日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

切り取り注意。

2021-05-29 10:47:00 | 日記
昨日、友人からおしゃれな羊羹が届きました。(トップ写真)

他都市、県の「緊急事態宣言」に引っ張られ、積込みの仕事では去年の同時期並みに物量が増えつつあります。

そんな仕事から帰り、桜を病院に連れて行き、洗濯機を回している間が私の楽しいお茶の時間です。お茶の素敵な相棒たちをありがとうございます。

さて、今朝、地元の新聞を開いたらこんな記事。




多くの方がご存知と思いますが、大阪で2月に小学5年生の男の子がマスクしての持久走後、亡くなったというニュースを受けてのことです。


どうして2月のことが今?という疑問もありますが、今から暑くなり、子どものマスクは益々危険を伴う時期。

このお子さんのような不幸が繰り返されないことを願わずにはいられません。

それで地元の新聞でも「男子死亡受け周知」として写真で貼った記事を載せた訳ですが、私が「ああぁっ?」と引っかかったのは最後の一文です。

萩生田氏は「感染状況を踏まえて運動の内容を工夫するよう周知したい」と述べた。

周知したいことはそこですか?

キモは「体育の授業でマスクの必要はない」、ということではないのでしょうかね。

この新聞の最後の一文を読むと、まるで「マスクしていても支障のない体育の授業内容にしたほうがいい」と言っているように感じるのは私だけでしょうか?

今の子どもたちは、コロナ以前の生活でも日常で体を動かすことが減ってきていました。

体育の授業は、唯一、色々と体を動かす機会だったという子もいたと思います。

それほどに、今は体を動かしたくない子は動かさなくていい時代です。

だからこそ、嫌な子もいるでしょうがちょっと長く走ることやドッジボールでボールを取ったりかわすこと、鬼ごっこでスピードの緩急とどこに逃げるかの空間把握などなど、体育の授業は持久力を養ったり体のバランスを育てたりと大事な時間だと思うのです。

地元の地方新聞は取っている意味があるのかな、と思うほど全国紙の焼き直しのような記事ばかり。

独自に取材して鹿児島でコロナ大騒ぎする必要があるのかなんて検証はありません。

コロナの世の中で全国的にも珍しい、人との交流に一切制限を設けていない、職員も利用者もノーマスクの高齢者施設が地元にあります。

コロナ感染者もクラスタも発生していないそういう高齢者施設の取材でもなさったらいいのに、と思います。

私自身、コロナ大騒ぎしすぎと思っていてテレビも見ないので情報切り取ってるのでしょう。

テレビだけ、新聞だけ、ではなく面倒でもそれらの情報の大元の情報にあたることの大切さをこのコロナ騒動で思うことです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子どもは小道具じゃない。

2021-05-23 10:39:00 | 日記
ツイッターに流れてきたニュースを見ていたら腹が立った。


この記事によれば、オリンピックの観戦を「東京都内の公立小・中・高校などの生徒ら約81万人が観戦する」ということだ。

そして観戦計画について担当者は、「目の前でトップアスリートの活躍が繰り広げられたら、子どもは心の中に人生の糧となるような、かけがえのないレガシーを残せるのではないか。」と宣うている。

子どもたちは日常生活で、「マスクしないとコロナにかかるかもよ」と子どもは重症化しないにも関わらず、窮屈なマスクをさせられている。

しかも、そのマスクは「世の中の流れではマスクしてないといかん雰囲気だから」というアリバイ作りのため。

そのアリバイは、学校でコロナが出たとき「いやぁ、マスクさせてたんですけどね」という学校の校長や先生たちの保身のためのもの。

真に子どもの健康など気遣っていないのだから、学校の先生たちにも呆れ果てる。

そしてそんな大人たちに囲まれて、子どもたちは日々、目には見えない圧力を感じながら生活を送っていると思います。

そんな中、運動会が延期されたり、遠足を中止されたり、給食は黙って食べろなど言われる中で、
81万人もの子どもたちをオリンピックに動員しようとする行政。

子どもはその場に花を添える、経費のかからない扱いやすい小道具くらいにしか考えていないのだろうか。

子どもの心の糧になるような体験は、数時間見るだけのオリンピック観戦よりも、日常の中にあると私は思っています。

もちろん、将来、自分もオリンピックで活躍するようなアスリートになりたい、その現場をリアルで見たい、という子もいるでしょう。

そういうお子さんは観戦したらいいし、純粋に生で見たい子も見たら良いでしょう。

でも、81万人もの子どもを電車移動させ、オリンピックを観戦させると言うならば、学校の行事も普通にやって良いのではないでしょうか?

