11月16日、日曜日。
午前3時13分。
窓から空チェックを忘れてきてしまった…けど
5時間前は、見惚れて立ち止まるくらいの、満天の星だったから
多分今も
見惚れてしまう星の世界が広がっていると思います。
部屋にいる時はだいたいラジオをつけているのだけど
さっきまでラジオを聴いてまして
気になったのでその話題をお借りして(>_<)
ブログに書かせて頂きます。(^人^;)
あがっていた話題は、誰もが持っているであろう
『コンプレックス』
…でした。
古今東西、老若男女、みんな今も昔も
心の中に持っているのだね?
昔、吉川さんと布袋さんのユニットでありましたね?
()よかったなぁ
…なぜこの変換になるのかね?(>_<)
もとい、
格好良かったなぁ。(懐かしいな)
ほとんどの人がコンプレックスを何かしら持っているのではないかな?
全くないって方はいないのだろうな。
…と思う、誰もみな
心の中で付き合っていくもの、コンプレックス。
人それぞれに、それぞれの種類のコンプレックスがあると思います。
ある人は原動力にし、糧にして
ある人は悩み
眠れぬ夜をすごすのかもしれません。
どっちのコンプレックスの持ち方もそれぞれに正解だと
僕は思うけど。
かくいう僕も、以前は、コンプレックスの塊でした。σ(^^;)
特に、青春時代の多感な頃は
未来など得体の知れないもの
こんな世界、どこに希望を持てるっていうんだ?
…なんて贅沢なことを思っていました。
コンプレックス=劣等感。
コンプレックスという言葉、あまり使い慣れていないので
劣等感で書かせて頂きますね…φ(..;)
昔の僕はまさに劣等感の塊、
『ショートカット頭を叩いてみれば劣等感の音がする』
それくらい、劣等感だけの自分でした。
19、20歳が特に酷かった。
自分には、誇れるものなど何もない。
顔も、性格も、スタイルも、髪も、センスも、頭脳も、心構えも、世間に対する姿勢も
嫌で仕方がなかった。
劣等感=自分、だったなぁ。
色に例えたら、モヤモヤとした霧のようなグレー。
僕の青春時代は
人間失格の気質漂う、灰色一色だった気がします。
…が
頭の天辺から足の先まで劣等感だらけの自分でも
自分が自分を受け入れ難く居心地がわるい世界だったとしても
それが結局のところ
『自分』、『我』なのでした。
それこそが自我。
払拭もできない、否定もできない
それが等身大の自分。
まずは、その事実を認めることがまず大事かもです。
しばらくの間、劣等感という難敵に悩まされ
あまりに多すぎた僕の劣等感は青春時代を
暗い色で随分と無駄にしたように
思うのだけれど…
青春時代は風のようにすぎ
今は、劣等感というものは
生きていくうえでは必須だと思うように
いつの間にか、感じるようになっていました。
…ということに、ラジオを聴いていて分かりました。
気づきたてホヤホヤです。
気付かせてくれたラジオさんに…
ありがとう。o(^-^)o
青春時代は遠い日となったけど
今でも劣等感は未だにもちろん幾つもあります。
もしかしたら、一生持ち続ける『コンプレックス』もあるでしょう。
…が
今はそれよりも大事なもの
考えなければいけないものがいっぱいあります。
劣等感で悩む時間も余裕もなく
かっこつけている暇もない
考えても悩んでも辿り着かないものもあるけど
あんなに重苦しく感じていた劣等感が
今は、劣等感を持てる自分で良かったと思えるのです。
なぜそう思うのか
うまく説明できなくてもどかしいけど…(>_<)
優越感に浸っているより
僕には劣等感があってちょうどいいなんてね
思ったりしました。
劣等感がなかったら、こうしてブログも
詩も、絵も
書いて(描いて)いなかっただろうな。
僕がまっとうな人間でいるには
劣等感と
詩を書くことが必要だと感じます。
だから劣等感(コンプレックスは)
幸せの要素のひとつだと
思います。
だから、コンプレックスに悩む人は
そのグレーは
必ずしも『負なものではない』と
言いたいな。
そんなこと助言できるような人間でもない
みすぼらしい僕だけど。
でも、ほっとけない話題でした。
劣等感は、負ではない。
自分へ辿り着く道の『出発点』だと
思うなぁ。^^
※話題が話題だけに長くなってしまいました。m(_ _)m
『葦と子羊』
人間とは考える葦であり
人間とは悩める子羊であり
いまだ
僕ら私たちは
遥かなるゴールを目指す
永遠なる旅人
劣等感を撒いて
ありのままの自我を握りしめ
その手で放つまで
*
午前3時13分。
窓から空チェックを忘れてきてしまった…けど
5時間前は、見惚れて立ち止まるくらいの、満天の星だったから
多分今も
見惚れてしまう星の世界が広がっていると思います。
部屋にいる時はだいたいラジオをつけているのだけど
さっきまでラジオを聴いてまして
気になったのでその話題をお借りして(>_<)
ブログに書かせて頂きます。(^人^;)
あがっていた話題は、誰もが持っているであろう
『コンプレックス』
…でした。
古今東西、老若男女、みんな今も昔も
心の中に持っているのだね?
