2月2日(土)
きのうの湯沢は快晴で、ほんとうにスキー日和だった。
だが、きょうは朝から小雨が続いている。残念ながら天気予報どおりだ。
ま、雨であっても、駒子と島村のあゆみを訪ねて、「雪国」を文学散歩するには、さしつかえはないが。
ところで、あらためて川端康成著「雪国」とは。
新潮文庫 362円(税別)
「親譲りの財産で、きままな生活を送る島村は、雪深い温泉町で芸者駒子と出会う。許婚者の療養費を作るため芸者になったという。駒子の一途な生き方に惹かれながらも、島村はゆきずりの愛以上のつながりを持とうとしない----。冷たいほどにすんだ島村の心の鏡に映される駒子の烈しい情熱を、哀しくも美しく描く。ノーベル賞作家の美質が、完全な開花を見せた不朽の名作。」
(文庫カバーの内容紹介より)
という概略で、当面十分だろう。
駐車場を11時ごろに出て、温泉通りを長靴をはいて傘をさして、歩き始めた。
▲ 左側には、温泉通りに平行して新幹線が走る。無粋な風景になるが、しょうがない。
まもなく、昨日の布場(ぬのば)スキーゲレンデ近くへ来た。
▲ 「ゆきぐに」とか「島村」とかの民宿名が出てくる。
徐々に「雪国」の世界へ入っていく(笑)。
もちろん、こんな名物も。
まずは、湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」へ行って、情報を集めてこよう。
▲ 階段を上がって入館すると、そこは2階。
2F
▲ 湯沢の懐かしの、囲炉裏端(いろりばた)等を紹介するコーナーも、もちろんある。
けど、私の関心はあくまで小説。3階の書籍・閲覧コーナーへ。
3F
▲ ここでは、「雪国」に関連する書籍類、パネル展示があった。
興味深かった写真2点、ご紹介しよう。
▲ 山袴(さんばく)をはいたスキー姿の松栄(まつえ)さん(左側)。松栄は駒子のモデルになった女性だ。山袴は、小説に何度も記述があるが、要はモンペのことだと思う。
「(島村が駒子に尋ねる)やっぱりスキイ服を着て(滑るの)。」
「山袴。ああいやだ、いやだ、お座敷でね、では明日またスキイ場でってことに、もう直ぐなるのね。今年は辷(すべ)るの止そうかしら。・・」
いかにも湯沢らしい、客の口説き方だ(笑)。
▲ 高半旅館から、湯沢の町並みを眺めた当時の興味深い写真。
左手に諏訪社の杉木立。中央は湯沢の町並み。右手は布場スキー場。
地形はもちろん、今も変わっていないが、現在は杉木立の手前から向こうまで新幹線が走っている。
当時の湯沢は、まさに田舎だったことがよく分かる。
雪国館の1Fにも、「雪国」資料が満載だった。
1F入り口
▲ 「雪国」は過去、何度か映画化されている。入り口の壁には1957年の池辺良(島村)、岸恵子(駒子)主演の映画ポスター。映画を回顧して池辺良が語った記事がクリップしてあった。
島村が最初芸者を呼んだが、肌の浅黒い骨ばったいかにも山里の芸者が来て、帰すのに苦労する場面があるが、その山里芸者を演じたのが市原悦子とか。いかにも、適役っぽく私は笑ってしまった。
また、川端先生はスタッフとの打ち合わせのあいだじゅう、岸恵子の手をさすっていたとか。言行一致の川端だ。
▲ 「国境の長いトンネル」とは、昭和6年全通の単線清水トンネル。
さらに、ここには駒子のモデル松栄が住んだ置屋「豊田屋」での部屋を移築し、再現したものがあった。
▲ 小説の駒子の部屋は、繭倉を改造した屋根裏、低い明り窓が南に一つあるきり、となっているのでモデルの実部屋とは少し違うようだ。
窓の外の写真を拡大すると、
となる。先ほどの、高半旅館から眺めた湯沢町並み写真と同じだ。位置的にもおかしな風景になるが、拡大されて、湯沢風景がよりよくわかる。
さあ、雪国館での下調べは終わった。次は、島村が下り立った越後湯沢駅へ行こう。
▲ 温泉通りを少し歩く。にぎやかになってくる。
▲ 越後湯沢駅へ到着。中へ入ってみると、びっくり。中は大きい商店街だ。
▲ 「CoCoLo湯沢がんぎどおり」という地元のお土産品を取りそろえたショップ街があった。
有名な「笹団子」はもとより、魚沼産コシヒカリを原材料にした米菓の類、もちろん地酒の数々、種類が豊富。
長年湯治客向けに、豊かな食文化が発達したようだ。decoがいたらお土産選びに半日必要だろう。
私も、そろそろお腹が空いてきた。
▲ 「魚沼田舎料理のお惣菜」「ランチバイキング」800円!
