日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

筋膜リリースを学びに。

2015-08-31 13:35:41 | 発達応援
 梅雨に戻ったような雨が続きます。
季節的には秋雨なのでしょうね。

 職場の同僚で、「毎日、雨なら良いのにな。」という雨好きの方がいます。
雨が降るとうきうきして、雨が降る音を聞いていると心が落ち着くそうです。
今年は雨が多いから良いわぁ、とも言われて、
「私の前世は、カタツムリかナメクジだったと、心から思うわ。」といわれます。

 余りにも力説されるので、そうかも…と思ってしまいそうです。

 昨日は筋膜リリースのセミナーに行っていました。

 打撲やスポーツや日常生活や体の使い方の癖から、
私たちの筋膜はよれたり、歪んだり、縮まってしまったりしています。

 ところで、筋膜ってどこにあるのかというと、
体全体、至る所、すべてにあります。

 というのも、筋膜というのは大雑把にいうと全身を覆っている膜(結合組織)なのです。
細かくいうと、筋肉を覆う筋外膜というのがあり、更にその中に筋束を包む筋周膜があり、
更にその中に、筋線維を包む筋内膜があり…と、マトリョーシカの入れ子のようなものだったりします。

 想像しやすいのは、頭からすっぽり全身タイツをかぶっている感じです。
そして、それが何らかの事情で一部分伸縮性がなく、ぎゅっと縮んでいたり、
タイツがよじれて皮膚に違和感があったり、そういう感じをイメージしてもらうと良いかと思います。

 ちょっと、動きにくそうではないですか?
 
 その縮んでいたり、ねじれている部分をじんわりゆっくり伸ばしていったり、
よじれを取り除いていくのが筋膜リリースのテクニックです。

 今回は胸部、腹部、呼吸に関する部分の筋膜リリースでした。
普段、特に不具合がある訳ではありませんが、
筋膜リリースをすると、どうもないと思っていた部分が滑りが悪く縮んでいたり、
ウエストのくびれがはっきりしたり、呼吸がしやすくなったりと、
色々な変化を感じることができました。

 骨盤が後ろに傾いて、首が前に出てバランスを取っているような姿勢の人にも有効ですよ、という
話しが出て、それって、自閉っ子にありがちな姿勢ではないか!と
筋膜リリースは学びの土台が揺らいでいる子どもに良さそうじゃないか?と思って学んでいる私は、
大きく頷いたことでした。

 私が学びの土台作りに筋膜リリースが良いのでは?と思った訳は、
筋膜リリースをすることで、筋の緊張が緩むからです。

 私が接してきた支援の必要な子どもたちは、
立っていても、座っていても、寝転がっていても筋肉の緊張が高い子どもさんが多く、
なかなか、自分で力を抜くことができない子も多かったのです。

 それで、外からの力を借りて筋肉の緊張が少しでも緩められたらな、と思っていたところ、
ちょうど学びはじめていた筋膜リリースの勘肉の緩む感じが「いいんじゃない!?」とビンゴの感触。

 とは言うものの、誰かに触れられることが嫌いだったり、
その子の筋緊張は、その子にとって必要なものかもしれないので、
やみくもに緩めればOKという訳ではないと思います。

 子どもさんと相談し、必要そうならしっかりアプローチできるように腕を磨こうと思います。

 アロアトリートメントのメニューにも組み込んで、更なるリラックスの質の向上もあかりたいし、と
妄想、構想広がる筋膜リリースのテクニックです。
 
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宿題考。

2015-08-30 08:56:54 | 発達応援
雨の日が続くと、暑いってどんなだったっけ?と思ってしまいますね。今日は長袖の上着を持ってお出かけです。

夏休み終わりだから、宿題についてふと考えました。

中学校で支援員を始めた頃、私が元々、高校で国語を教えていたこともあって、支援クラスの子どもたちの国語の宿題を作ることになりました。

みんなそれぞれ、持っている課題が違うので、ひとりひとりの課題に沿った宿題を作り出していました。しかし、学校ではうーんうーんと唸ってわからなかったり、苦労するような問題も、宿題にするとパーフェクト!少し難易度を上げてもちゃんとやってきます。

むしろ、学校では色々なヒントを出せば、時間をかけてでも出来る子が、宿題だとわからずに昼休みや放課後に一緒に考えてやることがありました。

色々聞いてみると、パーフェクトに宿題をしてくる子は、家で保護者の方と一緒に取り組んでいることがわかりました。

私は、まさか中学生が宿題を保護者と一緒にやっているなんて思いもよらないことでした。

そこで、できなくてもいいし、忘れてもいいから、とにかく、保護者の方には宿題を一緒にしなくて良いですから、とお伝えしました。
そして、宿題でわからない、できない所は、学校で宿題を出した私と一緒に考える。宿題をやるのを忘れたら、朝にきちんと「忘れました」と言いに来る。この2つを徹底していきました。

