慶応元年(1865年)10月23日、筑前勤王党は佐幕的立場を鮮明にした藩主黒田長溥により、処断された。
斬首刑とされたのが、リーダー的存在の月形洗蔵の他、海津幸一、鷹取養巴、伊藤清兵衛、森勤作、伊丹真一郎、江上栄之進、今中祐十郎、今中作兵衛、安田喜八郎、中村哲蔵、佐座健三郎、瀬口三兵衛、大神壱岐、筑紫衛。
筑紫衛は、既に溺死していたのだが、塩詰遺体を斬首するという過酷な取扱いだ。
2日後の10月25日には、加藤司書、齊藤五六郎、衣非茂記、建部武彦が切腹を申し付けられた。
野村望東尼が姫島流罪牢居を申し付けられたのは、さらに翌日の10月26日だ。
大政奉還は慶応3年(1867)10月14日。
このわずか2年前の出来事だ。
本日は、乙丑の獄により斬罪となった方の命日なので、リーダー格の月形洗蔵の墓参りをさせてもらった。
墓は、天神の少林寺。
特に献花等せず、お祈りのみだ。
話は変わるが、現在、筑紫女学園大学の生涯学習講座の一つ、「親鸞~その生涯をめぐって~」を受講している。
受講理由は、①会場が警固(筑紫女学園高校・中学)なので近いこと、②仏教関係の知識を得たかったこと、③全5回・各回1時間30分のみで完結すること、等。
今日は第二回「法然上人との出会い」だった。
少し印象に残ったことを紹介する。
仏教の基本は、三学(戒学、定学、慧学)であり、「自らは悟りを得、他に対しては救ういを与え、この両者を完成する」ことだ。
修行僧は厳しい戒律、修行を通し、悟りを得ようとすることになる。
聖道門といわれる。
これに対し法然は、誰でも可能な「念仏を唱える」ことを重視し、浄土門を開いた。
この法然との出会いが、親鸞のその後を大きく変えることになった。
聖道門は、公平。
浄土門は、平等。
法然は、修行した者や徳を積んだ者だけが極楽浄土に行けるのではなく、阿弥陀仏の慈悲の心から、すべての者が極楽浄土に行けることが重要だと考えたのだ。
古来わが国は、「和」の国だ。
「和を以て貴しと為す」という聖徳太子の言葉は、約1400年後の今も強く生きている。
しかし、悟りを開いていない小職は、何らかの努力をしようとする者と、何ら努力をしない者とを同様に取り扱うことには抵抗がある。
さらに、「和」を乱す者については、平等以前の問題だと考える。
聖徳太子、法然や親鸞の時代から、江戸末期の乙丑の獄の頃までは、理不尽にも過酷な運命を背負わされる人も多く、また、長い歴史において、弱者は徹底的に弱者だった。
飢饉がおこれば、人口の何割もの貧しい人が亡くなる。
戦乱となれば、家を焼かれ、すべての所有物を失う。
そんな時代の中、「和」の精神が尊ばれ、そして無情な世の中を憐れむ心が生じる背景があった。
現在、「個人権利」が幅をきかせて「和」を突き破る。
そして、そのことが「不道徳」であるとの認識がない(あっても、打つ手がない)。
法然や親鸞の頃とは、時代背景が違いすぎる。
乙丑の獄を例にとっても、わずか145年前の話だ。
かなり理不尽な時代だ...というのは現代の感覚だ。
先人たちのおかげで、今日がある。
現代に生きる我々は、先人への感謝の気持ちを忘れてはならない。
そして、機会が公平に与えられていることにも大きく感謝し、自分ができることを実践していく必要がある。
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