馬糞風リターンズ

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ガッツポーズ・・「型破り」と「型無し」の違い

2009年09月29日 | スポーツ・人物
 相撲が「国技」として認知されていることに異存のある人はないと思います。
ここで、相撲の歴史をくどくどと書くつもりはありませんが、相撲が単に格闘技として勝ち負け、強い弱いだけを競うスポーツではないことが「国技」の「国技」たる由縁です。
秋場所で朝青竜が24度目の優勝をしました。大鵬の32、千代の富士の31に次いで北の湖に並び歴代3位だそうです。これだけを見ますと正に「平成の大横綱」と言われてもいいのですが、またまた決定戦で白鵬を倒し優勝を決めた瞬間に「ガッツポーズ」をしてしまいました。
新聞、TVをはじめインターネットの書き込みにも「横綱としての品格がない」「強くても二流、三流・・・」とか非難されています。
 「ガッツポーズ」が「品位」がない行為なのか「ガッツポーズ」をして「喜び」を表したのが「横綱」に相応しくない行為なのか・・・・?
「ガッツポーズ」自体を非難しているのか、「ガッツポーズ」をして喜びを表したのがダメなのか、ちょっと判然としない非難記事が多いように思いました。
勿論、「優勝してうれしい気持ちを素直に表して」何が悪いのか、という意見も多くあります。

 僕はそこで考えました。「相撲」が勝敗だけを競う「スポーツ」であれば「ガッツポーズ」でも「Vサイン」でも「飛び上がろうが」「走り回ろうが」何等問題にはならないと思います。
全国各地の神社に「相撲神事」が残っています。「泣き相撲」「一人相撲」などなど民俗行事として受け継がれています。現在の「大相撲」もそのような「相撲神事」の流れの1つとして、明治以降に整備された「興行形態」です。

 相撲が神事の側面がある以上、神事としての決まり、約束事があります。
「塩を撒く」「四股を踏む」「塵を切る」・・・・などは正に神事の一環としての動作です。「塵を切る」のは「素舞い」すなわち「武器」を持っていない証しとして、両手を鳥の羽のように大きく開きます。
 朝青竜の立会で「時間です」になると「蹲踞=そんきょ」の姿勢から両手をついて「塩」に戻るとき右手を大きく「鷲」の羽ばたきの様にします。
モンゴール相撲の「型」として「鷲」を真似た踊りがあります。
朝青竜の立会の動作にはそのモンゴール相撲の「型」の影響があります。
しかし、このことについての非難はありません。
それは、日本相撲の仕来り「塵を切る」と云う動作の表現である「武器」を持っていません、と同じだからです。
朝青竜の仕切りの動作は、日本相撲の仕切りの約束事に違反していないのです。
ただ、仕切りの「型」が違うのです。
俗に云う「型破り」なのです。従来の「型」を踏まえて独自の「型」を完成させているのです。この「型破り」は時として、旧来の淀みを打破して新しいものを生み出す原動力になることがあります。

 一方「ガッツポーズ」は、相撲の基本である「素舞い」即ち「武器」は持っていません、と云う「塵を切る」動作に違反しています。
相撲には「こぶし」を握ると云う動作は違反で、一連の「素舞い」の中には絶対にない動作なのです。
相撲の世界で「こぶし」を突き上げる「ガッツポーズ」は、あり得ない動作なのです。
その禁断の動作「こぶしをつきあげる・ガッツポーズ」は、仕来りにないのです。
このように「仕来り・伝統・形式」を無視いた行いは、すでに相撲ではないのです。
このような「型」を無視した行為をすると、今までの伝統や仕来りが「台無し」になってしまいます。
このようなことを「型無し」と言います。
朝青竜の「ガッツポーズ」は、まさに相撲を「型無し」「台無し」にした行為なのです。
 せめて「万歳」位に止めておけば「非難」の度合いは少なかったかも知れません。

朝青竜の「ガッツポーズ」の本質は、掌を「開いている」か「握っているか」が問題なのです。
 この視点での「論評」は残念ながら「皆無」のように思います。

高取町土佐・・・・・地名の話(11)

