美術館巡りと古都散策、Jazz & Bossa など・・

スタンダードやボサ・ノバなどを歌って録音したり、美しい景色などを撮影して動画を作っています。美術展にもよく行きます。

小磯良平画伯

2016-01-30 | 絵画

神戸市出身の小磯良平画伯は、日本の近代洋画界を代表する画家です。

小磯良平画伯の絵画『斉唱』(兵庫県立美術館に常設されています)

などの実物を観覧した事や神戸市立小磯記念美術館内に再現された

小磯画伯のアトリエを見学した時の感動が忘れられず、小磯良平画伯

の事を調べ記録しておくために日記にしました。


【小磯良平画伯の経歴】

明治36年7月25日、神戸市に生まれる。

当時の神戸は、外国貿易の窓口となり外国人居留地を中心に発展しており、

小磯画伯は洋館が立ち並ぶ街で自然に「西洋的な空気」を吸って幼年期を

送りました。

クリスチャンの家庭で育ち、鉛筆と紙を与えておけば黙々と絵を描いて

飽きることがなかったと言われています。

兵庫県立第二神戸中学校(現 兵庫高校)に進学し、生涯の親友となった

竹中郁氏(のちに神戸を代表するモダニスト詩人)と出会い、竹中氏の影響も

あり小磯画伯の心の眼は、ヨーロッパに向けて開かれました。

大正10年、倉敷へ一緒に出かけ大原コレクションを公開した「現代フランス

名画家作品展覧会」に感動を覚え、画家への志しを強めます。

大正11年、東京美術学校(現東京芸術大学)の西洋画科に入学し、大正14年の

第6回帝国美術院展覧会(帝展)に出品した『兄妹』で初入選し、翌年には

『T嬢の像』が特選に輝きます。

『T嬢の像』

当時、美術学校では出品を禁じていましたが

23歳の画学生が描いたとは思えない完成度の高さを誇るこの作品で画壇に

鮮烈なデビューを果たしました。

昭和2年、規定課題の『自画像』と竹中郁氏をモデルにした『彼の休息』の

2作品で98点という最高得点をとり首席で卒業。

『自画像』

『彼の休息』

卒業の翌年、小磯画伯はフランス留学に出発し、竹中氏とともに2年間

ヨーロッパを遊学しました。

美術館をめぐり、アングル、コロー、クールベ、マネ、ドガなどの巨匠達の

作品を鑑賞することに熱心でした。

ルーブル美術館のパオロ・ヴェロネーゼの『カナの婚礼』に衝撃を受け、

群像表現を極めることを生涯のテーマと決めました。

『カナの婚礼』

留学中には劇場で踊り子たちの舞う姿を楽しみクラシック音楽に耳を傾けた

ようです。

昭和13年から1年間、陸軍省嘱託の身分で従軍画家として中国に渡り、

帰国後戦争画を製作。昭和16年に群像画の傑作『娘子関を征く』と『斉唱』

を相次いで発表。

『娘子関を征く』

『斉唱』

小磯画伯は群像を書くため精力的に戦争画に取り組みましたが、戦後は

画集に収録しませんでした。

戦意高揚のために戦争画を書いてしまったことに心が痛むと晩年に語って

います。

戦後も優れた素描力を十分に生かしながら、「欧州絵画の古典的な技法を

日本の洋画に根付かせる」ための研究を根気強く続け、独自の画境を開く

ことになります。

東京芸術大学教授を務めて後進の指導にあたり、定年退官後も迎賓館(赤坂)

