今日は、電車で太宰府に行った。
目的は2箇所。
九州歴史資料館と九州国立博物館だ。
九州歴史資料館館長講座(西谷正先生)
「九州歴史資料館」をご存じだろうか。
意外と知名度が低い存在だが、その名の通り歴史資料館で、主に福岡県を中心とする北部九州の古代遺跡関係の展示が中心の施設だ。
場所は、九州国立博物館のすぐ近くで、博物館の一般有料駐車場のところだ。
この九州歴史資料館の館長は、邪馬台国はじめ古代史研究の第一人者の西谷正先生(九州大学名誉教授)。
今日は、西谷先生の邪馬台国に関する館長講座に参加した。
毎月一回、昨年4月から今年3月まで全12回連続シリーズで開講されているが、なかなか毎回の出席は難しい。
それでも何とか2回に1回は参加している。
今日のテーマは、投馬国。
館長講座は、魏志倭人伝(正確には『「三国志」魏書東夷伝倭人条』)に沿って楽浪郡、帯方郡から始まった。
そして、初めて海を渡って対馬国(対馬市)、さらに渡って一大国(壱岐市)、さらに渡って末廬国(松浦市)、東南へ伊都国(糸島市)、東南へ奴国(福岡市・春日市)、東へ不弥国(宇美説、飯塚説)までは、前回までに終わっている。
福岡人として、やはり伊都国、奴国、不弥国あたりが一番親しみやすい地域だったが、今日の投馬国。
投馬国の推定地は諸説あり、邪馬台国論争の結論が九州説か畿内説かでも大きく異なってくる。
西谷館長は畿内説であるため、投馬国は不弥国(福岡県)と邪馬台国(畿内)の間に無ければならないことになり、岡山県倉敷市と比定している。
邪馬台国論争は、両説とも学者先生のお話を聞いてきたが、いずれも説得力がある。
小職は古代史は得意ではないが、やはり九州生まれ九州育ちのせいか、九州説だ。
ただ、本心は、魏志倭人伝を執筆した本人は当時の日本に自ら渡ったこともなく、「魏書」は「偽書」でないかと思っている。
即ち、「邪馬台国」とされる国は存在したであろうが、その行程はいい加減な内容で、魏志倭人伝に記載される距離・方向等はほとんど参考にならない。
実際、そのまま記述に従えば、邪馬台国は日本を突き抜けて太平洋の海の中になってしまう。
多分、「邪馬台国」という国があったのだろう。
しかし、それが当時の日本最大の勢力だったかどうかはわからない。
魏書に書かれた内容は、あくまでも日本にきたことが無い者が、人づてに聞いた話を書いてそれが三国志に採用されたにすぎないからだ。
その時代に畿内にも当然有力な国家があったことは遺跡からも証明されるが、「邪馬台国」がどこであったかは永遠に証明されることはなく、古代史ファンのロマンをかきたてる存在であり続けるだろうと推測する。
ということで、今日は投馬国の講義だったが、小職は古代史の遺跡発掘等に対しては広い意味での歴史として関心を持つが、やはり郷土史思考が強く、岡山県にはさほど関心がない。
次回は「邪馬台国九州説」について西谷先生が語られるから絶対に参加したいのだが知人の結婚披露宴出席のため既に参加できないことが確定している...