2009年09月21日 | 地名・地誌
浪曲で「妻は夫をいたわりつ、夫は妻を慕いつつ・・・」という語り出しのお里沢市「壷阪霊験記」で有名な壷阪寺、日本三大山城「高取城」
また大和の「置き薬」でも知られる奈良県高市郡高取町に行って来ました。
歴史は古く古代から交通の要所として栄えた由緒ある街ですが、江戸時代には城下町として大いに栄え、現在もその面影を色濃く残した落ち着いたいい所です。
この高取町の中心に「土佐」と云う所があります。
街道筋に説明板が掲げられており、その説明は以下の通りです。

「土佐の由来」
 六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で、故里土佐国を離れ、この地に召し出されたものの、任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に住み着いたところから土佐と名付けられたと思われる。
故郷を離れて生きて行く生活を余儀なくされた人達のたった一つの自由な意志は故里の名を今の場所につけることであった。
「望郷の想いむなしく役夫らの せめて準う土佐てふその名」

 この説明で十分だろうと思います。
特段面白いことも無い地名ですが、地名が移転する良い例だと思います。
北海道には移住元の地名を負うものが珍しくありません。
有名なものとしては「十津川」「広島」「福井」・・・・・等があります。

 地名を眺めていて楽しいのは、その地名の来歴を考える時です。
先ず「古さ」です。この地名は、いつ頃からこの様に呼ばれだしたのだろうか?
古代からか?弥生時代からだろうか?ひょっとして縄文時代かも・・?
地名には、確証はありませんが「縄文古語」が隠れているのでは・・とそれだけでわくわくしてきます。
 地形から付いた地名もあります。古代の政治体制から付いた地名もあります。
古い時代に政府の役所があった事を窺わせる地名もあります。

 そんな事からすると、最近、特に平成の大合併と云われる市町村合併により、伝統ある地名が、消滅しています。
中には古代郡県制以来の由緒ある地名が完全に消滅したものもあります。
W・M・ヴォーリズの建築物が、取り壊されるのも残念な事です。
有志の方々が反対運動をされています。
でも、「地名」はもっともっと古い日本の文化財です。
この貴重な民俗の財産である「地名」を、いとも簡単に消滅させていいものでしょうか。
文化国家日本のありように疑問を持っています。

写真は高取城跡

京都伏見界隈散策

2009年09月20日 | ドライブ・旅行
野暮用があり京都市深草に行きました。SW初日とあって朝6時に自宅を出て名神吹田ICに入ると、既に渋滞していました。下りの渋滞はもっと激しく駐車場状態でした。同乗者が「高速無料になったら、毎日こうなるの?!」とボヤクこと・・。
 通常45分ほどで着くところ、1時間半掛かりました。
野暮用は早々に終わらせて、さて!どうしようかと思いましたが、先ほどの渋滞を思うと高速で移動するのも、帰宅するのも気が重くて「伏見でも行くか」

御香宮の境内に駐車して散策をすることにしました。「境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から(御香宮)の名を賜ったという・・」と説明板にありました。
多くの善男善女がポリ容器を持参し湧水を汲んでいます。神社の分類からすると「井泉」信仰なのでしょう。
しかし、神社史は「筑紫の香椎宮を勧請した」という説が大勢です。
御香宮の白壁塀の中に鋳鉄の門扉があり、写真のような木造の建物がありました。
昔懐かしい小学校の趣があり、神社の付属の施設と思っていたら「キリスト教桃山教会」とありました。何度か御香宮には来ていますが、この建物に気付いた名は初めてです。幼稚園として利用しているそうです。

商店街をぶらぶらしていますと、商店街から路地に入る角家の2階の壁に住所表示板がありました。年代物で縦長のホーロー制で「本町3丁目」とあり、その文字の下に「仁丹」の商標が描かれています。
きっと「お宝鑑定」に出せば、結構な「値」が付くのでは・・・・・。
2階の高いとこなので盗まれずにあるのだろう、と思いました。

