11日(日)、福井県敦賀市へ行きました。先週、岐阜県八百津の「杉原千畝記念館」に行きました。杉原千畝が発給したビザを得たユダヤ人は、リトアニアからシベリヤ鉄道~ウラジオストック9000km、そこから船で荒れた冬の日本海を3日間、漸く敦賀港に到着したそうです。敦賀市はユダヤ難民を受け入れ、ここから彼らの安住の地への出発が始まるのです。その記憶をとどめようと「人道の港・敦賀ムゼウム」が建てられたそうです。言わば八百津町の杉原千畝記念館」と「敦賀ムゼウム」はセットのようなもの、と思っていました。たまたま、4日にBSフジで「私を覚えていてください 素敵な日本人へ」(福井放送制作)が放映されたようで、それをヒロテンさんがCDに録画しくれました。
「ムゼウム」とはポーランド語で“ミュージアム(資料館)”という意味なのだそうです。何故ポーランド語なのか疑問に思いました。敦賀港は明治32年(1899)外国貿易港に指定され、明治35年(1902)には敦賀とウラジオストク間に直通航路が開設されました。その後、大陸特にロシアとの交流に重要な拠点となりました。その為明治45年(1912)シベリア鉄道を経由してヨーロッパの各都市と結ぶ拠点港となり新橋駅(東京)から金ケ崎駅(敦賀駅)は欧亜国際連絡列車が運行され「東洋の波止場」と繁栄しました。
杉原ビザでユダヤ人難民が敦賀に上陸した20年も前、同じくシベリヤで難民となったポーランド人の孤児がウラジオストックから敦賀港に上陸したことがありました。ロシヤに侵略されたポーランドが抵抗活動を行います。それらのポーランド人は捕らえられて流刑地シベリヤに送られました。そこにロシヤ革命が起こり混乱状態となりポーランド人は難民と化します。多くの孤児たちが危険な状態に置かれました。アメリカはじめ列強各国は救出を試みましたが失敗に終わり、やがて軍隊も撤退してしまいます。ウラジオストックにあった「波蘭児童救済会」は万策尽きて一縷の望みを日本政府に託します。日本政府はこの事態を深く憂慮して日本赤十字社に支援を指示します。赤十字社は陸軍と協力してわずか17日間で救出を開始します。そして、大正10年、11年にかけて約1000人弱のポーランド孤児を敦賀まで送り届けます。敦賀では日赤はじめ敦賀町役場、敦賀警察署、陸軍敦賀運輸部、同服廠敦賀出張所、敦賀税関、など全町を挙げて孤児受け入れに協力しました。東京に送られた孤児たちは手厚く保護され、祖国ポーランドに帰還しました。帰還したポーランドはやがてナチスドイツに併合され、孤児の中にはレジスタンスに参加した者もおり、ナチの迫害の手が迫ります。そんなときにも日本大使館職員の機転で、嘗てのポーランド孤児たちをは窮地を脱します。
このようなことから敦賀港は「命」と「平和」人道の港と呼ばれるようになりました。そして「敦賀ムゼウム」と敢えてポーランド語を冠したのだそうです。
当ブログがポーランド人孤児の話を知ったのは数年前、週刊新潮に藤原正彦の管見妄語という連載コラムでした。元ポーランド大使兵頭長雄の話も参考になります。
「私を覚えていてください。素敵な日本人」で登場したレオ・メラメドが来日し記念植樹をしました。
同じくユダヤ人が渡辺時計店に買ってもらったという時計も展示されていました。
彼らが天国=HEAVENと呼んだ敦賀港です。余談ながらheavenは「天国」、havenは「港、停泊所」だそうです。