大広間の壁画『絵画』『音楽』を制作するなど長きにわたり日本の洋画界に

大きく貢献しました。

平成4年に創設された「小磯良平大賞展」は国内最高賞金の公募展として

知られています。

平成4年11月に神戸市立小磯記念美術館が、緑豊かな六甲アイランド公園内

に開館されました。

『神戸市立小磯記念美術館』 

『小磯記念美術館内に移築された小磯画伯のアトリエ』



小磯画伯は親しみやすい女性像を中心としながら、西洋絵画の伝統の中に、

市民的でモダンな感覚と気品あふれる画風を完成した画家でした。

※小磯画伯の作品を鑑賞できる動画を作成しています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

♪ Answer Me, My Love を録音

2016-01-11 | Standards

ナット・キング・コールの名唱で有名な「Answer Me, My Love」を

歌って録音し、You Tube にアップしました。

失恋ソングなのでリアルに近い画像は、悲しくなると思い、この曲の

壮大なアレンジに似合うアメリカのグランドキャニオンを撮影した

映像を使いました。


この曲について少し。

この曲のオリジナルは、クラシック曲の作曲家で

ドイツ人のゲルハルト・ヴィンクラー (Gerhard Winkler) と

フレッド・ローチ (Fred Rauch) が作詞作曲した「Mutterlein」と

云う曲で、英語では、Answer me, Lord above というタイトルで

宗教的な詞がつけられていたそうです。

それをアメリカ人の作詞家カール・シグマン (Carl Sigman) が

1952年に失恋の歌詞をつけ、1953年にフランキー・レインが歌い、

同年にナット・キング・コールがネルソン・リドルのアレンジで

録音したレコードが翌年にリリースされ大ヒットしました。

ビング・クロスビーなどたくさんの歌手もレコードをリリースしています。

日本でも、ペギー葉山とフランク永井がレコーディングしてLPアルバムに

収録しています。

イギリスでは、1976年にバーバラ・ディクソン(イギリスで最も多くの

楽曲をレコーディングした女性ボーカリストと言われています)が

リバイバルヒットさせました。

ボブ・ディランやジョニ・ミッチェルも録音して、レコードをリリースし

コンサートで歌っていたのは、記憶に新しいところです。

キース・ジャレットなどのジャズミュージッシャンも演奏しており

現在もなお愛されている名曲です。

では、ナット・キング・コールの名唱を。
(ナット・コールのレアな画像がスライドされているのを選びました)


次は、バーバラ・ディクソンを。


そして、ジョニ・ミッチェルも。



<歌詞>

Answer me, oh, my love
Just what sin have I been guilty of?
Tell me how I came to lose your love
Please answer me, sweetheart

You were mine yesterday
I believed that love was here to stay
Won't you tell me where I've gone astray?
Please answer me, my love

If you're happier without me
I'll try not to care
But if you still think about me
Please listen to my prayer

You must know I've been true
Won't you say that we can start anew?
In my sorrow now I turn to you
Please answer me, my love

(If you're happier without me)
(I'll try not to care)
But if you still think about me
Please listen to my prayer

You must know (you must know)
I've been true (I've been true)
Won't you say that we can start anew?
In my sorrow now I turn to you
Please answer me, my love
Answer me, my love

<和訳>・・・かなりの意訳になりました。

答えてほしい 僕のいとおしい人
いったい 僕がどんなあやまちをしたというの
どうして 君の愛を失いかけたのか教えてほしい
どうか 答えて 僕の愛する人

今まで 君は恋人だった
愛があると信じていたのに
僕の何がいけなかったの
お願い 答えてほしい 僕のいとおしい人

僕がいない方が幸せなら
僕は君のことを忘れるように努力するよ
でも、君がまだ僕の事を考えてくれるなら
どうか、僕の願いを聞いてほしい

僕が君の事を本当に好きだったことを知っているはず
又やりなおそうと言ってくれないか
今 すごく悲しいから そうしてくれたら君の方に振りむくよ
どうか 答えて 僕の愛する人

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナタリー・コールの訃報

2016-01-06 | Jazz Vocal

ナット・キング・コールの娘としても知られるナタリー・コールが

昨年の12月31日に65歳で亡くなられた。

私にとっては、最も好きな歌手で2011年の来日公演を聴きに

行っていますし、早すぎる逝去だったので、とても悲しかったです。

        