 伏見奉行所跡や鳥羽伏見の戦い時の砲弾痕などを見ました。
若い女性のグループが結構多くて、「ワー」「キャー」などの奇声を上げながら楽しそうに歩いています。どうも「新撰組」或いは「坂本竜馬」フアンのようです。
伏見奉行所跡で4人連れに「鳥羽伏見の戦い」の前後の説明と新撰組の話をしてあげると、結構親しくなり、「次、何処に行くの?」「車で送ってあげるヨ」と親切に誘うと「本当ですが。うれしい」と・・・・「やた!」と思ったところ、同乗者がいたのに気づき、定員オーバーで折角の機会を逸しました。
 この邪魔な同乗者、「電車で帰る」位の気が利かないのか・・・。
そんな、こんなの1日でした。

「大道」(竹内街道)・・・地名の話(10)

2009年09月19日 | 地名・地誌
 当ブログ「トムラウシ・・」で、言葉不足があり、10kmのウォーキングが危険な様に書きましたが、これは失言で取り消します。
本サイト3年4組のHP「耳寄り情報」で「竹内街道散策と史跡めぐり」で参加者を募集している最中に、水を差すような事になり申し訳ない事になりました。
大震災などがあり、交通機関が不能になった時に「自宅まで歩いて帰る」経験をする催しがあるように、10~20kmを障害を避けながら歩けないとサヴァイヴァルできません。その訓練を兼ねて、皆で「竹内街道」を歩きましょう。
現在、太田さんにて参加者を受け付けていますので、早めに申し込んで下さい。

 「大道」=だいどう、おおみち、と呼ばれる地名は全国に散見されます。
那覇市字大道(だいどう)
横浜市金沢区大道
越谷市大道
防府市台道(旧大道村)
徳島市大道(おおみち)
千葉県市原市姉崎大道
他にも沢山ある地名です。
 多くの場合、幹線道路が通っており、それに由来しています。

大阪市天王寺区南部の「大道」(だいどう)という地名
堺市北区金岡町の金岡神社東側に「大道町」という字名があります。
 日本書紀の推古天皇21年(613年)に、「難波から京(明日香)に至るまでに大道を置く」とあります。これが日本最古の官道です。
上記の2つの地名「大道」は、この日本最古の官道に由来するのです。
「大道」と呼び習わしていたようですが、堺から以降を「多治比道」などとも云い
やがて「長尾街道」「竹内街道」と呼ぶようになりました。
余談ながら「○○街道」など「街道」と言い出すのは江戸時代以降のことです。
 隋使・裴世清
一行も難波津からこの道を「ワッソ、ワッソ、・・」と掛け声をかけながら京(明日香)まで行進したのです。
 地名から「日本書紀」の記述が裏付けられた良い例です。

秋の一日を体力作りを兼ねて「竹内街道」を仲間と歩き、日本古代史に触れるのも楽しいですよ。


「昔はよかった・・」て本当?

2009年09月18日 | ぼやき
ご近所の退職者さんが久しぶりに訪ねて来られました。
今日は「竹の会」で、竹皮で草履を作ったと云って持って来られました。
中々、しっかりと目の詰まった良い出来栄えの草履でした。
スリッパよりもいいかもしれないと思いました。

