歌わない時間

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「この手に聞け!」

2010年09月03日 | 本とか雑誌とか
新潮社版『福田恆存評論集7』に「飜譯論」という文章が載っています。昭和35年から翌年にかけて雑誌に発表されたもの。福田さんがシェイクスピアを舞台劇のせりふとしてどのように日本語に移し替えたか、その理念と実際が語られる。いくつか例を挙げて具体的に述べられている。

いちばん短い例を引きますね。『ジュリアス・シーザー』でキャスカがシーザーに襲いかかるときのせりふ、〈Speak, hands, for me!〉。このせりふについて、福田さんは言う。「キャスカはその言葉を吐出すやうに言ひながら、シーザーに襲ひかかるのである。いはば、その言葉でシーザーを刺すのである。從つて、このせりふは短劍の動きのごとき鋭く速い身振りをもつてをらねばならず、また役者が激しく襲ひかかれる身體的な身振りを伴なひうるものでなければならない。」そして中野好夫訳、坪内逍遙訳、福田訳が並べ上げられる。「かうなれば、腕に物を言はせるのだ!」(中野訳)、「もう……此上は……腕づくだ!」(逍遙訳)、「この手に聞け!」(福田訳)。たしかに中野訳や逍遙訳は短劍を手にしてシーザーに襲いかかる瞬間のキャスカのせりふとしてはふさわしくない。あまりにまだるっこしい。それぞれのせりふのどのタイミングでキャスカ役者は飛び掛かればいいのか分からない。その点、福田訳は意訳ではあっても舞台上での役者のからだの動きに合わせたせりふになっている。演出家の立場から、舞台での上演を念頭に置きつつ訳したという福田訳シェイクスピアの面目躍如たるものがある。

「飜譯論」は、福田さんが先行訳と較べて自分の訳はどこがすぐれているか、ということを言うための文章なので、当然先行訳が腐されて福田訳が持ち上げられる。その点は注意が必要だ。(逍遙訳って案外いけるぢゃん。)ではあるけれど、福田さんのシェイクスピア翻訳の基本線がはっきり示されていて、おもしろく読みました。

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