ここに引用(一部表現は変えたのもあるけど)するのは6年前にこのブログに書いたもの。
私が夫の前で屁をして、それに夫が「失礼だな」と言った事件?
のことで自分を観察したときのもの。
以下・・・なんで傷ついたのか?と観察すると、
「自然に屁をしたらいけない。
在りのままの私でいたらいけない。」
こういうものが自分にあったのだと思う。
「失礼だな」の言葉に傷ついたのではなく、
その言葉を聞いて、
「それは、在りのままの私でいちゃいけないということなんだな」と
他の誰でもない自分が無意識のうちにそう解釈し、受け取ったのだった。
でなければ、傷つくということには成り得ない。
「失礼だな」を聞いて
「へー、そんなふうに思うのか、この人は」と受け取る場合もあれば、
「何がどう失礼なんだろう?どんな感じか、聴いてみよう」
と受け取る場合もあるかもしれない。
選択肢はたくさんある。
それにしても、
在りのままでいてはいけない と思うことくらい辛いことはないと思う。
この、今の、この、私しか、ここにいないのに、
そういう私じゃいけないんだったら、どうしたらいいの?
・・っていう感じに成るのは当たり前だ。
本当に、自縄自縛。
自分以外の誰が自分の心を傷つけられるだろう。
身体は他者によって傷つくことも可能だけど、
自分の心を傷つけることの出来るのは自分以外にない。
そう思っているので、
傷ついちゃった時は、しらべることにしている。
でも自分でも人でも、傷ついてしまうということを否定はしてない。
否定など出来ようも無い。
だって、そうなっちゃうんだから。
なってるもの は なんだって 在るもの。
存在は 否定なんかしようがない。だって 在る。
在るものに 在るな なんて思うことは ナンセンス。
・・・以上。
一昨日かな、こころが傷ついたことがあった。
何故心が傷ついたのか??
心の傷は怒りにもなる。
「なんでこんな目に遭わなきゃならないの!?」・・これ。
そして次はこれ・・・「わたし何も悪いことしてないのに!」
その次はこれ・・・「いろいろしてやってる人にこういう態度はないでしょう!」
これがあった・・・・
いま、こうして書いていてわかった。
いろいろしてやってる人、と自分のことをそう観ているのだな・・
いろいろとしてはいたのは事実だけど、
それに、やってやってるという恩着せがましい思いがくっ付いている。
何故それが付くのかといえば、
その時、そこに居ることが半ば嫌々だったからだ。
今この瞬間、この部屋に居たくない、という本音がありながら、
それを無視して(意識的でなく)おざなりにやっていた自分だった。
その時の気持ちを自分で尊重してやらず、
無理して頑張っていたからだ。
自分で無理を押し通すと相手にも無理を要求するようになる。
私がこんなに無理してるんだから、あんただってしてよって。
恐いですねぇ。
やっぱり自分の心を傷つけられるのは自分しかいない。
人の言動はきっかけに過ぎない。
傷ついた、、じゃない、傷つけた自分の心を検査してよかった。