 例によって「現役時代」の会社での活躍ぶりを一頻り話した後に、また今後の生活の設計を楽しそうに語られました。
あれもやりたい、これもやりたい、あの人のような人生を送りたいと、本当に第2の人生の門出、学生が社会に巣立つのと同じような前途揚々とした希望を紹介してくれました。
まァ、お幸せなことで結構な事ですが、僕には気になる言葉が幾つかあります。
「第2の人生」「癒される」「エコライフ」「自然農法」「昔はよかった」などは言葉として、よく耳にすることで、イメージとしては何となくわかります。
しかし、僕にしてみれば、何か浮ついた世間の風潮に踊らされている、正に「幸せな」団塊のおっさんの云いそうな事にしか思えないのです。
 どだい、人生に「第1」「第2」「第3」なんてあるとは思はないし、「癒される」と盛んに言いますが、「癒されなければならない程」「何に傷つけられたの?」とお聞きしたい。
その割には「幸福な」人生を送っているように見えるのですが・・・・・。
 「エコライフ」「自然農法」などと根拠もない馬鹿げたことで、どれだけ「農家さん」が被害を受けているのか、・・・。
あまり、農業はじめ1次産業で必死に生活をされている方々を「バカ」にしないで欲しいものです。
 「自然農法」だなどと云って、肥料も農薬も使わない畑を、農村のど真ん中でつくられてしますと、そこが「害虫や病気」の発生源になって、本職の「農家さん」がどれだけの被害を被るか、少しはハタ迷惑も考えてもらいたいものです。
ご自分は、年金や退職金で生活に困らないで、趣味で「農業」の真似ごとをしているのでしょうが、・・・・。
 そして、分からないのが「昔はよかった」と云う事です。
「懐かしい」と「よかった」と混同するととんでもないことになります。
極端になりますが、軍隊経験のある「おじん連中」が、「同期の桜」などを歌いながら、「昔はよかった」などと云っているのをよく見受けますが、理不尽な軍律とかて「どつき回され」た時代が「良い時代」ある訳がないのです。
そんな自分の「青春時代」が「懐かしい」だけなのです。

 「昔のトマト」は「うまかった」、「昔は旬のものがあった」、確かにそうでしょうが、それでは「昔の食生活」が「よかった」のかと云うと、明らかに栄養不良で、バランスを欠き、旬のものしか無いため、そればかり偏った食事になっていたのは事実です。
 今の日本人の栄養状態は、昔と比べようも無いほど改善されています。
昔の良かったことは「よかった」で十分引き継げばいいのですが、「何がよかったのか?」単に「懐かしいだけなのか」この見極めが、大切な事です。
その判断は、世間の風潮で決めるのではなく、ご自分の確固たる信念で選択する事が一番必要な事でしょう。
それが、人間としてのアイデンテイでは???
 

トムラウシ遭難事件の事

2009年09月17日 | ぼやき
先週、11日から13日の間、北海道の仲間たちが大阪に集まり楽しい同窓会をしました。その中に「自然探査クラブ」のOBが4名参加していました。彼等は、今でも年に数度、北海道の山歩きをしています。
7月の「トムラウシ山遭難事故」の報告を聞きました。
時系列で事実だけの報告を、それから実際に事故ルートを歩いての問題点を検証することになりました。
  7月15日 天候は一変し大雨。白雲岳避難小屋から16km先のヒサゴ避難小屋まで8時間かけて雨の中をずぶ濡れになり歩く。

 僕の経験からしても2000m以上の高地を、しかも平坦ではない山岳のルートを16km歩くのは、余程の体力がなければキツイと思います。
まして、雨と風の中では、現役の学生でも「目一杯」の距離です。
この一行は、全員50~60歳台の男5名女10名です。
 僕がトムラウシに入っていた頃は「ヒサゴ避難」はありませんでしたが、この小屋で、一行は衣類を乾かすこともできなくて、寝袋もびしょびしょ、風雨が激しくて睡眠もとれなかったそうです。
 この時点で、この一行は遭難したのと同じ状態です。
それを、早朝台風並の天候の中、岩がゴロゴロした稜線を踏破しようとします。
風速20~25mの強風をモロに受けて転ぶ人が続出。這うように風雨にさらされ体力を消耗し、体温が風に奪われて悲惨な状況になったそうです。

