福岡県護国神社参拝。
今日は、山口宗之先生の維新志士講座を受講。
真木和泉守、西郷隆盛と経て、数カ月前から井伊直弼の遺文を読んでいる。
嘉永6年(1853)ペリー来航に際し、幕府は諸大名に意見を求めた。
このことは、江戸幕府において前例のない事だ。
いち早く反応し、堂々たる開国論を述べたのが、筑前藩主黒田長溥。
黒田長溥は、米露については長崎で交易を許し、英仏については許すべきでないと上書を提出した。
ペリー来航のとき、井伊直弼はまだ大老に就任していない。
安政の大獄のイメージがあるが、この時点ではまだ彦根藩主の立場だ。
ちなみに福岡藩では、ペリー来航と同年のプチャーチン来航に関し、福岡藩では加藤司書が藩兵500を率いて長崎警備に当たっている。
井伊直弼は、黒田長溥から遅れること約1カ月、やっと上書を提出している。
実は唯一人「二通」提出している。
最初が8月10日で、開国拒絶論。
その理由として、日本は武士道の国で、通商は商人が行う卑しい行為であり、アメリカは大統領が通商の書面にサインしているような国なので、つきあう必要はない、というような事項を挙げている。
次に8月29日で、開国論となる。
大老に就任するのは5年後の安政5年(1858年)。
安政の大獄により、吉田松陰など多くの勤皇家を処断する。
桜田門外の変はその2年後の万延元年(1860年)。
桜田門外の変に関し、事前に黒田長溥に建言していた平野国臣は、筑前藩から捜索されて逃げ回る立場となる。
月形洗蔵は、桜田門外の変を機に、公然と尊王攘夷活動を展開する。
井伊直弼は、幕末史におけるキーパーソンの一人であることは間違いない。
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