超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

災厄の歴史をどう考えるか

2019-11-06 04:50:17 | 無題
昨日書いたことの大意はこのようなことだ。
原古社会は神話的な祖型を繰り返し生きる。
この祖型に外れるような、例外的な災難を受け止めるのが
苦手である。聖なる時を定期的に経験するのは長けているが、
歴史的に降りかかってくる災難を意味づけるのが難しい。
そこで災厄の原因を神の怒りや知人の悪意、儀礼の過ちに
見て、天の神などに容赦してもらえるように祈願する。
原古社会の時間は周期的、円環的であり、一回性の歴史的な事件への
耐性がない。
日本で言えば、加持祈祷で乗り切ろうとする鎮護国家のような対処法。

俗的な歴史への対処法に行き詰る。聖なる時こそ本来的な時間で、
俗的な歴史の出来事に抵抗して生きるのが原古社会である。

ユダヤ・キリスト教では、歴史的な不幸はやがて来る救済のために
必要なこととして耐え忍ばれる。それでも救済のあと歴史は解消される
と考えるため、これも一種の反歴史的な態度と言える。

私たちの社会は、このヨーロッパの学問からみて
どうなのか、私には答えがない。
だから、災厄に対して宗教人がどう意味づけてきたかと考えてみても、
人の身に立って納得の行く答えは、正直わからない。
私にとって、スピノザの言うように、すべては神・自然の必然であり、
出来事を必然と受け止めることで、神仏に怒ることもなく、
人の仕打ちに怒ることなく、永遠の相のもとで運命を生きるのが
精一杯という考えがいちばん腑に落ちると言えるだけだ。
大きな問題を、頭で片付けるのは、一種の罪である。

コメント
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