 いろいろ検証されています。どれも正しいと思います。
しかし、基本的に欠落しているものがあるように思います。

 話は飛びますが、「高層マンションで大きくなった子供」は「高さ」に対する恐怖心が全くないそうです。
安全安心の平和な日本では、危険に対する実感が消失しているのかも知れません。
僕等は、整備された平坦なハイキングコースでも、10km歩け、と云われたら、先ずお断りします。それだけの体力が無いのを十分知っているからです。
 猛獣のいるサファリーに無防備で入れば、虎やライオンに襲われるのは当り前ですが、ディーズニランドにいる調教された猛獣ばかり見ていると、その恐ろしさを忘れてしまうのかも知れません。
 どんな山でも山に登れば、危険があります。
ハイビジョン映像で、大雪の景色を見ていると、大雪の恐ろしさを想像するのは難しいかも知れません。
しかし、本来的には、人間は危険に対して本能的防御する能力があります。
所が、最近の日本人には、その本来備わっている危険に対する防護能力が欠落しているようです。
 高層マンションで育った子供が、高さに対する恐怖心が無いように、安心安全な環境で生活している日本人は、危険に対する恐怖心が無くなっているようです。
自然からも距離が遠のき、自然の営みを知ることも少なくなり、ヴィジュアルで疑似体験ばかりしてしまった結果かも知れません。

 日本人にサヴァイヴァル能力は無くなってしまったのかと慄然とする思いです。
写真は「ヒサゴ避難小屋」の前の岩だらけの登山ルート。
自然探査OBの後輩より提供

水戸黄門さんと「潮来」・・地名の話(9)

2009年09月16日 | 地名・地誌
お偉い学者さんの中には「お忙しさん」がいると見えて、大して調べもしないでとんでもない「お説」を発表されることがあります。
その方がBigであればある程、その「とんでもないお説」が真実として定着してしまいます。
 「潮来」は「朝来」の誤写で、「あさご」が訛って「いたこ」になったと、新説を発表した先生がいます。これは勿論全くの思い付きのこじ付けです。

 「潮来」は、和名抄には「常陸国行方郡板来」(原書版では坂、これは板の誤り)、風土記には「・・・板来村、近臨海浜、安置駅家・・」、また郡郷考に「板来、又板久に作る。元禄中、潮来に改めて、訓は旧の如し・・」とあります。
古文書などには「今謂 伊多久之郷・・・」などの表記があります。

 それでは、板来が何故潮来になったのか?
鹿島志に「・・・・潮来の字もとは板来と書たるを「西山の公」鹿島に潮宮ありて常陸の方言に「潮」を「いた」といへる興あることとおぼして、かく書改られたりよ・・」とあります。
要するに茨城(常陸)では「潮」のことを「いた」と云う事があり、そのことから「西山の公」なる人が、従来「板来」と書いていたものを「潮来」と改めたようです。その時期は元禄の中頃と云う事です。
そして「西山の公」とは、西山荘の主、水戸藩主「水戸光圀」こと「水戸黄門」です。既に広く知られているように水戸光圀は、生涯を「大日本史」の編纂に没頭し、TVのように諸国を漫遊等はしていません。
結構、気難しい学者肌であったようです。
 
 写真は、潮来のご当地切手です。

9年連続200安打!やったネ!ICHIRO!

2009年09月15日 | スポーツ・人物
スポーツはやることも見ることも興味がありませんが、唯一熱くなるのがプロ野球です。野球でも高校野球は絶対だめです。僕の家では「春夏の甲子園」と「紅白歌合戦」は見ることはありません。
 無論、熱狂的な阪神タイガースのファンです。昭和60年の20年振りの優勝の時は
従業員や取引先の人達を引き連れて「応援バス」を仕立てて甲子園で大騒ぎをしました。優勝した時は「阪神ファンの集まる店」で有名な居酒屋で、飲食無料の大騒ぎがあり、納入した食材を全部無償で提供しましたが、どケチの僕もこの時は何も惜しいとは思いませんでした。
この阪神タイガースの優勝で積年のうっ憤が晴れたのか、以後ファンであるのには変わりはありませんが、それ程熱くなることもなくなりました。
でも、プロ野球は相変わらず好きで、わくわくします。
 ICHIROが、マリナーズに行った平成13年、僕も結構軽薄で、その年の5月末から6月初めにシアトルにICHIROを見に行きました。
シアトルの空港で僕たちのツァーの女性が、NHKの取材を受けていました。当時か次の日の午後7時のニュースで放映されたそうです。
古いレンガの建物が立ち並ぶ、シアトル発祥の地パイオニア・スクエアのそばに、シアトル・マリナーズの本拠地、セーフコ・フィールドがあります。
 僕が不思議に思ったのは、アメリカのファンが箒やモップを持って応援することです。
また、素晴らしいと思ったのは、日本では今では普通になりましたが、客席を一周する「ウエーブ」です。あの一体感はよかった。
また、景気付けに電光掲示板に「Charge!」と出ると、地元ファンがモップ、箒、思い思いの手作りのプラカードを掲げて大声援を送るのです。
たしか、この試合はマリナーズが勝ち、ICHIROもヒットを打ちました。
 ホテルでも買い物に行っても、タクシーに乗っても「日本人」と分かれ「ICHIRO」と笑顔で応対してくれました。

