日本古代史 外国史料3 王充(おうじゅう)さん著「論衡(ろんこう」
「論衡」の著者・王充(おうじゅう)さんは、実は『漢書』の著者の班固(はんこ)さんと親友なのだそうです。
ネットで調べると、王充さんは、西暦27年生まれ、西暦98年没で、貧乏だったので本が買えず、本屋で立ち読みをして、すべて暗記したのだそうです。
その『論衡』に、以下の文章があるそうです。
『論衡』そのものの現代日本語訳を読んだのではありませんので、孫引きであることを付け加えておきます。つまり、どういう文章の中で、どういう文脈で書かれているのかは、まだわかりません。
① 「周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草(ちょうそう)を献ず」
(異虚篇第十八)
② 「成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢ず」
(恢国篇第五十八)
③ 「周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草(ちょうそう)を貢ず」
(儒増篇第二十六)
つまり「周の時代の「成王」さんの時に、東の倭人が暢草(ちょうそう)という草をォ献上して、南の越人が白い雉(きじ)を献上しました」ということですね。
周王朝の成王さんは、周の第2代の天子さまで、西暦紀元前1000年頃の人です。
紀元前1000年に、日本列島から「倭人」が献上した?というのは、かなり刺激的な説です。
なお、この『論衡』の「倭人」は、日本列島に移動して落ち着く以前の、中国本土のどこかにいた「倭人」であるという学説もあることを注意する必要があると思います。
ただし、親友の班固さんが『漢書』で「楽浪海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見す、という」と書いたことと、対比して考えると、同じ「倭人」という用語を、班固さんと、王充さんが、まったく別の土地の民族として使ったと考えるのはすこし無理がありそうです。
「暢草(ちょうそう)」「鬯草(ちょうそう)」とは何か、は、いろいろ説があります。
どうも薬草のようですが、もっと研究します。
「論衡」の著者・王充(おうじゅう)さんは、実は『漢書』の著者の班固(はんこ)さんと親友なのだそうです。
ネットで調べると、王充さんは、西暦27年生まれ、西暦98年没で、貧乏だったので本が買えず、本屋で立ち読みをして、すべて暗記したのだそうです。
その『論衡』に、以下の文章があるそうです。
『論衡』そのものの現代日本語訳を読んだのではありませんので、孫引きであることを付け加えておきます。つまり、どういう文章の中で、どういう文脈で書かれているのかは、まだわかりません。
① 「周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草(ちょうそう)を献ず」
(異虚篇第十八)
② 「成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢ず」
(恢国篇第五十八)
③ 「周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草(ちょうそう)を貢ず」
(儒増篇第二十六)
つまり「周の時代の「成王」さんの時に、東の倭人が暢草(ちょうそう)という草をォ献上して、南の越人が白い雉(きじ)を献上しました」ということですね。
周王朝の成王さんは、周の第2代の天子さまで、西暦紀元前1000年頃の人です。
紀元前1000年に、日本列島から「倭人」が献上した?というのは、かなり刺激的な説です。
なお、この『論衡』の「倭人」は、日本列島に移動して落ち着く以前の、中国本土のどこかにいた「倭人」であるという学説もあることを注意する必要があると思います。
ただし、親友の班固さんが『漢書』で「楽浪海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見す、という」と書いたことと、対比して考えると、同じ「倭人」という用語を、班固さんと、王充さんが、まったく別の土地の民族として使ったと考えるのはすこし無理がありそうです。
「暢草(ちょうそう)」「鬯草(ちょうそう)」とは何か、は、いろいろ説があります。
どうも薬草のようですが、もっと研究します。