はなまるをもらうことが大好きな子どもは、中々、宿題を空欄で出すことに抵抗しました。
学校で自分で考えるのは面倒だと思う子も、中々、骨が折れました。

でも、同級生も同じように忘れたら怒られ、わからなければ教えてもらっている、そんな姿を見ることで、だんだん、できるようになってきました。

自分で学ぶということを少しずつわかり始めた子どもたちは、「わからないって、悪いことでも恥ずかしいことでもないんだね。」と一緒に放課後に勉強をするようになったりもしました。

手を貸したり、離したり。近くの保護者の方はどきどきだっただろうなぁ、と近頃になって思うことでした。
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9月のからだ。

2015-08-29 20:08:23 | 養生・薬膳
 リンゴの季節になってきました。
私は「秋映」というリンゴが一番好きですが、
「さんさ」「紅玉」「トキ」「シナノスィート」「シナノゴールド」「ふじ」…、
これから旬をむかえるリンゴたちにわくわくです。

 そして、今日ははじめてのリンゴ「紅ロマン」というリンゴを食べました。
「さんさ」と「シナノレッド」を掛け合わせたリンゴだそうです。
水分少なめ、甘さもですが酸味もけっこうあって、
とてもおいしいリンゴでした。

 そして、「シナノレッド」という食べたことのないリンゴがまた気になるのでした。
楽しみな季節です。

 そろそろ、新学期も目前。
この週末が終わり、一息ついたら学校のはじまりですね。

 残暑もある9月は、6月から熱を発散するために緩んできたカラダが
少しずつ閉じていく段階になるそうです。

 そして、朝晩の冷たくなった空気に気づかず、うたた寝をしたり、
習慣になったエアコンをつけっぱなしの生活をしたり、冷たいものを欲するがまま食べていると、
あるとき、ふと、カラダの冷えに気がつくことがあります。

 カラダの冷えを感じたときは、「みぞおち」の辺りが硬くなって、
消化器の働きが悪くなっていることもあるそうです。

 そんなときは、うつ伏せになって、肩甲骨の少し下の辺りと骨盤の真ん中辺りを
あまり力は入れずに、上下に引っぱり合ってもらうと良いようです。

 また、くねくねしたり、大きく横に曲げたりと
左右にカラダを柔軟に動かすことができるかどうかも消化器の働きにとって大切なようです。

 左右にカラダを動かしにくいと、連動して、
首の頸椎の4番や胸椎の4番、腰椎の2番なども動かしにくくなっているようです。

 カラダは冬支度に向けてしまる方向へいくけれど、
カラダ自体のしなやかさ、やわらかさを失わずに過ごすことが、
この季節では大切なことのようです。

 私は、こういうことを片山洋次郎さんの本や野村奈央さんの本、
その他、様々な整体や操体法の本などから知りました。

 なぜか、20代の頃からそういう本に惹かれて読んでいたのですが、
実践し出したのは、自分が40代になってカラダの不調を季節の変わり目に感じるようになってからです。

 季節の変わり目を少し意識すると、ラクに生活できるように思います。
数分、寝転がって、自分のカラダを味わう時間を作れると良いですね。
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パズル考。

2015-08-28 22:08:30 | 発達応援
 鹿児島は日本の中では南のほうにありますが、
台風以来、朝晩、涼しくなりました。

 窓を開けたまま昼寝をすれば、起きたときに喉が痛いし、
夜も冷たい空気を楽しみつつ、本を読んでいると、
脚が冷たくなっています。

 虫の声も聞こえます。

 天気予報では、明日からしばらく雨が続くといっているので、
秋らしさに拍車がかかるのかなぁ。

 そうはいっても、10月までは汗ばむ鹿児島。
気候の変化に体調が振り回されないようにしたいものですね。

 先日、母と話しをしていて、ふと、思い出したことがありました。
住んでいた場所の記憶からすると、おそらく、幼稚園に入園する前、4,5歳のときのことです。

 私には、1つ違いでよく一緒に遊んでいた同性のいとこがいます。
今でもメールのやり取りをしたり、会えばぺちゃくちゃしゃべっている親しいいとこです。

 そのいとこは、見たものをそのままに描くこともできれば、
自分の空想の世界をぱっと絵にすることもできる、とても絵がうまいいとこでした。

 私はよく、いとこが広告の裏などにさらさらさらさら絵を描くのを
じーっっと見ているのが大好きだったし、
「なんであんなに上手に描けるの!?」と焼きもちを焼いたり、
同じようになりたくて、マネをしたりしていました。

 あるとき、家にあったパズルをしていると、
私には難しくて、ひとりではできないパズルをいとこはいとも簡単に、
ぱぱっと壊して、ぱぱっと作り上げていました。

 祖母は、
「あら、早いね、上手ね。」といとこを褒めて、
母は、
「すごいね、麻由子はいっちょんできんのよ!」(訳:麻由子は全然できないのよ!)と
いうようなことをいっていました。

 実際、私は何をとっかかりにパズルをすればいいのか、チンプンカンプンで、
パズルの1ピースと出来上がりの絵をじーーっと見比べて、
「この辺かな?」と当てずっぽうでやるくらいの知恵しかありませんでした。