寅さん、岡惚れ  7・5調の世界(1)

2009年09月09日 | 映画
 「殺したいほど 惚れてはいたが ・・・・」と云う歌が自然と口をついて出てくるような事がありました。まさに「寅さん」の世界です。
この「殺したいほど 惚れてはいたが ・・・・」と云う歌を知ったのは「男はつらいよ」で、マドンナに「岡惚れ」した寅さんが柴又の街中を大声で唄うシーンでした。さて、それはどの作品だったかとインターネットで調べると「第1作男はつらいよ」でした。マドンナ役は光本幸子で柴又帝釈天の御前様(笠智衆)の娘・冬子役です。寅次郎の幼馴染で、冬子にすっかり惚れてしまう設定です。
 「殺したいほど 惚れてはいたが・・」は元々北島三郎の「喧嘩辰」と云うもので、これも「車夫遊侠伝・喧嘩辰」の挿入歌として歌われたそうです。http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=41806
でも多くの人は、寅さんのスッキプしながら歌うこの1節だけを覚えているようです。
今さら、僕が日本語の7・5調についてトヤカク言う必要もありませんが、和歌、里謡から芝居のセリフなど、7・5調の名調子は心に浸みて収まりの良いものです。

 「もちつもたれつ 相合傘に よける浮世の 雨と風」

 「見れば見わたす 棹さしゃとどく なぜに我が恋 とどかぬぞ」

 「ちらりちらりと 降る雪さえも 積り積りて 深くなる」

 「ほれて惚られて ほれられて惚れて ほれて惚れられた ことがない」

 「母の片身の 十八金が 堕ちた女の 見栄でした」

 「恩に報いる 日のほど遠く 心ばかりの 御中元」

 「いやになったら なったでよいが 逢わぬ昔に して返せ」 

「美木多」と云う地名(地名の話8)

2009年09月08日 | 地名・地誌
 泉北高速に「栂・美木多」と云う駅があります。
和泉が丘駅と光明池駅との間の駅です。
鉄道ファンには特異な駅名として結構有名だそうです。
何故かと聞きましたら、例えば「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」「さくら夙川」のように並列併記の駅名は幾つかあるそうですが ]・[ 中黒と云うそうですが、この中黒表記の駅名は珍しいそうで、その1つが「栂・美木多」なのだそうです。
「栂」をトガと読むのも珍しい読み方で、普通はツガがと読むようです。
栂はさて置き、今回は「美木多」を考えてみます。

 「美木多」地名解
「美木多」=みきた、通常何の疑問もなく耳に入ってくる音ですが、考えてみると意味が分からない地名です。
使われている漢字には何の意味もないでしょう。そうすると音が問題になると思いますが「みきた」とは、どんな意味があるのか?
「美木」「神酒」「三木」「幹」「樹」「御木」「三岐」「見城」「三鬼」・・・などいろいろ考えられますが、後ろの「た」を付けた「みきた」になるとまた数は限られてくるでしょう。
しかし、そうして並べて見ても「みきた」にぴったりの組み合わせはないように思います。
長年、頭の片隅に「みきた」はもやもやと残っていたのですが、ゆっくりと地図を眺めていて気付いたことがあります。