昔、吉川さんと布袋さんのユニットでありましたね?
()よかったなぁ
…なぜこの変換になるのかね?(>_<)
もとい、
格好良かったなぁ。(懐かしいな)
ほとんどの人がコンプレックスを何かしら持っているのではないかな?
全くないって方はいないのだろうな。
…と思う、誰もみな
心の中で付き合っていくもの、コンプレックス。
人それぞれに、それぞれの種類のコンプレックスがあると思います。
ある人は原動力にし、糧にして
ある人は悩み
眠れぬ夜をすごすのかもしれません。
どっちのコンプレックスの持ち方もそれぞれに正解だと
僕は思うけど。
かくいう僕も、以前は、コンプレックスの塊でした。σ(^^;)
特に、青春時代の多感な頃は
未来など得体の知れないもの
こんな世界、どこに希望を持てるっていうんだ?
…なんて贅沢なことを思っていました。
コンプレックス=劣等感。
コンプレックスという言葉、あまり使い慣れていないので
劣等感で書かせて頂きますね…φ(..;)
昔の僕はまさに劣等感の塊、
『ショートカット頭を叩いてみれば劣等感の音がする』
それくらい、劣等感だけの自分でした。
19、20歳が特に酷かった。
自分には、誇れるものなど何もない。
顔も、性格も、スタイルも、髪も、センスも、頭脳も、心構えも、世間に対する姿勢も
嫌で仕方がなかった。
劣等感=自分、だったなぁ。
色に例えたら、モヤモヤとした霧のようなグレー。
僕の青春時代は
人間失格の気質漂う、灰色一色だった気がします。
…が
頭の天辺から足の先まで劣等感だらけの自分でも
自分が自分を受け入れ難く居心地がわるい世界だったとしても
それが結局のところ
『自分』、『我』なのでした。
それこそが自我。
払拭もできない、否定もできない
それが等身大の自分。
まずは、その事実を認めることがまず大事かもです。
しばらくの間、劣等感という難敵に悩まされ
あまりに多すぎた僕の劣等感は青春時代を
暗い色で随分と無駄にしたように
思うのだけれど…
青春時代は風のようにすぎ
今は、劣等感というものは
生きていくうえでは必須だと思うように
いつの間にか、感じるようになっていました。
…ということに、ラジオを聴いていて分かりました。
気づきたてホヤホヤです。
気付かせてくれたラジオさんに…
ありがとう。o(^-^)o
青春時代は遠い日となったけど
今でも劣等感は未だにもちろん幾つもあります。
もしかしたら、一生持ち続ける『コンプレックス』もあるでしょう。
…が
今はそれよりも大事なもの
考えなければいけないものがいっぱいあります。
劣等感で悩む時間も余裕もなく
かっこつけている暇もない
考えても悩んでも辿り着かないものもあるけど
あんなに重苦しく感じていた劣等感が
今は、劣等感を持てる自分で良かったと思えるのです。
なぜそう思うのか
うまく説明できなくてもどかしいけど…(>_<)
優越感に浸っているより
僕には劣等感があってちょうどいいなんてね
思ったりしました。
劣等感がなかったら、こうしてブログも
詩も、絵も
書いて(描いて)いなかっただろうな。
僕がまっとうな人間でいるには
劣等感と
詩を書くことが必要だと感じます。
だから劣等感(コンプレックスは)
幸せの要素のひとつだと
思います。
だから、コンプレックスに悩む人は
そのグレーは
必ずしも『負なものではない』と
言いたいな。
そんなこと助言できるような人間でもない
みすぼらしい僕だけど。
でも、ほっとけない話題でした。
劣等感は、負ではない。
自分へ辿り着く道の『出発点』だと
思うなぁ。^^
※話題が話題だけに長くなってしまいました。m(_ _)m
『葦と子羊』
人間とは考える葦であり
人間とは悩める子羊であり
いまだ
僕ら私たちは
遥かなるゴールを目指す
永遠なる旅人
劣等感を撒いて
ありのままの自我を握りしめ
その手で放つまで
*