 しかし、1歳年上とはいっても、ライバル心がメラメラだったのでしょう。
「あんた、できんのだから!ちゃんと、やり方教えてもらいなさい!」といわれて、
いとこが親切に「角を4つ最初に探して、まっすぐのところが枠だからそこからするんだよ。」と教えてくれましたが
プライドがへし折られて逆切れ気味の私は、しばらくパズルは見たくもなかったのを覚えています。

 では、パズルはしないのかというと、
いとこがするのは、じーっと見ていて、人前では決してしない。
誰もいないところで、ひとりで練習です。

 たぶん、いとこが手がかりにしていた「角」や「まっすぐ」が
パズルのどこを指しているのかもよく飲み込めていなかったと思います。
それでも、だいぶ後になって、どうにかこうにかパズルができるようになったときには、
ドヤ顔で茶の間で披露して、私に甘かった父の絶賛の褒め言葉に鼻をヒクヒクさせていたと思います。

 できないものは、つまらない。
教えてもらっても、その教えてくれていることの意味がわからないからできない。
できるようになりたいから、じーっと見ている。
でも、失敗してとがめられるのは嫌で、手は出さない。
 
 そんな風な子どもでした。

 できるようになりたい気持ちとそのためのステップは人それぞれ。
できた喜びも大事だし、できない悔しさやいら立ちも心を育てるのには必要なこと。

 母のシビアな突っ込みは、泣きたくなることもあったけど、
負けず嫌いの気持ちに着火もしてくれる良い刺激だったのだなぁと、思います。

 そんな話しを母にすると、
「パズル?そんなの持ってたね?」と忘却の川に流れています。

 この母と子の記憶の濃淡もおもしろいなぁ~と思いながら、
その日の電話は終わったのでした。

 ところで、パズルですが、
中学校で支援員をしているときに、昼休みにパズルを子どもたちとしていました。

 私は子どもの頃の体験から、角や枠の直線をとっかかりにしていくのですが、
子どもたちの中には、子どものときの私と同じように1ピースを手に取って、
その絵はどこかな、と出来上がりのイラストと照らし合わせて作る子、
なぜか、真ん中から作りはじめて、放射状に進む子、
手当たり次第、兎に角、つなげる子、様々。

 色々な方法があるのねぇ~と、
今更ながら、感心することでした。

 

 


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5の山。

2015-08-27 21:19:19 | 発達応援
 ヘチオクという野菜をはじめて食べました。
中身はヘチマですが、外側が筋があり正式な名前は「トカドヘチマ」、
要するに、十角ヘチマだそうです。

 ヘチオクという名は、外見がオクラのようなヘチマだわ、ということで付いた名前みたいです。

 どんな見た目!?と思った方、
写真を撮ったのですが、アップロードできないので検索してみてくださいね。

 今日は夏休み最後の算数教室でした。

 今回の算数教室での課題は、パッと見て5かな、という
量の感覚の土台を子どもさんの中に作ることでした。

 一緒に勉強をはじめて、2と3については、
数えなくても感覚としてぱっとつかめていることがわかりました。

 でも4と5については、毎回、毎回、
「1234」、「12345」と数えて確認しなくては認識することが難しいようでした。

 でも、この何度も何度も数えることで、
量としての4や5は、子どもの中に蓄積されていくのでしょう。

 数えたり、ゲームにしたり、手を使ったり、
色々な形で、量としての4や5が頭の中にイメージできるように、
繰り返し、繰り返し、毎日やってきました。

 すると、今日、ぱっと「4」のドットのカードを取り、
確かめるように後から、「1234」と数えていました。
「5」のドットのカードを取る時も同じように、
後から、「12345」と数えていることがありました。

 なーんだ、やっぱり、数えてるじゃん!ではないのです。
これは、大きな変化です。

 今まで、数えてからしか4や5の具体物やドットや積み木カードが取れなかったのに、
まず、見た目で、ぱっと4や5を選んだ瞬間なのです。

 その後、5のカードを取るときに、
わざと間違えて4のカードを渡し、突っ込むという余裕すらありました。

 安曇野プランの算数は、パッと見た感じでは
「えっ?遊んでるじゃない!」と突っ込みたくなるような算数です。

 でも、算数は元々、誰かと仲良く半分にするために数えることだったり、
自分の大好物のお菓子をちょっとでも多いほうを取るための知恵だったり、
そんな遊びや生活が土台になっている教科だと思うのです。

 遊びや生活の土台を算数の場で再現することが、
安曇野プランの算数の入り口になっています。

 ここまで地道に、毎日、同じようなことの繰り返しに取組んだ子どもさんと
「またコレかい!」ときっと心の中で突っ込みを入れたくなったであろう保護者の方の見守りに感謝します。

 これからも算数の山は高低差はあるものの、続いていくことと思います。
歩幅はそれぞれですが、進みさえすれば山は越えていくことができます。
安曇野プランの算数が、転びそうなときの杖となるといいな、と思います。
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