美術館巡りと古都散策、Jazz & Bossa など・・

スタンダードやボサ・ノバなどを歌って録音したり、美しい景色などを撮影して動画を作っています。美術展にもよく行きます。

シリア内戦で犠牲になっている子供達

2014-01-26 | 子供

                 ※2013年12月以前の記事は、http://blog.goo.ne.jp/mgmjoni にあります。

3年近く続いているシリアの内戦で、1万1000人を超える子供達が

死亡していると、研究機関の調べで判明しています。

昨年6月には6500人以上と発表されていましたが、ここ半年で急増しています。

紛争に関係のない子供達が巻き込まれてしまう悲惨な現状…悲しすぎます。

    

犠牲者を多く出した化学兵器の全廃計画は進んでいる一方、子供達への

危機は深刻になっています。

 

You Tube にたくさんのシリア内戦の動画がありますが、化学兵器を

使用され亡くなった子供達を写しているものなど、あまりにもむごすぎる

映像が多くありアドレスを張り付けるのをやめました。

 

・子供を狙い、巻き込み、利用している。

至近距離から子供を銃殺したり、狙撃などで子供を意図的に狙ったと

見られる事例が多い。

これら、意図的に子供を狙ったとみられるケースは1000人を超え、112人

の子供が殺される前に拷問を受けていたと発表されています。

なんと、8歳の少年に銃を渡し、戦闘に使っていた。

反体制派の武装戦闘員らによって15~17歳の少年らが戦闘に参加させられる

ケースも増えている。

国連の報告によれば、幼い少年少女が人間の盾や自爆テロに利用されている

事もあるという。

 

・「教育」は跡形もなく吹き飛んでいる

3000以上の学校が内戦の影響で破壊されるなどし、約900の学校は、避難を

余儀なくされた人々のための仮住居に使われている。

学校とスクールバスを標的とした迫撃砲による攻撃も発生している。

小中学生ら学齢期の子供全体の約40%に当たる200万人近くは教育を受け

られない状況に陥っている。

目の前で肉親を失う子供も多い。

トルコの大学による調査では、面談したシリアの子供4人に1人は、戦闘の影響で

肉親などを失っていることが判明。

シリアの多くの子供達が、家族の死傷を目にしていると国連は報告している。

 

                ※銃弾を避けながら食料を運ぶ少年達

    

 

・終わらない内戦

昨年10月30日までの集計によると、死者は12万296人で、このうち一般市民は

約4万3千人に上ると伝えられているが、シリア政府、そして、反体制派ともに兵士

の死者数は公にしておらず、実数はそれぞれ倍以上になると推定されています。

 

・人口約2250万人のうち210万人は国外へ逃れている状況

故郷を追われ難民となったシリアの子供達の数が、100万人を超えてしまいました。

 

   

   

   

 

・ジャーナリストを狙う兵士

日本人ジャーナリストの山本美香さんも銃撃され亡くなっています。

   

 

泥沼化しているシリアの内線は、かなり複雑で、発端は、2011年のチュニジア革命の

影響によってアラブ世界各地で起きたいわゆる「アラブの春」の騒乱が飛び火したものですが、

2011年1月26日より続いているシリア内線は、シリア反政府勢力とアサド大統領のシリア

政府軍との武力衝突だけではなく、実際にはシリア国外からの勢力も戦闘に加わっています。

しかも、反政権派勢力間でも互いに戦闘しており、ジハード主義勢力のヌスラ戦線とシリア北部

のクルド人勢力の間での衝突も起こっています。

反体制派と国際テロ組織アルカイダ系イスラム武装組織との戦闘で、約1400人が死亡して

いると発表もされています。

シリアはトルコやアラブ・イスラム世界の中で敵対関係にあるイスラエルなどと国境を接して

いるという事情もあり、かなり複雑です。

 

やっと、今月の25日、アサド政権と反体制派「国民連合」の代表がジュネーブの国連欧州

本部で協議しました。

中部ホムスで人道支援を行うための部分停戦実現に向け意見交換しています。

仲介者のブラヒミ国連・アラブ連盟共同特別代表が記者会見で明らかにしました。

両者はこの日、同じ部屋で向き合い、それぞれがブラヒミ氏に話す形で協議。戦闘で

深刻な被害が出ているホムスの一部地区に物資を運ぶ「人道回廊」を設置するため

の議論を行いました。

この協議で合意が成立したら、国際援助団体の協力を得て、直ちに食料・医薬品が

現地に搬入される計画との事ですが、早く内戦が終わるように祈るばかりです。

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藤田嗣治画伯 (Leonard Tsugouharu Foujita)

