篠山ABCマラソンを走って、ロングタイプの完走証&敢走証が100枚貯まり、20枚ずつフォルダーに入れているので、ちょうど5冊になりました。ここでも書いたように、走ったことに対しての感動はさほどないのですが、眺めているとそれなりに思い出がよみがえってきます。
写真下中央が初マラソンのホノルルです。1983年12月11日ですからもう30年になります。多分暑さのためだと思うのですが、後半失速しての3時間49分13秒。立派なタイムですからやっぱり若かったんやなあ。
この大会には忘れられない思い出があります。前半ハイウェーの側道を走っているときです。向こうから太ったポリネシア系のおばさんが素っ裸で走ってきたのです。ストリーキングというやつです。もちろん、あの部分も黒々と‥。びっくりしたなあ。今やったらケータイを持っていますから、絶対パシャ、逆走してもう1枚ですが、当時はもちろんそんな余裕もなく、「ハワイはおもろいことが起こるんやなあ」と思いながら走り続けてました。若い女性でないということもあって、いやらしさはなかったです。
私の絶頂期はすぐやってきます。1988年2月21日第26回愛媛マラソンです。この時の記録3時間17分17秒です。
この大会の前、あいの土山マラソン(左側の記録証)が3時間48分03秒と不本意なものだったので(多分、途中で歩いてます)、直前の3か月は月間300キロ以上の走り込みをしました。そして、愛媛マラソンはゴールで3時間30分という厳しい大会だったのですが(今は、コースも制限時間も違うみたいです)、フラットで記録が出やすいと思い、この頃よく一緒に走っていた松下哲也さんと出かけました。スペシャルドリンクも持ち込み、サブスリーを目指して臨みました。その願いもむなしく、後半失速といういつものパターンで、最後の1キロで松下さんにも抜かれるという惨敗でした。これで、記録への気持ちが萎えました。この当時、まだ税理士資格も取得していなくて、「気分転換もいいけれど、走ってばっかりでは本末転倒」です。これからは、そこそこカッコ悪くない程度の速さのランナーになることにしました。
記録証は一つとして同じものがありません。それがまた楽しいです。右の1992年5月10日岩国錦帯マラソンは主催が在日米軍岩国基地なので全部英語です。錦帯橋の傍で米兵がスタッフとして働いているのは、インターナショナルな感じがしました。そしてこのマラソン、距離が26マイルです。きちっとしているようでちょっと中途半端、フルには385ヤード足りないことになります。まあ、私はフル扱いにしていますが‥
日本全国国盗りマラソンンを考え出したのは、2005年3月27日の佐倉朝日健康マラソン辺りからです。(まだ現役だったQちゃんと小出監督が応援してくれたなあ)20数県の段階ですが、死ぬまでには何とかできるやろぐらいに考えていました。こんなに早く達成するとは思っていませんでした。
そして、次のが唯一の敢走証です。つまり、100キロ走るところを80キロ走りましたという証拠です。「絶対リベンジ!」です。
こんな話をしだせば、話は尽きません。またぼちぼち公開していきますのでお楽しみに。今度の日曜日は佐賀さくらマラソン走ってきます。お楽しみに。