日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

刺激を学習にするには。

2015-08-08 17:26:51 | 発達応援
 猫の脱水、熱中症を心配する日々です。

 猫もエアコンの効いた部屋が好きで、
そこから出てこない完全家猫化した猫から、
玄関のひんやりしたタイルとドアのすきま風で涼をとる猫、
もわっとした場所で、行き倒れたようになっている猫と3猫3様です。

 猫共々、廊下で涼をとり、行き倒れ気味の私は、
猫の熱中症ではなく、自分の熱中症の心配をするべきかも、と
反省したりする日々の暑さです。

 子どもにとって、見たこともないもの、行ったことのない場所というのは、
大変刺激的で、印象深い何かを子どもの中に落とすことと思います。

 子どもの中に印象深い何かを残すことが、子どもの経験となり、
思考の糧となり、血肉となり、人生の選択肢に影響を与えるかもしれない…。
そんな思いから、私たち大人は子どもに様々な経験を!と、
この長い夏休みの期間に、色々な行事やイベントを企てたりするのでしょう。

 そんなことを考えていたら、ふと、フォイヤーシュタイン教授の本、
『「このままでいい」なんていわないで!』のある章に書かれていたことを思い出し、
再び、本を引っぱり出して、確認することでした。

 その章では、博物館で展示物から展示物へと走り回り、
手を触れたり、引っぱったり、眺めては、また次の展示物へと走っていく
子どものことが書かれてありました。

 その子にとって、展示物での現象が「なぜ起こるのかということを理解する」よりも、
「目の前で何かが起こることに心を奪われている」状態で、
目に見えること、体験することが子どもの刺激になっている、という解説がありました。

 刺激を子どもの血肉の通う糧とするためには、
媒介する者が刺激となった体験と子どもの間で、
体験を子どもの過去の経験と関連づける手伝いをしたり、
子どもに体験を社会的な意義があるものに導いたりする必要がある、
そのようなことが書かれていました。

 一つの体験を学習の源泉とするために必要な要素は、
人が現在の体験を個別にラベリングし、比較し、まとめ、分類して、
過去の自分の経験と照らしながら意味付けを行うことである。


 最初は手伝ってもらいながら、やがては自分の力でできるように、
周りの大人は子どもと学習の、子どもと社会の媒介者になれるように努めなくては!と思うことでした。

 上手に手を離せるようになるかどうかは、
子どもの周りの媒介する人々にかかっていますからね。

コメント
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