2014-01-18 | 絵画

                         ※2013年12月以前の記事は、http://blog.goo.ne.jp/mgmjoni にあります。

今朝、NHK教育テレビの番組「日曜美術館」で日本人画家、藤田嗣治の特集をしていました。 

私は、2006年7月に京都国立近代美術館で開催された藤田嗣治生誕120年記念の展覧会を

観覧し、その個性的な作風に感動した事があります。

戦後長らく、日本では、正しく評価されていなかった藤田画伯について、調べました。

 

            

 

藤田嗣治(レオナール・フジタ、1886-1968)は、東京美術学校を卒業後、フランスに渡り、

モディリアニらとともにエコール・ド・パリの代表的画家として活躍した。

とりわけ、裸婦に代表される「乳白色の肌」の優美な美しさは、多くの人々の心をとらえた。

その後中南米を旅行して日本に帰国し、二科展で活躍するとともに、第二次世界大戦中は

従軍画家として戦争画も命令され描いている。

戦争が終わるとフランスに戻り、フランス国籍を得て、さらにキリスト教の洗礼を受けて

レオナール・フジタ(レオナルド・ダ・ヴィンチの名をとった)となった。

あえてニ国籍を残さずフランスのみとし、再び日本の土を踏むことはなかった。

 

※藤田嗣治画伯(以下、「藤田」と書きます)が残した言葉

私の体は日本で成長し、私の絵はフランスで成長した。

私はフランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。

私は世界に日本人として生きたいと願う。それはまた、世界人

として日本に生きることにもなるだろうと思う。

 

1886年:東京に生まれる。父親は、陸軍軍医。早くに母親を失くす。

1910年:東京美術学校西洋画科を卒業

当時の師であった印象派の流れをくむ『紫派』の黒田清輝には、藤田の暗く

クラシックな趣の画風はまったく評価されなかった。藤田自身もいわゆる印象派

や光にあふれた写実主義がもてはやされた、表面的な技法ばかりの授業に失望していた。

1913年:フランスに渡り、ピカソ、モディリアニ、スーチンらと知り合う。

1917年:パリのシェロン画廊で初めての個展を開催する。

1919年:サロン・ドートンヌに初入選し、会員に推挙される。

その後、サロンに出品を続ける一方、パリのほかブリュッセル、アントワープ等で個展を開催する。

1931-33年:パリを離れ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリビアを訪ね、メキシコを経由して

アメリカに入る。

1933年:日本に帰国。

1934年:二科会会員となる。戦時中は従軍画家として活躍。

1949年:ニューヨークのブルックリン美術館付属美術館の教授として招かれる。

1950年:パリに移住。

1955年:フランス国籍を取得。

1959年:カトリックの洗礼を受ける。

1966年:洗礼親ルネ・ラルーの依頼に応じ、ランスのノートル・ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の

設計とステンド・グラス,フレスコ壁画を制作。ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂はフジタ礼拝堂

(CHAPELLE FUJITA )と呼ばれている。

1968年:チューリッヒの州立病院で死去、81歳。 

 

藤田の独特の風貌、東洋のエキゾシズムを湛えた繊細な作品は、パリで実に高い評価を得た。

トレードマークのロイド眼鏡とおかっぱ頭は、散髪するお金もなく自分で切り揃えていた時代の

努力を忘れぬようにと、成功してからのちもずっと変えることはなかった。

(ただし戦争画を描いた時期には剃髪をしている)

藤田は、数々の奇行が知られているが、実際には酒がまったく飲めず、必ず絵を描いてから出かける

ように徹底していた。その切り替えが可能だったのは、絵のためならどんな努力も惜しまぬという強く

純粋な意志と、筆の早さという業を持っていたからにほかならない。

数々の勲章を受章し画家としての成功が揺ぎ無いものになった1929年、17年ぶりに帰国。

結婚を繰り返すことで派手に思われた女性関係と、目立つ奇異なパフォーマンスは、嫉妬混じりに

日本美術界での評判をよろしくないものにしていた。「国辱」とも言われた自身への評価を、作品を

通して覆したいという思いがあったであろう。展覧会での評判は上々だった。しかし美術界の反応は

思った以上に冷淡なままで、嗣治をあらためて落胆させた。

 