よし、これにしよう。
▲ 12種類以上のお惣菜から、好きなだけとる。プラスご飯、味噌汁。
▲ この皿を3回替えた。
(野菜ちゃんと食べてるよ・野菜太りにならないかな)
食事のあと、歩きを再開。来た道を戻って高半旅館へ向かう。
▲ 布場ゲレンデの側にあるスキー神社。紋がスキー板だ。 右の向こうに、高半旅館が見える。
高半旅館への、つづら折りの登り口を「湯坂」と呼ぶ。この湯坂の中途右手に、「山の湯」がありもう少し上がると、昔は高半旅館の入り口になったという。
「湯坂」
湯坂を上がりきったところが、小説に「裏山」とよばれる山がある。
▲ なんでもない山だが、裏山。
「島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。・・ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駆け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。」
飛び立つ二羽の黄蝶とは、島村と駒子の出会いと別れを暗示する。印象的な場面だ。
当時の高半旅館と裏山の写真はこれだ。
▲ 赤印が高半旅館。右端の杉林が、諏訪社。
さらに、当時の高半旅館がこれ。
▲ 丸印が、川端が逗留し松栄が通った部屋。これが島村と駒子の物語に代わっていった。
この旅館は建て替えられて、現在の高半ホテル↓になる。
高半ホテル玄関
では、高半ホテルに今も保存されている二人の部屋、「かすみの間」(小説では「椿の間」)へ行ってみよう。
▲ 川端の、このかすみの間で交わされる駒子と島村の情感の描写は、精緻だ。
窓からの折々の景色の美しい表現のみならず、島村の五感を通して駒子の、愛、なげき、怒りの心理が細やかに表現されていく。
「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけど、そういう女じゃないの。きっと長続きしないって、あんた自分で言ったじゃないの。」
「『つらいわ。ねえ、あんたもう東京へ帰んなさい。つらいわ。』と、駒子は火燵の上にそっと顔を伏せた。つらいとは、旅の人に深はまりしてゆきそうな心細さであろうか。またはこういう時に、じっとこらえるやるせなさであろうか。女の心はそんなにまで来ているのかと、島村はしばらく黙り込んだ。」
「駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊(こだま)に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつむように聞いた。このような島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかった。」
しかし、その島村の生き方の限界が駒子に理解され、駒子を絶望に陥(おとしい)れるのであるが。
▲ 細かい部屋の見取り図が残されている。
朝、旅館の女中と顔を合わせるのを避けて駒子が隠れた押入れ、の説明もある。
他の展示物とともに、駒子=松栄の写真も展示されていた。
▲ 右端が松栄さん。
松栄さんは、無断で川端が自分をモデルにした小説を書いたことにやはり当惑した。川端は雪国初稿の生原稿を松栄さんに届けて謝ったことが伝えられている。その後松栄さんは、芸者を辞めて湯沢を離れる時、その生原稿や自分がつけていた日記を全部焼いて、新潟の結婚相手のところへ向かったことが伝えられている。
さて、高半旅館はこれくらいにして、さらに小説の舞台となった周囲を散策しよう。
旅館を辞して、下に下ったところに、置屋の豊田屋跡がある。
▲ 今は木造集合住宅になっている。ここに松栄が住んでいた芸者置屋(といっても彼女一人だったが)豊田屋跡。その部屋の復元が、朝の雪国館1Fにあったもの。
この豊田屋跡の少し上が、もうひとつのスポット、「社」(やしろ)という表現で出てくる、村の鎮守、諏訪社だ。
▲ 雪に埋まっている諏訪社。ここで、島村と駒子はしみじみと会話をする場面が続く。
「女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。神社であった。苔のついた狛犬の傍の平らな岩に女は腰をおろした。『ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。』・・」
今は、狛犬も腰を下ろした岩も、残念ながら雪の下だ。
松栄さんが、生原稿と日記を焼いたのも、この社だった。
さあ、これで見たいところは回ったかな。時間も3時を過ぎた。
駐車場へ戻ろう。
▲ 駐車場から、もう一度振り返る。
左に諏訪社の杉林がある。右に駒子が島村に早く会いたい一心で、朝露に濡れた熊笹を押し分けて登ったという高半旅館が見えた。