 話は飛びますが「重箱」読み、と云う読み方があります。
即ち、漢字には「音」と「訓」があります。普通漢字を2文字続けますと「新聞」「飛行」などのように「音+音」で読みます。所が「重箱」は「重」=音+「箱}=訓、で読みます。
因みに「湯桶」読みと云うのは、「訓」+「訓」の読み方です。
 美木多は石津川の支流「和田川」に沿ってあります。
この「和田」が重箱読みの典型です。
「和」は、「和魂」=ワコンとも読みますが大和言葉ではニキタマと読みます。
同じように「和物」=ニキモノ、「和布」=ニキメなど「和」の訓は「ニキ」です。
「にき」=「和、熟」おだやか、やわらか、精熟した、などを表す接頭語です。
動詞は「にきぶ、和ぶ」となります。
「和田」=「にきた」と読むのが本来の大和言葉です。
実り豊かな「にきた」が広がっていたこの地区を「にきた」と呼び、それに対応する漢字表記として「和田」を充てたと思われます。
「にきた」が訛って「みきた」となり「和田」本来が忘れられて表記も「美木多」になったと考えると納得がいく地名です。
和田川表記は残り「美木多」は大和言葉の呼び方が残ったことになります。
 このように「思考実験」は、大変面白いお遊びになります。

大阪府立今宮高等学校の校訓は「何だっけ?」

2009年09月06日 | 日記
 またぞろ自分の趣味の押し付けをやろうと思いつきました。
今高の校訓を書きました。
「質実剛健」
書いたのはいいが誰に押し付けようかと被害者を物色中。

 校訓の謂れを、と今高のHPを覗いてみると、何と校訓に「質実剛健」は無いのです。
http://www.osaka-c.ed.jp/imamiya/kouka.html#4

「誠実剛毅」
 明治39年、旧制今宮中学校開設の当初、瀬川初代校長は校訓として「誠実」「剛毅」の二綱領を定め、とあります。

「和親協同」
 昭和22年11月3日、新憲法公布にともなう学制改革により、翌年4月1日、大阪府立今宮高等学校が発足、、「和親協同」が我が校訓として新たに加えられ今日に至った、とあります。

 何時、何処で僕の記憶が入れ替わってしまったのか?
HPを見た後の今でも僕は、今宮高校の校訓は「質実剛健」である、としか考えられないのです。
納得いかない、奇妙な気持ちです・・・・・。

「馬欠場」は何処にある?=地名の話(7)

2009年09月03日 | 地名・地誌
珍名ランクを見ていましと「馬欠場」と云うのがあります。
「うまかけば」と読むそうです。
豊中に1家族がおられます。電話帳には搭載されていません。
馬欠場さんとお話しをする機会がありました。「電話帳には出ているのですが、字が間違っているのです」と云われました。NTTが馬欠場→駅場と見間違ったようです。
出身は和歌山県新宮市だそうです。彼に依りますと「馬欠場」姓はここだけだそうです。そして「馬欠場」を名乗ったのは、彼の一家だけだそうです。
インターネットで「馬欠場」を検索すると約200件出て来ますが、名簿一覧内を検索して拾ってきたようです。
名前の由来を聞いたら「在所の土地の名前」を苗字にしたそうです。何時頃から名乗ったのかは分かりませんが、明治維新の時ではないかと思う、との事でした。
 地名を名前にする或は有力者の名前を地名にする例は多くあります。
地名を負う名前は、圧倒的に多いので、この場合の「在所の土地の名前」を苗字にしたと云うのは事実でしょう。