※エコール・ド・パリ時代

藤田がフランスへと渡った1910-20年代、パリのモンパルナスには、各国からの芸術家たちが

ひしめき合っていた。モディリアニやスーチン、パスキン、マン・レイ、すでに有名になっていた

ピカソやマティスなど、多くの異邦人の芸術家たちがパリに集まっていました。

彼らはいつしか「エコール・ド・パリ(パリ派)」という名称で呼ばれるようになった。

藤田はこの時期、これらエコール・ド・パリの画家たちと交流しながら、独自の画風を作り上げて

いった。とりわけ藤田のトレードマークともなった、細く優美な線とやわらかな「乳白色の肌」を持つ

裸婦像は高く評価され、藤田は一躍パリの寵児となった。

 

 

   

                  

                                    

※中南米そして日本

1930年代に入ると、藤田は、それまでの繊細な線描の作品から、より写実的な作品へと移行。

こうした傾向は、パリを離れ、中南米をまわって日本に帰国したあたりからより明らかになった。

色彩は強くなり、また人やものの描写は重量感を増した。こうした表現は、二科会での活動を経て、

戦時中に描いた戦争画で頂点に達したように見える。

 

   

             

       

           

※ふたたびパリへ

終戦と同時に、最も多く戦争画を描いた藤田を日本美術界は、他の画家の保身のため、藤田ひとりに

責任があるかのように振舞った。日本人であることを何よりも誇りに思い、ようやく自らの芸術が戦争画

を通じて祖国に評価されたことを、いちばん喜んでいた藤田だったが、敗戦の日本においてその嬉々と

した態度は誤解を招き、さらに美術価値のある戦争画収集を行おうとするGHQに賛同して協力したこと

もあって、「国賊」「美術界の面汚し」とまで批判されることになった。そして多くを反論することなく、美術界

のすべての戦争責任をひとりで背負うようにして、日本を去り、再びパリに戻った。

「藤田は逃げた」という論調で伝えられるも、実際は日本から追われたようなものだった。あくまで画家は

画業で尽くすことが使命、というスタンスを貫こうとする藤田の純粋な考えは、まだ近代に開かれていない

日本社会において居場所がなかったのであろう。ここまでされて、敬愛する父も他界した今、すでに日本に

拘る意味はなかった。

この時期の作品には、写実的な表現に、復活した藤田特有の線描の美しさが溶け合っているのが見られる。

子どもたちを描いたユーモラスな作品や、カトリック改宗後に数多く描いた宗教画などに、藤田晩年の個性的

な作風を見て取ることができる。

 

  

 

   

   

   

   



日本美術界にとって触れたくない存在となった藤田は、展覧会が開催されることもなく、長く封じられた

ままであった。

「正しく評価しない以上、忘れて欲しい」と作品の日本公開を強く拒み続けていた藤田夫人からの協力が

ようやく得られ、2006年、藤田の展覧会が開催された。

 

~藤田画伯の「乳白色の肌」色の秘密~

藤田画伯は『乳白色の肌』の画法については一切語らなかった。近年、絵画が修復された際にその実態が

明らかにされた。藤田画伯は、硫酸バリウムを下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を1:3の割合で

混ぜた絵具を塗っていた。炭酸カルシウムは油と混ざるとごく薄いベージュ色になる。さらに絵画からはタルク

が検出されており、その正体はシッカロール(ベビーパウダー)だったことが2011年に発表された。

また、穂先が極細い筆である面相筆の中に針を仕込むことにより均一な線を描いていたことも修復により判明した。 

 

           画像では、美しい乳白色と細部の輪郭が消えてしまっていますが、

           実物の乳白色は大変綺麗であり、極細の描線も素晴らしいです。

 

レオナール・フジタの晩年

 

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♪ The Lady Is A Tramp 『気まぐれなレディ』

2014-01-14 | Jazz Vocal

                 ※2013年12月以前の記事は、http://blog.goo.ne.jp/mgmjoni にあります。

 

以前に録音していた曲を昨日、You Tube にアップしました。 

ジャズのスタンダード曲で有名な The Lady Is A Tramp

「ザ・レディ・イズ・ア・トランプ」です。

この曲は、フランク・シナトラのオハコの曲ですね。

歌っているのは、私です。・・聴いてられないなんて言わないように(笑) 

シナトラがこの曲を映画『Pal Joey』(邦題、夜の豹)で歌いました。

その映画に出演していた美人女優、キム・ノバック、リタ・ヘイワース、

そして、レディ・ガガ(最近この曲を録音しています)などの画像もスライドで

楽しめるようにしました。

 