********************
帰りに、「駒子の湯」へ。この温泉浴場は、平成に入ってから出来たもので、「駒子」が入浴した筈もない。しかし歩いて汗ばんだ私には、(川端が駒子を描写するとき何度も「清潔」という表現を使うが)この清潔な浴場は、ちょうど心地よかった。
駒子の湯
これで、すべて予定が終わった。
湯沢ICから、関越道にのった。まだ小雨で景色がけむっている。
雪の夕景色の鏡に、二日間の思いがぼんやり映る。
さようなら、駒子・・・。
別れは、一つの旅立ちだ。
このトンネルを抜ければ、夕方8時ごろには家に帰れるな。
きのうの湯沢は快晴で、ほんとうにスキー日和だった。
だが、きょうは朝から小雨が続いている。残念ながら天気予報どおりだ。
ま、雨であっても、駒子と島村のあゆみを訪ねて、「雪国」を文学散歩するには、さしつかえはないが。
ところで、あらためて川端康成著「雪国」とは。
新潮文庫 362円(税別)
「親譲りの財産で、きままな生活を送る島村は、雪深い温泉町で芸者駒子と出会う。許婚者の療養費を作るため芸者になったという。駒子の一途な生き方に惹かれながらも、島村はゆきずりの愛以上のつながりを持とうとしない----。冷たいほどにすんだ島村の心の鏡に映される駒子の烈しい情熱を、哀しくも美しく描く。ノーベル賞作家の美質が、完全な開花を見せた不朽の名作。」
(文庫カバーの内容紹介より)
という概略で、当面十分だろう。
駐車場を11時ごろに出て、温泉通りを長靴をはいて傘をさして、歩き始めた。
▲ 左側には、温泉通りに平行して新幹線が走る。無粋な風景になるが、しょうがない。
まもなく、昨日の布場(ぬのば)スキーゲレンデ近くへ来た。
▲ 「ゆきぐに」とか「島村」とかの民宿名が出てくる。
徐々に「雪国」の世界へ入っていく(笑)。
もちろん、こんな名物も。
まずは、湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」へ行って、情報を集めてこよう。
▲ 階段を上がって入館すると、そこは2階。
2F
▲ 湯沢の懐かしの、囲炉裏端(いろりばた)等を紹介するコーナーも、もちろんある。
けど、私の関心はあくまで小説。3階の書籍・閲覧コーナーへ。
3F
▲ ここでは、「雪国」に関連する書籍類、パネル展示があった。
興味深かった写真2点、ご紹介しよう。
▲ 山袴(さんばく)をはいたスキー姿の松栄(まつえ)さん(左側)。松栄は駒子のモデルになった女性だ。山袴は、小説に何度も記述があるが、要はモンペのことだと思う。
「(島村が駒子に尋ねる)やっぱりスキイ服を着て(滑るの)。」
「山袴。ああいやだ、いやだ、お座敷でね、では明日またスキイ場でってことに、もう直ぐなるのね。今年は辷(すべ)るの止そうかしら。・・」
いかにも湯沢らしい、客の口説き方だ(笑)。
▲ 高半旅館から、湯沢の町並みを眺めた当時の興味深い写真。
左手に諏訪社の杉木立。中央は湯沢の町並み。右手は布場スキー場。
地形はもちろん、今も変わっていないが、現在は杉木立の手前から向こうまで新幹線が走っている。
当時の湯沢は、まさに田舎だったことがよく分かる。
雪国館の1Fにも、「雪国」資料が満載だった。
1F入り口
▲ 「雪国」は過去、何度か映画化されている。入り口の壁には1957年の池辺良(島村)、岸恵子(駒子)主演の映画ポスター。映画を回顧して池辺良が語った記事がクリップしてあった。
島村が最初芸者を呼んだが、肌の浅黒い骨ばったいかにも山里の芸者が来て、帰すのに苦労する場面があるが、その山里芸者を演じたのが市原悦子とか。いかにも、適役っぽく私は笑ってしまった。
また、川端先生はスタッフとの打ち合わせのあいだじゅう、岸恵子の手をさすっていたとか。言行一致の川端だ。
▲ 「国境の長いトンネル」とは、昭和6年全通の単線清水トンネル。
さらに、ここには駒子のモデル松栄が住んだ置屋「豊田屋」での部屋を移築し、再現したものがあった。
▲ 小説の駒子の部屋は、繭倉を改造した屋根裏、低い明り窓が南に一つあるきり、となっているのでモデルの実部屋とは少し違うようだ。
窓の外の写真を拡大すると、
となる。先ほどの、高半旅館から眺めた湯沢町並み写真と同じだ。位置的にもおかしな風景になるが、拡大されて、湯沢風景がよりよくわかる。
さあ、雪国館での下調べは終わった。次は、島村が下り立った越後湯沢駅へ行こう。
▲ 温泉通りを少し歩く。にぎやかになってくる。
▲ 越後湯沢駅へ到着。中へ入ってみると、びっくり。中は大きい商店街だ。
▲ 「CoCoLo湯沢がんぎどおり」という地元のお土産品を取りそろえたショップ街があった。
有名な「笹団子」はもとより、魚沼産コシヒカリを原材料にした米菓の類、もちろん地酒の数々、種類が豊富。
長年湯治客向けに、豊かな食文化が発達したようだ。decoがいたらお土産選びに半日必要だろう。
私も、そろそろお腹が空いてきた。
▲ 「魚沼田舎料理のお惣菜」「ランチバイキング」800円!