さらに言うならば、感染リスクの低い子どもたちの日常のマスクもやめたらどうでしょうか?

また、緊急事態宣言の元、公園の遊具などを使えなくするような愚行も即やめてほしいですね。

今、やることはオリンピックの子どもの観戦ありきでの事前の下見ではではなく、子どもへのリスクはどうなのか、という冷静な判断ではないでしょうか。

オリンピック観戦ができるなら、子どもたちにはコロナ以前の日常を送らせていいですよね、と切り込む学校現場の声があがらないのも不甲斐ないですね。

長崎大学病院の森内教授は一貫して子どものマスク着用の危険性にも言及されていらっしゃる。


この中で「お年寄りへの感染を防ぐために子どもにマスクをずっと着けさせるなど、我慢を強いている面がある。」とおっしゃっている。

今の子どもへのマスクは本当にその側面が大きい。

でも、これから体も心も認知面も発達させていこうとする子どもたちに、日本全体で強いることだろうか?

上記の記事で森内氏は「成長発達の過程にある子どもが、友達との触れ合いの機会が減り、マスクを着けた状態でしか友達や先生の顔を見られないと、表情から感情を理解できない大人に成長する恐れもある。子どもを犠牲にしていることを頭に置き、どこまで我慢を強いるべきかを考えたい。」とも述べておられる。

もう、子どもを犠牲にするのはやめましょう!

これがおかしいと思う大人が少数派だとすれば、今後、日本はずっと少子化で、国自体消滅しても仕方ないよね、と個人的には思います。

そして、今のような子どもを小道具に使って平気な大人が大半ならば、この小道具に使われた子どもたちが社会を動かす側になったとき、かつて自分たちを道具のように扱ったジジババたちをいらない道具のように切り捨てても文句は言えませんね。

本当に、まともな舵取りができる人はいないんか⁉︎と腹が立った日曜の朝でした。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鹿児島での栗本さんのコンディショニング講座!

2021-05-22 15:49:00 | お知らせ
今日はブルーテというものを初めて作りました。


と言っても、作り方は私が作るポタージュと一緒。合間の時間で野菜を炒めて煮て、ミキサーで撹拌。あっという間にできました。

おいしいランチのお供。教えていただかなければ知らずにいたでしょう。

とてもおいしいスープでした。

さて、9月18日(土)〜20日(月)に鹿児島と宮崎県日向市で栗本さんのコンディショニング講座を開催します。

鹿児島の日程は18日と19日の午前中になると思います。

講座の詳細は、もう少ししてからブログ内でお知らせします。

個人指導もあります。

個人指導は、鹿児島で継続して個人指導を受けていらっしゃる方を優先します。

そういう方以外で個人指導ご希望の場合は、過去、鹿児島や他の地域で栗本さんの講座を受講されたことがある方ならお受けします。

栗本さんの講座を受けたことがない方で、個人指導をご希望の方はお問い合わせください。

お問い合わせ先

annon.okiraku ★gmail.com
(★を@に変えてください)

取り急ぎ、秋の行事が不明なまだ梅雨入りしたばかりの当地ですが、スケジュールの予定にメモをしておいていただけると嬉しいです。

どうぞよろしくお願い致します。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安曇野プランの算数モニターさん募集。

2021-05-15 21:23:00 | 算数
新年度に入って一ヶ月が経ちました。新しい環境に慣れてきて落ち着いたり、疲れが出てなんとなく、そわそわぼんやりしたくなったりする時期ですね。