この Tramp (トランプ) はカード・ゲームのトランプではありません。

もっとも、トランプという呼び方は、日本独自のもので英語圏では playing card

( 略してカードcard )と云うのだそうです。 

関係ないお話でした。

 

この曲の 「Tramp」 とは、ヅカヅカ歩くと云う意味から、何も気にせずに生きる

「放浪者」を意味するようになり、「一匹狼」、「アバズレ」、「気まぐれ」などの

意味に使われるようになりました。

良い意味としての捉え方としては、《社会の枠にとらわれず、自由に生きる人間》

という意味もあるようです。

結構、ニュアンスがむつかしいところですが、この曲では、「気まぐれなレディ」と

私なりに解釈しました。

 

※1937年 作詞 ローレンツ・ハート、作曲 リチャード・ロジャース 

ミュージカル『Babes in Arms』(邦題、青春一座)で使われた曲ですが、

この曲を有名にしたのは、1957年の映画『Pal Joey』(邦題、夜の豹)

の中で、シナトラが歌ってヒットしました。

シナトラが軽薄なプレイボーイの歌手 Joey 役。昔、ストリッパーの踊り子だった女性を

リタ・ヘイワースが演じました。

今は大富豪の未亡人におさまり貴婦人ぶっている鼻持ちならないリタ・ヘイワースを

前にして、シナトラは "The Lady Is A Tramp" を唄うのです。

店が閉まってから現れた「気まぐれなレディ」に強烈な皮肉をこめて唄うのです。 

そのシーンの映像があります。

Frank Sinatra - Rita Hayworth - The Lady is a Tramp - Pal Joey (1957)

 

<歌詞> 

She gets too hungry for dinner at eight

She likes the theater and never comes late

She never bothers with people she'd hate

That's why the lady is a tramp

 

Doesn't like crap games with barons or earls

Won't go to Harlem in ermine and pearls

Won't dish the dirt with the rest of the girls

That's why the lady is a tramp

 

She likes the free, fresh wind in her hair

Life without care

She's broke, and it's oak

Hates California, it's cold and it's damp

That's why the lady is a tramp

 

She gets too hungry to wait for dinner at eight

She loves the theater but never comes late

She'd never bother with people she'd hate

That's why the lady is a tramp

 

She'll have no crap games with sharpies and frauds

And she won't go to Harlem in Lincolns or Fords

And she won't dish the dirt with the rest of the broads

That's why the lady is a tramp

 

She loves the free, fresh wind in her hair

Life without care

She's broke, but it's oak

Hates California, it's so cold and so damp

That's why the lady

That's why the lady

That's why the lady is a tramp

 

<和訳> 

~長くなるので、サビのところだけを書きます(手抜きしました)

  

髪をなびかせる爽やかな風が大好き!

気ままな人生 ! 心配事なんていらない !

破産したってオーケー!

カルフォニアは大嫌い 人がいっぱいで湿っぽいから

・・・だから彼女は「気まぐれなレディ」って呼ばれてしまうんだ 

 

では、最後に最高にカッコいい最近の映像を ! 

2011年にレディー・ガガをフィーチャーしてトニー・ベネットが録音しています。

ミュージックビデオも公開されてます。非常に巧いです。

Tony Bennett & Lady Gaga - The Lady is a Tramp

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子供達に教育を 不屈の少女 マララ

2014-01-11 | 子供

    ※2013年12月以前の記事は、http://blog.goo.ne.jp/mgmjoni にあります。

 

現在16歳のマララ・ユサフザイ(以下、「マララさん」と書きます)に深く感銘を                                                 

受けましたので、調べた事を日記にしました。

 

 

 

2009年、イスラム過激派タリバンの勢力下にあるパキスタン北西部の

スワートという町で暮らしていたマララさんは、女性に対する教育を

否定し女の子が学校に行くことを禁じ、学校を爆破したりするタリバン

からの恐怖におびえながら生きる人々の惨状をブログで世界に知らせ

子供や女性への教育の必要性や平和を訴えました。

 

マララさんは、こう述べました。

「イスラム過激派が学校に鍵をかけても、私たちの心には鍵をかけることはできません。

『沈黙している時ではない。今こそ声を挙げる時だ』と思っていました。

私たちの地元で何が起きているのか、世界に伝えたかったのです」と。

教育を受けたいという強い思いから、イスラム過激派に襲われるかもしれないと                                              

いう恐怖を抱えながらも、地元の状況をインターネットを使って発信し続けました。 

 

マララさんの母国パキスタンは、初等教育を受けていない子どもたちの割合が、                                              

ナイジェリアに次いで世界で2番目に高い国なのです。 

 

