6月24日(日)午後11時、このブログにも何回も登場している、幼稚園からの友人トンこと豊田和明さんが肺炎で永眠しました。
現在書き始めている、”第7回隠岐の島ウルトラマラソン”にも、当初はトンと行くはずで、予約もしていました。それが、5月2日に次のようなメールが来ました。
「今日病院受診で炎症反応数値上昇あり胸部レントゲンで肺炎とのこと緊急入院です。三週間はかかるとのこと。隠岐の島にはいけそうにないです。ドタキャンでは失礼ですし大変残念ですが同行不可でよろしく対処のほどお願い致します。」
トンは8年前に悪性リンパ腫を発症し、それまで勤務医をしていたのを退職し、体調のいい時だけ、いわばアルバイトの医師をしていました。当初は本当に「すぐにも死ぬんかなあ」と心配していたのですが、はた目には元気になり、「それでは」ということで私のマラソンについてくるようになりました。
私がブログを始めた2年前の”隠岐の島”が初めての付添でした。それから今年2月の、私の”47都道府県国盗り達成”まで、7回ついてきてくれました。「何にもせんと、おいしいもんを食べ、おいしい酒を飲んでるだけやけど、賑やかしにはなるなあ」と言うたもんです。
ブログにも書いているように、トンの代わりは妻が行くことになりました。5月2日から隠岐の島までには1か月半あったのですが、退院したとも言ってこないので気になり、私の主治医であるトンの弟の武夫先生に聞くと、「あんまりようない。見舞いに行ってやって」とのことで、”隠岐の島”を走ったら見舞いに行きますわと言ってました。
トンは隠岐の島にもメールをくれました。
「ドライブ中ですか?マイペースで完走してください。がんばって!貴子さん(ママ)も無理しないで」
結果はご存知のように80キロでDNFという結果で、トンに知らせると、
「残念ですがまたトライアルに向け日ごろの練習に精進できますね。今日はうまいもの食べてゆっくり休んでくださいね。」
これが最後のメールになりました。
6月23日(土)午後4時過ぎ、入院先の第一日赤にお見舞いに行きました。その時、私の知っているトンとはすっかり変わってしまっているトンを発見してびっくりしてしまいました。
それでも平静を装い、隠岐の島の話やらをしました。トンも酸素マスクを着けていたのですが、普通にしゃべってくれ、「また来るわな」と言って帰りました。
「もう退院はできひんやろな」と思ったので、すぐ、これも竹馬の友でこのブログにも出てくる九州のやっつんに「見舞いに行ったほうが良いで」と連絡しました。もちろん、やっつんも行くつもりだったのですが、こんな早くとは思ってないから間に合いませんでした。
トンは私たちの見舞いの後、急変し、その夜に人工呼吸器を装着し、そのまま意識が無くなったそうです。結局、意識があるトンと会話したのは家族以外では私たちが最後だったようです。待っててくれてたんかなあ。
トンとの付き合いの話は、長すぎてとてもこのブログでは書きつくせません。まあ、ダラダラと腐れ縁です。ええ加減な奴で随分お世話をさせていただきました。それでも今まで仲良くしてたんだから、ええとこのある奴だったんでしょう。
悪性リンパ腫になってからは、付き合いの密度が濃くなりました。本当にこの2年間一緒に旅行ができたことがいい思い出となりました。だから、悔いはありません。今日はお葬式でお別れを言ってきました。
遺影が昨年私が橘湾岸スーパーマラニックに出場するので同行した時の写真なんです。(やっつんが撮りました)たまりませんわ‥。
以下思い出のトンの写真をご覧ください。
(2010年6月、境港にて。隠岐の島への高速船に乗る前です)
(2010年9月田沢湖マラソンに出場。途中、角館にて。友恵さんと妻の孝子も同行しました)
(2010年10月久留米市筑後川マラソン会場にて。やっつんと3人です)
(私の従兄の恭ちゃんも応援に来てくれていました)
(2010年11月天草マラソンの途中です。九州は必ずやっつんが来てくれました)
(2011年5月、橘湾岸スーパーマラニック前に長崎観光です。グラバー園です)
(ヨットハーバーです。見事な坊主二人)
(スタート前、妻に電話しています。これがトンの遺影になっています。もちろん私は切り取られています)
(2011年10月、いわて北上マラソン。前日、平泉中尊寺へ。月見坂を喘ぎながら登っています)
(2012年2月、武雄嬉野街道フル駄マラニックの途中、やっつんの奥さん裕子シャンのお店、松島茶店にて。妻も同行しています)
友達の数が少ないんで、減るのはとても辛いです。