その上梅雨!早過ぎる‼︎

さて、そんな中、安曇野プランの算数を一緒にやってくれる、算数が不安な方を若干名募集します。

「算数が不安なお子さん」ではなく、「算数が不安な方」としたのは、もう、とっくに算数は卒業した方や学校の勉強も卒業しているけれど数がよくわからない、という昔、お子さんだった方でも良いです、という意図からです。

支援クラスや支援学校で算数の授業はあるものの、数字を書くことで終わっていたり、何年もそれが続いている、というお話も聞くことがあります。

また、お勉強では様々な計算ができているのに現実の生活の中で「あっちとこっちで全部でいくついる?」とか「あるだけの数を同じ数に分けて」とか「コップ、数が足りてる?」と言われてもわからない、ということがあります。

学校に入学したときにまだ算数に興味を持たなかった、もっと正確に言うと自分の生活の中で「数(かず)」というものの存在に気がついていないお子さんに対して、学校では「数字を書く」というやっていることが目に見えることをすることで、どうにかその時間を凌ごうとしがちです。

その後、そのお子さんが数に気が付き、色々な認知力もついてきたことに気がついてくれたらそこから算数を始めたら良いのですが、ずっとそのままで小学校卒業して、中学校で「え!足し算引き算は…?」となったお子さんと学校で出会ったこともありました。

できることを学ばずに来て、もちろん中学校でも算数はやり直しができますが、3年間しかないのです。

そして、「計算ができない」「数がわからない」と色々な場面でうつむき、隠しごまかしながら子どもは過ごすことになります。

安曇野プランの算数は、水道方式の算数をベースに更に、個々のお子さんの発達に即して教える側が工夫をする算数です。

数の存在に気がついていないお子さんともできる算数です。

安曇野プランの算数は「お子さんのペース」と「お子さんがやり方に気がつくことを待つこと」が大事な算数で、教え込んだり、同質の問題を大量にするものではありません。

ものをバラバラに見ることができているか、物を抽象化して見ることができているか、数を捉えているかなどなど一つ一つ確認しながら進んでいく算数です。

興味がある方はお問い合わせください。

annon.okiraku ★gmail.com(★を@に変えて)

よろしくお願い致します。















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

介護もビジネス!

2021-05-09 11:06:00 | 本の紹介
私は支援という言葉も嫌いだけど、介護という言葉も嫌いです。

それはどちらの言葉も一方だけが、何かをする、もっと言えば「してあげる」的な意味を感じさせて、なんだか偉そうだからです。

それはともかく、自分がピンときた本を選んで読んでいます。

「脱介護」、高齢者の生活、暮らしをどうしていくか、という方向性を考える材料を求めて本を選んでいます。

そんな中読んだこの本。

発達障害の本だっけ?と思う事しばしば。

介護保険制度ができてから、家族の中で行っていた「介護」が「ビジネス」になった。

子育てが療育になった発達障害界隈と似ていませんか?

この本が出た2014年の頃ならば、要介護5ならば月に35万円程度の介護保険料が国から税金で施設に支給されるそうだ。

一部屋に5人入れておけば175万円、10人いれば350万円で、著者が「そんなボロい商売、他にあるんかな?」と言っている。

そして手のかかる高齢者は大抵、「お薬」でボーっとしているようで、歩いて特養に入所した方が数週間で家族の顔もわからなくなり、車椅子となることも珍しくないそうだ。

読みながら、ああ、だから義母も車椅子なのかな、と合点がいった。

義父と喧嘩しながら、顔も合わせたくない、とデイサービスに行っていたときは、よちよちながら杖を使って歩いていたのに、特養に入ってからは車椅子。

リハビリしないと!と見舞いに行っていた叔父は言ってた。

でも、そもそも施設の方は、積極的に歩いて欲しいなんて思っているかどうか、なのかもしれない。

日本の福祉というのは、福祉事業所にその福祉を利用する人たちが金づるとなって「祉い(さいわい)」をもたらしてくれるという、なんとも皮肉なものになっているのだなぁ、と本を読みながら暗澹とした気持ちと共に腹が立つ事でした。

人をお金にしか見えないような医療や福祉には退場願いたいものですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする