美術館巡りと古都散策、Jazz & Bossa など・・

スタンダードやボサ・ノバなどを歌って録音したり、美しい景色などを撮影して動画を作っています。美術展にもよく行きます。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック (象徴主義)

2014-04-14 | 絵画

ロートレックの絵画を楽しめる動画を作成しました。

BGMは、エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグの

組曲『ペール・ギュント』より『朝』です。

 

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック (Henri de Toulouse-Lautrec)

は、19世紀末のフランスを代表する象徴主義の画家。人物の内面や

社会的内情を見出す観察力にすぐれ、それを独特の感覚で退廃的

空気に覆われたモンマルトルなどパリの歓楽街で生活する人々を

見事に描いています。

 

        

 

                

 

サーカスやムーラン・ルージュなどのダンスホール、カフェ、ダンサー

などを描いた作品が有名ですが、肖像画や裸婦作品でもロートレックの

すぐれた個性が発揮されています。また多色刷り石版画制作の技術の

進歩により、大量生産が可能となったポスターの原画を数多く手がけ、

大衆的・実用性の高い作品の芸術性の発展・社会的地位の向上に

多大な貢献をしました。

 

       

 

 

 

当時、最も新しい絵画様式であった印象派の画家、特にエドガー・ドガの

斬新な構図、都会的な光の表現、明確な線描に大きな影響を受けながら

自身の様式を確立するほか、『ムーラン・ルージュのラ・グーリュ』や

『ディヴァン・ジャポネ』、『ジャルダン・ド・パリのジャンヌ・アヴリル』

などロートレックが手がけた石版多色刷りポスターは数多くあります。

又、ロートレックの絵画には、日本の浮世絵の影響を強く感じます。 

 

           

 

               【ロートレックの経歴】

1864年、フランス南西の都市アルビで伯爵家の子供として生を受ける。

(父、母共にフランスでも有数の貴族であった) 

幼少期から学習帳などにスケッチや風刺漫画を描くものの、1878年に

左足大腿骨を、翌1879年には右足大腿骨を骨折し、この大怪我が原因で

足の成長が止まる。この間、復調するまで療養の暇を紛らわす為に精力的

に素描や油彩画を制作する。

 

1881年、画家になることを決意。また同年、パリで大学入学資格試験を

受験するが失敗、4ヵ月後再びトゥールーズで大学入学資格試験を受験し

合格する。

 

1882年、モンマルトルのアカデミー画家レオン・ボナのアトリエに入門

するも、同氏のエコール・デ・ボザール(国立美術学校)の教授就任に

よりアトリエが閉鎖、同地のサロン画家フェルナン・コルモンのアトリエ

に移る。

 

1884年、コルモンのアトリエで若きエミール・ベルナールと出会う。

 

1886年、同アトリエへ入ってきたフィンセント・ファン・ゴッホと知り合い

親交を結ぶが、ロートレック自身は翌1887年にコルモンのアトリエを去る。

その後、「二十人会展」や「アンデパンダン展」、「印象派と象徴派の画家たち展」

などに作品を出品するほか、1891年に初の石版画『ムーラン・ルージュの

ラ・グーリュ』を印刷。以後、夜の世界を謳歌する人々や、そこで働く女性達

を描いた作品を中心に絵画・素描・ポスターを制作するが、1899年、重度の

依存症となっていたアルコール中毒の発作を起こして3ヵ月間入院。退院後も

飲酒を止められず1901年には片足が麻痺、さらに同年脳出血を起こしてマルロメ

で死去。

 

なお、ロートレックの作品に表れる夜の世界を生きる踊り子などへの共感や愛情は、

ロートレック自身が身体的障害によって差別を受けていると思っていたことや、劣等感

を持っていたことが大きな要因となっている。

(但し、ロートレックは周囲から「小さな怪物」「偉大なる芸術家」などと呼ばれ尊敬されていた)

 

         


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