よし、これにしよう。
▲ 12種類以上のお惣菜から、好きなだけとる。プラスご飯、味噌汁。
▲ この皿を3回替えた。
(野菜ちゃんと食べてるよ・野菜太りにならないかな)
食事のあと、歩きを再開。来た道を戻って高半旅館へ向かう。
▲ 布場ゲレンデの側にあるスキー神社。紋がスキー板だ。 右の向こうに、高半旅館が見える。
高半旅館への、つづら折りの登り口を「湯坂」と呼ぶ。この湯坂の中途右手に、「山の湯」がありもう少し上がると、昔は高半旅館の入り口になったという。
「湯坂」
湯坂を上がりきったところが、小説に「裏山」とよばれる山がある。
▲ なんでもない山だが、裏山。
「島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。・・ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駆け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。」
飛び立つ二羽の黄蝶とは、島村と駒子の出会いと別れを暗示する。印象的な場面だ。
当時の高半旅館と裏山の写真はこれだ。
▲ 赤印が高半旅館。右端の杉林が、諏訪社。
さらに、当時の高半旅館がこれ。
▲ 丸印が、川端が逗留し松栄が通った部屋。これが島村と駒子の物語に代わっていった。
この旅館は建て替えられて、現在の高半ホテル↓になる。
高半ホテル玄関
では、高半ホテルに今も保存されている二人の部屋、「かすみの間」(小説では「椿の間」)へ行ってみよう。
▲ 川端の、このかすみの間で交わされる駒子と島村の情感の描写は、精緻だ。
窓からの折々の景色の美しい表現のみならず、島村の五感を通して駒子の、愛、なげき、怒りの心理が細やかに表現されていく。
「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけど、そういう女じゃないの。きっと長続きしないって、あんた自分で言ったじゃないの。」
「『つらいわ。ねえ、あんたもう東京へ帰んなさい。つらいわ。』と、駒子は火燵の上にそっと顔を伏せた。つらいとは、旅の人に深はまりしてゆきそうな心細さであろうか。またはこういう時に、じっとこらえるやるせなさであろうか。女の心はそんなにまで来ているのかと、島村はしばらく黙り込んだ。」
「駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊(こだま)に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつむように聞いた。このような島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかった。」
しかし、その島村の生き方の限界が駒子に理解され、駒子を絶望に陥(おとしい)れるのであるが。
▲ 細かい部屋の見取り図が残されている。
朝、旅館の女中と顔を合わせるのを避けて駒子が隠れた押入れ、の説明もある。
他の展示物とともに、駒子=松栄の写真も展示されていた。
▲ 右端が松栄さん。
松栄さんは、無断で川端が自分をモデルにした小説を書いたことにやはり当惑した。川端は雪国初稿の生原稿を松栄さんに届けて謝ったことが伝えられている。その後松栄さんは、芸者を辞めて湯沢を離れる時、その生原稿や自分がつけていた日記を全部焼いて、新潟の結婚相手のところへ向かったことが伝えられている。
さて、高半旅館はこれくらいにして、さらに小説の舞台となった周囲を散策しよう。
旅館を辞して、下に下ったところに、置屋の豊田屋跡がある。
▲ 今は木造集合住宅になっている。ここに松栄が住んでいた芸者置屋(といっても彼女一人だったが)豊田屋跡。その部屋の復元が、朝の雪国館1Fにあったもの。
この豊田屋跡の少し上が、もうひとつのスポット、「社」(やしろ)という表現で出てくる、村の鎮守、諏訪社だ。
▲ 雪に埋まっている諏訪社。ここで、島村と駒子はしみじみと会話をする場面が続く。
「女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。神社であった。苔のついた狛犬の傍の平らな岩に女は腰をおろした。『ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。』・・」