九州国立博物館妙心寺展、聖福寺
九州歴史資料館の館長講座を終えて、九州国立博物館へ。
特別展の「妙心寺展」を見学に。
京都の禅宗大本山である妙心寺と、妙心寺系の九州・沖縄の寺院関係の展示で、非常に興味深いものが多かった。
特に、博多・御供所町の聖福寺の「扶桑最初禅窟」の扁額は、普段は鳩防止のための柵のためよく見えないが、今日は展示されていたので初めて間近でまじまじと見ることができて嬉しかった。
聖福寺は後鳥羽上皇から賜った通り「扶桑最初禅窟」(扶桑=日本、最初禅窟=最初の禅寺)なのに、その後京都妙心寺が中心になってしまったことが福岡人としてちょっと悔しい。
聖福寺は、その後仙厓和尚を輩出したことでも有名だ。
話が飛ぶが、九州国立博物館の特別展をよく見に行かれる方には、同博物館のパスポートがおすすめだ。
年間3,000円で、最大6回の特別展見学が可能だ(同一展示は1回限り)。
九州国立博物館ではだいたい年間4回の特別展が企画されるから、3回行けば元をとる、という計算になる。
さらには、他の国立博物館(東京国立博物館、京都国立博物館、奈良国立博物館)の特別展も年間2回までは使えるので、東京や京都等に行くことがあればさらにお得、といえる。
あと、一般展示(平常展)はいつでもフリーパスになるので、特別展に出かけたときについでに少しだけ覗いてみるとよい。
小職は、昨年パスポートを購入し、チベット展、阿修羅展、古代九州の秘宝展に続いて4回目で、既に元をとってプラスに転じた気分だ。
太宰府天満宮宝物館、七卿落ち
太宰府に行って絶対に無視できないのが、太宰府天満宮だ。
平成22年になってからは、太宰府天満宮は初参拝だ。
だいたい年間6~7回くらい参拝するが、今日は少し時間もあったので久しぶりに宝物館に入場してみた。
宝物館に入場したのは、ちょうど「太宰府幕末展」と「太宰府の面影~過去・現在・未来~展」があっていたからだ。
学校の歴史では教えられないが、幕末の舞台は京都や「薩長」ばかりでなく、太宰府も重要な舞台だった。
八月十八日の政変により長州に逃れた七卿は、その後の幕府の長州征討にあたり筑前藩の月形洗蔵を中心とする筑前藩士、西郷隆盛等の尽力により筑前にうつることになった。
結果的に2人欠けて五卿となるが、そのとき落ち着いた場所が太宰府であり、天満宮境内の延寿王院なのだ。
従って、五卿を頼って各地から勤王志士が訪れた。
西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬、中岡慎太郎、伊藤博文、木戸孝允らも太宰府に訪れているのだ。
「明治維新は、太宰府から始まった」というと過言かもしれないが、嘘ともいえない。
龍馬ブームと史実
話のついでだが、現在「龍馬ブーム」となっている。
坂本龍馬の最大の功績は、『薩長同盟』を提案し、締結させたこととされる。
しかし、これは司馬遼太郎の文学小説の影響が大きすぎ、史実とはいえない。
最初に薩長連合を模索し、提案し、行動を起こしたのは、他ならぬ福岡藩士・月形洗蔵が最初だ。
「個人的に薩長連合を考えた」という水準なら、もっと遡って平野国臣(福岡藩)、真木和泉(久留米藩)あたりが最初になるかもしれない。
いずれにしても、「誰も考えなかった犬猿の仲である薩長の手を結ばせることを考えた」のは坂本龍馬の功績ではない。
七卿落ちにより三条実美公以下七卿が長州に入り、その後幕府による長州征討軍が進軍することになるが、このときに長州側の立場に立って、国内で争う非をとき、薩長の連合を想定して西郷隆盛を動かしたのが、福岡藩だったのだ。
実際に、七卿の一人である東久世通禧は、明治後期に「薩長連衡北筑功」(=薩長の連合は、筑前藩の功績)とする書簡を福岡藩士に贈っている。
もし「歴史は面白ければいい」と考える人がいるとすれば、それは誤りだ。
私たちには、歴史については、史実、真実を基礎として後世に伝える義務がある。
過去は変えられない、未来は変えられる。
未来は面白い方がいいが、過去は変えられないし、これを見つめて将来に生かす材料としなければならないのだ。
従って、現在の龍馬ブームとそれに乗っかる史実を無視した商法等について深く心配している。
坂本龍馬の正しい功績は、薩長連合の機運が盛り上がりながらも最後の一押しができない状況を打開したことだ。
もちろん、これだけで大きな功績であることは変わらない。
薩長連合の方向性にもっていくための尽力、という点でいえば、今は単に相棒又は部下のように扱われている中岡慎太郎の功績の方がはるかに大きい。
正しくその功績を伝えたい。
うーん、長くなった。