今年も7月に入って、しかももう19日。例年の如く前半の総括をしないといけません。
といっても、今年は2月に京都マラソン、3月に横浜マラソンと2レースしか走っていません。4月、5月はエントリーしていましたが、どちらもDNSでした。その理由は、このブログでもやはり触れないといけないでしょうね。さらっと書くことにします。
5月31日に私の父が永眠しました。95歳でした。
歳からいうと何の不足もないのですが、「介護保険なんか自分には用がない」とばかり、本当に元気な父で100歳までは楽勝と思っていただけに残念です。
昨年12月に、近所のかかりつけのお医者さんに総合病院の受診を勧められ、京都けいさつ病院に行きました。結果は末期の肝臓がん、余命は早くて数週間、花見ができたらいいでしょうねということでした。
ここで、家族が話し合って決めたことは、本人に告知はしない、延命治療はしない、普段通りに暮らすの3点でした。この時点で、まったく今年前半のマラソンの出場予定は未定になってしまいました。ただ、普段通りにエントリーはすることにしました。父の余命を計算してレースを決めることはしたくなかったからです。
予想以上に父は頑張りました。2月の京都マラソンでは去年と同様、応援に来てくれました。
このころは食事の量は落ちてきたものの(今見るとやっぱりちょっと顔に元気がない)、母よりはるかに速く歩いていました。「がんは進行してへんのんとちゃう?」というぐらいでした。
この感じで、私の仕事で一番大変な所得税の確定申告の最終日(今年は3月15日が日曜という関係で3月16日)を迎えました。そして、3月15日にあった横浜マラソンは出場できて「本当に良かった」と思ったものでした。
がんは家族の「歳、いってるから進行してへんのんと違う?」という期待も空しく、やはり進行していたようです。19日の診察ではがんは2センチ大きくなっていて、この状態で元気でいられるのは例がないぐらいといわれました。だんだん動けなくなってきているのはわかりましたが、それでもその後、夫婦二人で御所の花見に行ったりして、びっくりと共に、「えっ、花見ができたんや」という喜びもありました。
そして4月になってからはいよいよ肝臓が機能不全になってきて、認知が始まりました。アンモニアが処理できないとこうなるそうです。もともと愉快な父だったのでこの介護もなかなか楽しかった。エピソード満載でした。
もっとも介護生活ですから私たち夫婦が2泊3日で行く予定だった宮城県の東北風土マラソンはDNSです。早割で飛行機を予約していましたから、3万円のキャンセルフィーもでました。仕方がない。(涙)
ゴールデンウイークも何とか過ごして、5月16日の東尋坊愛のマラニック100キロには、私一人行くことでもあるし、妹に手伝いに来てもらって何とか出るつもりでした。練習もそれなりにしていました。
しかしその直前、13日の夜から父の様態が急変、しんどがるようになってきました。それで翌14日、けいさつ病院に連れて行くと、主治医から「よくここまで頑張られましたね」と私たちに慰労の言葉をかけていただき、入院を勧められました。もちろんお願いしたのですが、肝臓がん患者は苦しむので夜は付き添いをしてあげてくださいということでした。この日は妻が付き添いました。私の親に妻が付添いしているのに、私がしないのでは「人としてどうなん!」というわけで、愛のマラニックもDNSしました。
結果、父が亡くなるまで、私が5日、妻が4日、妹が4日、泊りの付き添いをし、夫として兄として一応の面目を保ちました。
こうして父は逝ってしまったのですが、なんか「看取った」という満足感があります。半年足らずという長すぎない期間がこうさせたのでしょう。今更ながらに父にありがとうと言いたいと思います。
夕焼けに輝く我が滋賀大学です。あんまりきれいだったので撮りました。
といっても、今年は2月に京都マラソン、3月に横浜マラソンと2レースしか走っていません。4月、5月はエントリーしていましたが、どちらもDNSでした。その理由は、このブログでもやはり触れないといけないでしょうね。さらっと書くことにします。
5月31日に私の父が永眠しました。95歳でした。
歳からいうと何の不足もないのですが、「介護保険なんか自分には用がない」とばかり、本当に元気な父で100歳までは楽勝と思っていただけに残念です。
昨年12月に、近所のかかりつけのお医者さんに総合病院の受診を勧められ、京都けいさつ病院に行きました。結果は末期の肝臓がん、余命は早くて数週間、花見ができたらいいでしょうねということでした。
ここで、家族が話し合って決めたことは、本人に告知はしない、延命治療はしない、普段通りに暮らすの3点でした。この時点で、まったく今年前半のマラソンの出場予定は未定になってしまいました。ただ、普段通りにエントリーはすることにしました。父の余命を計算してレースを決めることはしたくなかったからです。
予想以上に父は頑張りました。2月の京都マラソンでは去年と同様、応援に来てくれました。
このころは食事の量は落ちてきたものの(今見るとやっぱりちょっと顔に元気がない)、母よりはるかに速く歩いていました。「がんは進行してへんのんとちゃう?」というぐらいでした。
この感じで、私の仕事で一番大変な所得税の確定申告の最終日(今年は3月15日が日曜という関係で3月16日)を迎えました。そして、3月15日にあった横浜マラソンは出場できて「本当に良かった」と思ったものでした。
がんは家族の「歳、いってるから進行してへんのんと違う?」という期待も空しく、やはり進行していたようです。19日の診察ではがんは2センチ大きくなっていて、この状態で元気でいられるのは例がないぐらいといわれました。だんだん動けなくなってきているのはわかりましたが、それでもその後、夫婦二人で御所の花見に行ったりして、びっくりと共に、「えっ、花見ができたんや」という喜びもありました。
そして4月になってからはいよいよ肝臓が機能不全になってきて、認知が始まりました。アンモニアが処理できないとこうなるそうです。もともと愉快な父だったのでこの介護もなかなか楽しかった。エピソード満載でした。
もっとも介護生活ですから私たち夫婦が2泊3日で行く予定だった宮城県の東北風土マラソンはDNSです。早割で飛行機を予約していましたから、3万円のキャンセルフィーもでました。仕方がない。(涙)
ゴールデンウイークも何とか過ごして、5月16日の東尋坊愛のマラニック100キロには、私一人行くことでもあるし、妹に手伝いに来てもらって何とか出るつもりでした。練習もそれなりにしていました。
しかしその直前、13日の夜から父の様態が急変、しんどがるようになってきました。それで翌14日、けいさつ病院に連れて行くと、主治医から「よくここまで頑張られましたね」と私たちに慰労の言葉をかけていただき、入院を勧められました。もちろんお願いしたのですが、肝臓がん患者は苦しむので夜は付き添いをしてあげてくださいということでした。この日は妻が付き添いました。私の親に妻が付添いしているのに、私がしないのでは「人としてどうなん!」というわけで、愛のマラニックもDNSしました。
結果、父が亡くなるまで、私が5日、妻が4日、妹が4日、泊りの付き添いをし、夫として兄として一応の面目を保ちました。
こうして父は逝ってしまったのですが、なんか「看取った」という満足感があります。半年足らずという長すぎない期間がこうさせたのでしょう。今更ながらに父にありがとうと言いたいと思います。
夕焼けに輝く我が滋賀大学です。あんまりきれいだったので撮りました。