今は、狛犬も腰を下ろした岩も、残念ながら雪の下だ。
松栄さんが、生原稿と日記を焼いたのも、この社だった。
さあ、これで見たいところは回ったかな。時間も3時を過ぎた。
駐車場へ戻ろう。
▲ 駐車場から、もう一度振り返る。
左に諏訪社の杉林がある。右に駒子が島村に早く会いたい一心で、朝露に濡れた熊笹を押し分けて登ったという高半旅館が見えた。
********************
帰りに、「駒子の湯」へ。この温泉浴場は、平成に入ってから出来たもので、「駒子」が入浴した筈もない。しかし歩いて汗ばんだ私には、(川端が駒子を描写するとき何度も「清潔」という表現を使うが)この清潔な浴場は、ちょうど心地よかった。
駒子の湯
これで、すべて予定が終わった。
湯沢ICから、関越道にのった。まだ小雨で景色がけむっている。
雪の夕景色の鏡に、二日間の思いがぼんやり映る。
さようなら、駒子・・・。
別れは、一つの旅立ちだ。
このトンネルを抜ければ、夕方8時ごろには家に帰れるな。
現代の女性には失われてしまった心。
一部の女性だけかな?(笑)
男性も女性も随分変わってしまったように感じます。
時代の流れなのでしょうか?
女性の一途な思いとか真剣な生き方は、そのけなげさと相俟って、心をうちますね。それでいて基本的には楽天的な性根で、足を地につけて生きていける強さを持っている。そのような駒子に、島村は憧憬の気持ちを持つのですが、強迫的な自らの空虚感を埋めるには至らない。
といった、男女のパターンを描いた小説は昔はよくあったような気がします。女は現実的で、男は観念的で、その相克を描くような小説といっていいかもしれません。
しかし、チビsoraさんが示唆されたように、現代ではこの男女の捉え方自体、もう古臭く機能しないかもしれませんね。
女は、現実性の面ばかり強めて生活力をつける一方、男は、現実世界に押しつぶされそうになってしまって観念的に考える余裕すら持てないような、現在の若い男女間状況??。
こんな状況で、恋愛小説は、何をテーマにするのかな・・なんてことまで話がそれて(発展して)考えていました。
今、川端康成の『雪国』を読み終わったばかりで、小説の中のスキー場はどのような様子か、島村と駒子がどのような部屋でしゃべたり、遊びだりするのか、調べてみたら、soraさんのブログに参りました。
「国境の長いトンネル」のところですが、かなり広い岸壁の下に大きく開かれた、英仏海峡トンネルのよううに想像していたのですが、soraさんの撮った写真では、実は随分小さいトンネルですね。
好きな小説に描かれたところに行って、その様子を目の当たりにすることができて、幸せなことですね。soraさんの記事、ありがとうございました。
小説はたいていの場合架空の物語ですが、雪国はモデルになった方をはじめ、小説の舞台になった場所が明確に特定できる珍しい例です。
>好きな小説に描かれたところに行って、その様子を目の当たりにすることができて、幸せなことですね~
その小説に惹かれたなら、そこへ行ってみたくなりますよね。で、私は冬を選んで湯沢を訪れたわけですが、おっしゃるとおり、その様子を目の当たりにし、さらに色々と想像をしてみる至福の時、を持てました。
>「国境の長いトンネル」のところですが、かなり広い岸壁の下に大きく開かれた、英仏海峡トンネルのように想像していたのですが~
たしかに、冒頭の書き出しは暗闇の中を吸い込まれるようにトンネルに入っていくようなイメージですから、地中から海底に入り込む英仏海峡トンネルを連想されるかもしれませんね。
実際は、単線ですから当時は小さい穴のトンネルです。今はもっと拡大されているでしょう。しかし、冬にそこから抜け出したときの白い世界への驚きは、今の関越自動車道トンネルでも似たような感じを持ちますよ。
高偉健さんは学生さんですか。川端は学生のとき伊豆を旅行したときの体験を元にして描いた「伊豆の踊り子」が代表作だということは、もちろんご存知だと思いますが。あの無垢な踊り子は、川端の女性への憧憬の原型です。その私の後追い旅行記もhttp://blog.goo.ne.jp/aoisorae/e/f2d7c4a2c85492d13b9f28a41e6fa8b4
に収めています。もしご関心がありましたら。
コメントをありがとうございました。