「圧政や迫害に反対の声をあげましょう。権利を奪おうとする者を恐れないで」 

 

タリバンの脅威に屈せず、マララさんはブログなどで世界に厳しい現実を訴えてきました。                                        

勇気ある行動は世界中で反響を呼び、パキスタンの国民平和賞を受賞するなど、                                             

「タリバンへの抵抗のシンボル」となっていました。 

パキスタン政府はこのブログを書いているのは、マララさんだと表彰し、彼女の本名を                                           

公表したためタリバンから命を狙われる事となりました。 

 

マララさんが世界中の注目を集めるきっかけになったのは、2012年10月、                                                 

通学バスで下校中にタリバンの複数の男に頭を撃たれた事件でした。

子供や女性が平等に教育を受ける権利を訴えている、わずか15歳の少女を

銃撃した事件に国際社会の批判が一気に集まりました。パキスタン国内は

もとより、国連事務総長やアメリカのヒラリー・クリントン国務長官など

世界各国から非難の声が上がりました。女優のアンジェリーナ・ジョリーは

この事件を知り、パキスタン、アフガニスタンの子供達のために5万ドル

(約400万円)を寄付しています。


銃撃されたマララさんは意識不明の重体となりましたが、パキスタンや

イギリスで手術を受け、奇跡的に回復しました。 

このニュースの動画がありました。

イスラム過激派批判の少女銃撃される


マララさんは、2013年3月からはイギリスのバーミンガムの学校に         

通いはじめ、勉強をしながら世界中の子供達が平等に教育を受ける

権利を訴え続けています。

 

2013年7月の16歳の誕生日にニューヨークの国連本部で演説を行い、

「タリバンは銃弾で私たちを黙らせることが出来ると考えましたが、

しかし私は何も変わっていません。むしろ弱さや恐れ、絶望が消え、

強さと勇気が生まれました」 「1人の子ども、1人の教師、1冊の本、

1本のペンで世界を変えることが出来る。教育こそが解決の道です」

と訴えました。 

 

国連広報センターが制作した動画があります。

マララ・デー:すべての子どもに教育を (2013年7月12日)

 

マララさんは、現在、家族とともにイギリスで生活し、「女子教育の普及事業を行う財団」を

創設して世界に5,700万人以上いると言われる、教育を受けられない女性と子供達の

救済活動をしています。

 

パキスタンでは今も女性の教育を否定するイスラム過激派によるテロや襲撃が続いています。

2013年6月には、女子学生を狙った爆弾テロが起き、25人が命を落としました。

学校を狙った爆破事件も後を絶ちません。この7年間でパキスタンの北西部では、1,200校以上

が破壊されました。今も月に平均、4校から5校が被害にあい子供達はイスラム過激派に怯え

ながら勉強せざるを得ない状況です。

 

イスラム過激派の脅威に加えて、大きな問題なのが「貧困」です。

貧しい家庭の子どもたちは生活を支えるために働いています。

学校に行くのが難しい状況なのです。

南部のシンド州では、早朝から夕方まで、男の子も女の子もレンガ作りに

追われています。

休日はありません。家族総出で一日1,000個以上のレンガを作れば、日本円

にしておよそ300円が得られます。

子供を働かせている親は、子どもが家計を支える貴重な労働力だと言っています。

パキスタンでは、女の子は2人に1人が学校に通っていません。

 

マララさんの国連本部での演説は、厳しい教育環境の中で暮らす同年代の少女たち

の希望の光として、大きな関心を集めました。

 

国連は、マララさんの誕生日である7月12日をマララ・デーと名付けました。

 

2013年10月、マララさんは、ホワイトハウスを訪れ、オバマ大統領に、罪のない市民を

巻き添えにする無人機攻撃にパキスタン国民は憤っていると強調し、教育支援に力を注ぐ

べきだと訴えました。

 

 

先日、NHKがマララさんに単独インタビューし、放送していました。

マララさんは、「将来の夢は政治家になることです。なぜなら、パキスタン全体を救い、

発展させるためにはそれが最善の方法だと思うからです。政治家になって教育に力を

尽くしたいのです」と話し、母国パキスタンで初の女性首相となったベナジール・ブット元首相

の名前を挙げながら、政治家になりたいという強い決意を示しました。

 

平和な日本では、考えられない事ですね。しかも、教育を受ける権利が保障されて

いるのに、自宅にひきこもり、不登校する生徒がいる。色々事情があると思いますが・・・ 

コメント (6)
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