「馬欠場」地名解
「欠け」の解釈がポイントです。いろいろの用例及び東牟婁の方言など調査結果から「欠け」=あくびをする。→のんびりとする。などと解釈するのが適当と思います。馬が休憩する場所と解釈しました。
高知県に「奈路」=なろ、「大奈路」と云う特徴的な地名があります。
四国山脈の急峻な地形にチョットした平坦な場所があります。そのような所を高知県では「奈路」と呼んでいたようです。
「馬欠場」も「奈路」と同じような熊野山地の山肌に坪庭のようにある平坦な所、荷駄馬などの休息地にしたのでしょう、そんな所を「馬欠場」と呼んだと想像します。そして地名として定着したのです。
http://www.geocities.jp/tatubou44/oujikumanokikou.html 
「馬欠場」は何処にあるの?
それでは、何処にあるのかと捜査を始めました。
先ず馬欠場さんの出所の新宮市の教えてもらったところに行きましたが、開発が進み大きな道路が付いており、元々の地形は無くなっていましたし、熊野川の氾濫原であり地形的に不適当な所でした。
http://www.geocities.jp/tatubou44/oujikumanokikou.html
地元の人から発心門王子か伏拝王子か祓戸王子あたりにそのような所があったと聞いたことがある、との情報を得て、いろいろ調べましたが、未だにここだ!と確定するまでには至っていません。
角川日本地名大辞典和歌山県の資料編に「小字」集が収録されていますが、何万件あるか数えたことがありませんが、その膨大な小字の中にも今のところ「馬欠場」を発見できません。
 最近は、地元での聞き取り調査が「差別」問題と誤解されて、なかなか難しくなっています。この「馬欠場」は、差別とは全く関係のない調査ですが、役場に行っても先ず詳しい情報が得られません。
「馬欠場」は何処にあるのでしょうか?熊野に行く度に探していますが・・・・
そんなことを20年近くやっています。
楽しいですよ。


「間人」糸口が見つからない・・・・・(地名の話6)

2009年09月01日 | 地名・地誌
 丹後半島北西に竹野郡間人町=現:京都府京丹後市丹後町間人と云う所があります。
「間人」(たいざ)は、日本海に沈む夕日が美しいところで、鳴き砂、温泉、カニで有名な観光地です。
特に「カニ」は、「間人カニ」とブランド化されて冬の目玉商品となりました。

 「間人」地名解
「Wikipedia」には
「聖徳太子の生母・間人(はしうど)皇后が蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後の当地に身を寄せ、後に当地を去るに当たって自らの名をこの地に贈ったものの、住民は「はしうど」と呼び捨てにすることを畏れ多く思い、皇后が退座(たいざ)したのに因み間人を「たいざ」と読み替えた」、との地名説話があります。
最近この説話を基に聖徳太子母子像が建てられたようです。

 間人の地名解は、この地名説話以外に見るべきものが無いのです。
地名説話の多くが「語呂合わせ」的な他愛もないものが殆どです。
間人皇后が彼の地に来たと云う事は「記紀」には記載がありませんし、その様な状況証拠は全くありません。当然、この地名説話も他の地名説話と同様、信用に足るものではありません。
 所が、この「間人」をどう説明するかは、全く糸口が掴めないのです。
京都大学の地名の大先生の論文はある事にはあるのですが、僕には到底納得できるものではありません。
一度だけ、その先生に質問状を出したことがありますが「梨の飛礫」
自然科学では「エビデンスevidence」と云う概念があります。
ここでは「科学的な証拠」位に理解しておきます。
彼の大先生の「論拠」は、地名説話に等しい飛躍があったのですが、返答がないためその後放たらかしです。
今流に言いますと「エビデンス」が全くない論文と云う事になります。
 丹後半島には「伊根の舟屋」「浦島子神社」の様な海洋民族のい遺風を残す民俗があり、間人地区での「葬送儀礼」も独特のものがあります。
これらのことから、海人族との関係を探った事もありました。(ポリネシア系言語)
また、和名抄に「間人郷」の記載があり、古代からの古い地名であることから「縄文言語」かもしれないと思い・・・
 しかし、どれもこれも要は「エビデンス」が無いのです。
全く糸口がつかめない「難解地名」です。
何方か明快な解答を提示してくれませんか。