識に過ぎない、ということから、
彼が「偶然である」と認識しているのだろうというのはよくわかる。
それを否定する気なんてない。
ある日ある場所で種を蒔いた。いや、種が飛んで来た、でもいい。
土や日光の差し具合や雨、気温、湿度・・・
それぞれが全て繋がってそれぞれのある日ある時、種に作用した・・・
いろいろなそこに生じている現象のプロセスが交錯した。
交差しながら芽が出た。
どの瞬間も止まっていない。流れている。
原因も結果も止まっていない。
そこに偶然は一つもないんじゃないかなぁ。
どのようにそれぞれのプロセスが交錯したかは人間にはわからなくても。
「因果」という言葉も一つの原因が一つの結果を招いたというふうには
捉えてないけど、
偶然ではない・・ということをしつこく私は言っているんだね~
偶然と思う人がいたって、全然構わないのは勿論だからこそ、
こうして屁の河童で書いてるんだけど。
ある方向に進む因果系列に対して、別の因果系列が交錯してくる場合。
一般に必然な法則は、現実には無数の因果系列の交錯の中でしか貫徹されないから、
人間の認識の不完全さのために常に偶然的事件が起こる。
・・・そうそうこれだよ、と思った。
この文章は広辞苑の「偶然」を引いて見たもの。
「せいめいのはなし」の養老さんと福岡伸一さんの対談の中で出てくる話で、
「平衡が次にどのような平衡状態に遷移するのかは偶然に過ぎない。
ドミノ倒しのような因果律的思考は動的平衡の考え方の対極にある。」と、
福岡先生が言っている。
ドミノ倒し云々の話で言っているのは、
種を蒔いて芽が出たのは種を蒔いたことが原因とは言えない・・
土、光、水、空気。そのようないろいろな現象があったことで、
その時その時の動的平衡状態が(芽が出た)という平衡状態に繋がった。
・・・と、こういうような主旨の事を福岡先生は言っているんじゃないかと思う。
けれど、「平衡がどのような平衡状態に遷移するかは偶然に過ぎない」
・・これはどうなんだろう?というのが私にはある。
勿論言葉というものは認識に過ぎない、ということから、
彼が「偶然である」と認識しているのだろうというのはよくわかる。
それを否定する気なんてない。
ある日ある場所で種を蒔いた。いや、種が飛んで来た、でもいい。
土や日光の差し具合や雨、気温、湿度・・・
それぞれが全て繋がってそれぞれのある日ある時、種に作用した・・・
いろいろなそこに生じている現象のプロセスが交錯した。
交差しながら芽が出た。
どの瞬間も止まっていない。流れている。
原因も結果も止まっていない。
そこに偶然は一つもないんじゃないかなぁ。
どのようにそれぞれのプロセスが交錯したかは人間にはわからなくても。
「因果」という言葉も一つの原因が一つの結果を招いたというふうには
捉えてないけど、
偶然ではない・・ということをしつこく私は言っているんだね~
偶然と思う人がいたって、全然構わないのは勿論だからこそ、
こうして屁の河童で書いてるんだけど。