信心という言葉で、もう受け付けない、読む気にならないという人は多いと思う。
私もそのうちの一人だ。
この本でも神さまという言葉についてもそういうことが書かれてあった。
それはその言葉に溜まっている長年の手垢やほこりの臭いで
いわば、受け付けないというのは人間的な悪い匂いに対しての拒絶反応であって、
その悪臭は神さまの匂いじゃない、というのがあった。
今までの人間が作って来た臭いだ。
だから、神さまやら信心やら宗教やらの言葉が出て来たら、
長年の人間のくさい臭いを払って払って払って読まないといけないと思う。
で、
108ページ・・
「信心というのは『そうだったのか、もう救われていたのか』と気づくことです。
われわれがこれからなにかやるんじゃない、もう済んでいたのかと気づくこと。
今までそれに気付かないでいただけのことで、
気付いたということが、助かったことです。
・・・気付くということには二つある。われわれは絶望だと気付く・・・
普通我々は絶望だということを思っていないわけですよ。
なんとかなるだろうと思って生きている。
ほんとうに絶望だということに気付いたということが、もう救われたということだ。
・・・
109ページ・・
生き物は皆、気づくと仏は言っているわけです。
けれどもその前に、
何が善いことで何が悪いことかも全然わからないという、
そういう自分だということに気付くんですよ。
救われるということに気付くんじゃなくて、救われないということにまず気付く。
そのように救われないということに気付くということが、
救われることに気付いたということと同時だというのが浄土真宗なんです。
この本の151ページに・・
「真理に出会うということは、思い込みが全部いらなくなったということだと思いますよ。
浄土真宗は信心を強調するけれど、
少なくとも浄土真宗の親鸞が言っている信心とは
人間のあらゆる思い込みは空しいということ、
思い込みがいらなくなった世界のこと。
それを仏さまからもらった信心と言っているんですね。
それを言うとなんだか非常に擬人的な世界のようになるけど、
要するに、はっと気づいた世界というか。・・・
それを信といっている。」
・・・引用は以上。
こういうことって、本当に不思議なんだけど、
こんなにひどい自分だったのか・・と驚きと共に気づいた時に、ある。
もうどうにでもなれ、と絶望的な気持ちになった時にも、ある。
それは非常な暗さのはずなんだけど明るい。
何の行為も行動もするわけじゃなく、
ただ気付くという経験で起こる。
とてつもない経験、という感じ。
気付くということはどんなこと、物でも、
元々在るものに気付くということだ。
あ、こんな所に探してた鍵があった、昔のノートがあった、という気づきと一緒で。
既にそこにそれは在ったのだ。
気付きが起こるということは
既に救われていた、ということなんだと思う。
救われないということに気付くということが、
救われることに気付いたということと同時だというのが浄土真宗なんです・・・
とあったけれど、
浄土真宗というものを知っていても知らなくてもそれは起こる。
浄土真宗が生まれる以前から
全ての人間は救われているということなんだろうと思う。
ただ救われていることを知らない人がいるだけで。
私もそのうちの一人だ。
この本でも神さまという言葉についてもそういうことが書かれてあった。
それはその言葉に溜まっている長年の手垢やほこりの臭いで
いわば、受け付けないというのは人間的な悪い匂いに対しての拒絶反応であって、
その悪臭は神さまの匂いじゃない、というのがあった。
今までの人間が作って来た臭いだ。
だから、神さまやら信心やら宗教やらの言葉が出て来たら、
長年の人間のくさい臭いを払って払って払って読まないといけないと思う。
で、
108ページ・・
「信心というのは『そうだったのか、もう救われていたのか』と気づくことです。
われわれがこれからなにかやるんじゃない、もう済んでいたのかと気づくこと。
今までそれに気付かないでいただけのことで、
気付いたということが、助かったことです。
・・・気付くということには二つある。われわれは絶望だと気付く・・・
普通我々は絶望だということを思っていないわけですよ。
なんとかなるだろうと思って生きている。
ほんとうに絶望だということに気付いたということが、もう救われたということだ。
・・・
109ページ・・
生き物は皆、気づくと仏は言っているわけです。
けれどもその前に、
何が善いことで何が悪いことかも全然わからないという、
そういう自分だということに気付くんですよ。
救われるということに気付くんじゃなくて、救われないということにまず気付く。
そのように救われないということに気付くということが、
救われることに気付いたということと同時だというのが浄土真宗なんです。
この本の151ページに・・
「真理に出会うということは、思い込みが全部いらなくなったということだと思いますよ。
浄土真宗は信心を強調するけれど、
少なくとも浄土真宗の親鸞が言っている信心とは
人間のあらゆる思い込みは空しいということ、
思い込みがいらなくなった世界のこと。
それを仏さまからもらった信心と言っているんですね。
それを言うとなんだか非常に擬人的な世界のようになるけど、
要するに、はっと気づいた世界というか。・・・
それを信といっている。」
・・・引用は以上。
こういうことって、本当に不思議なんだけど、
こんなにひどい自分だったのか・・と驚きと共に気づいた時に、ある。
もうどうにでもなれ、と絶望的な気持ちになった時にも、ある。
それは非常な暗さのはずなんだけど明るい。
何の行為も行動もするわけじゃなく、
ただ気付くという経験で起こる。
とてつもない経験、という感じ。
気付くということはどんなこと、物でも、
元々在るものに気付くということだ。
あ、こんな所に探してた鍵があった、昔のノートがあった、という気づきと一緒で。
既にそこにそれは在ったのだ。
気付きが起こるということは
既に救われていた、ということなんだと思う。
救われないということに気付くということが、
救われることに気付いたということと同時だというのが浄土真宗なんです・・・
とあったけれど、
浄土真宗というものを知っていても知らなくてもそれは起こる。
浄土真宗が生まれる以前から
全ての人間は救われているということなんだろうと思う。
ただ救われていることを知らない人がいるだけで。