では、ナタリー・コールの経歴を振り返りたいと思います。

ナット・キング・コールと、デューク・エリントンの楽団歌手だった

マリア・コールのあいだに生まれ、幼い時から音楽家たちに囲まれて

育った影響もあって、11歳から本格的に歌うようになった。

「ナット・キング・コールの娘」ということでジャズの道を進む

ことが期待されましたが、アレサ・フランクリンやジャニス・

ジョプリンの影響を受け、R&Bやロックに傾倒するようになり、

1975年に『Inseparable』でR&Bシンガーとしてアルバム・デビュー。

デビューアルバムの中の1曲「This Will Be」がヒットし、26歳の

時にグラミー賞の最優秀新人賞などを受賞し「ニュー・アレサ」など

と呼ばれるなどその実力が認められるようになった。


翌1976年にはセカンド・アルバム『Natalie』に収められたディスコ・

タッチの「Mr. Melody」が東京音楽祭でグランプリを受賞。さらに

1977年のサード・アルバム『Unpredictable』からカットされた

ブルージーなバラード・ナンバー「I've Got Love On My Mind」は、

ビルボード・シングル・チャートで5位に輝いた。その後も『Thankful』

(1977年)、『I Love You So』(1979年)とヒット・アルバムを連発する。

しかし、80年代に入るとドラッグに手を出すようになり、かつての勢いを

失っていった。

再び脚光を浴びたのは、1987年に発表したアルバム『Everlasting』に

収録されたブルース・スプリングスティーンのカヴァー「Pink Cadillac」が、

じわじわとチャートに上りスマッシュ・ヒットした事。


このヒットによりアルバム自体もビルボードのR&Bチャートで8位まで上昇。

さらに1989年のアルバム『Good To Be Back』からカットされた

「Miss You Like Crazy」も全米で7位、UKでも2位という大ヒットを記録。

そして極めつけは、これまでコンサート等でも父ナット・キング・コールの

曲のカバーを要求されても断ってきたナタリーが、1991年にリリースした

アルバム『Unforgettable:With Love』。

亡き父親に捧げた本作では、プロデュースにトミー・リピューマやデヴィッド・

フォスターを迎え、アレンジャーにミシェル・ルグラン、ジョニー・マンデル、

マーティ・ペイチといったベテランたちが大集結。

素晴らしいジャズ・ヴォーカル・アルバムに仕上がっており、グラミー賞で

最優秀レコード賞と最優秀トラディショナル・ポップ・パフォーマンス賞、

そしてアルバムは最優秀アルバム賞を獲得し、全米だけで700万枚以上を

売り上げる自身最大のヒット作となりました。

大きな話題を呼んだデュエット曲「Unforgettable」は、父親が40年前に

録音した音源に、レコーディング技術を駆使して斬新なデュエット曲に

蘇らせています。


その後の2006年にはダラス・オースティンをプロデューサーに迎え、

久々にR&B~ソウル色を打ち出した『Leavin’』を発表したほか、

2011年にはトニー・ベネットのグラミー授賞作『Duets II』に参加。


2013年には全曲スペイン語で歌ったラテン・ポップ作品

『Natalie Cole En Espanol』をリリースするといった意欲的な姿勢を

見せていました。


自叙伝の中で過去にドラッグを使用していたことを認めている

ナタリー・コールは、2008年7月にC型肝炎であること、また

腎臓の病気も患っていることを発表し、2009年には腎移植手術を

受けていた。こうした健康事情から、2008年頃からは病気等を理由に

ツアーや公演をキャンセルすることが度々あり、2008年6月の来日公演

では車椅子でステージに上がるなど以前から体調が心配されました。

その後ふたたび元気な姿をステージで披露していたが、2015年10月には

また体調が悪化し、11月と12月に予定していた公演を全てキャンセル。

現地時間で2015年12月31日の夜、ロサンジェルスの病院にて

「長年の健康問題による様々な要因が重なった結果」亡くなったと、

遺族が発表しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする