馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

ダイ・ハード3・・・・・劇中のクイズ????

2016年09月23日 | 映画
洋画専門チャンネルで「ダイ・ハード3」が放映されていました。マクレーン刑事と事件に巻き込まれた黒人ゼウスが爆弾テロリストと繰り広げる限りを尽くした大アクション娯楽映画です。テロリストが仕掛けた時限爆弾の起爆装置が作動しだします。それを阻止するにはテロリストが出したクイズを解かなければなりません。
 嘗て当ブログに≪刑事コロンボ「殺しの序曲」・・・・劇中のクイズ?????≫を取り扱いました。これは結構人気があり、今でもそこそこアクセクがあります。
 問題とは起爆装置を停止させるにはキッチリ4ガロンの水を起爆装置の上のハカリに置かなければなりません。所が計量できる容器は3ガロンと5ガロンのポリタンク夫々1個ずつです。
  
爆発まで10秒を切りました。急げ!マクレーン!ゼウス早く知恵を出せ!
  
サア、貴方らナどうする???・・・・。
◎マクレーンとゼウスが出した解答。
まず、3ガロン汲んで5ガロンに移します。
さらに3ガロンを5ガロンに移すと、5ガロンが満杯になり、そのとき3ガロン容器に1ガロン残っています。
一度5ガロンを全部捨てて、5ガロン容器に1ガロンと3ガロンを移すと4ガロンです。
 映画では緊迫した場面でもありテンポが非常に速く、2人が怒鳴りあっているだけの様で回答は巻き戻してスローで観なければ分かりません。
◎もう一つの解答。
5ガロンの水を3ガロンに移します。すると5ガロンの容器には2ガロンの水が残ります。3ガロンの容器を空にして5ガロン容器に残った2ガロンのミスを移します。すると3ガロンの容器にはあと1ガロン入る余裕ができます。満杯にした5ガロンから1ガロン余裕のある3ガロン容器に1ガロン移すと4ガロンを量ることができます。





敦賀市散策(3)・・・歴史散歩(その2)

2016年09月18日 | 歴史
金ヶ崎緑地にある「敦賀港駅舎」:平成11年・敦賀港開港100周年記念として金ヶ崎鉄道桟橋駅を復元したもの。「敦賀鉄道資料館」(旧敦賀港駅舎)は平成23年に資料館として利用しています。


現在「敦賀港駅」は「オフレールステーション」という形態のJR貨物駅として営業しているそうです。嘗ての敦賀港駅は「敦賀市散策(1)」で紹介したように欧亜国際連絡列車の大陸への玄関口と云う重要な拠点駅でした。「敦賀港駅」は開設当時は「金ヶ崎駅」でした。金ヶ崎駅は明治15年(1882)敦賀に鉄道が敷設されたときに金前寺前に金ヶ崎駅として開業しました。その後、敦賀港が改修され国際貿易港となり、新橋~金ヶ崎間に欧亜国際列車が運行され、大正8年(1919)金ヶ崎駅は敦賀港駅と改称されました。
 ここ金ヶ﨑は豊臣秀吉が織田家臣団の中で確固たる地位を確立した「金ヶ崎の退き口」の戦いがあったところです。織田信長が越前・朝倉攻めの折、背後を義弟・浅井長政に襲われます。「万事休す」信長は這う這うの体で越前を脱出します。この時、決死の覚悟で「殿・シンガリ」を申し出たのが秀吉です。この功により秀吉は織田家臣団の中で確固たる地位を確立し、天下人となってゆきます。


「金ヶ崎の退き口」の戦功は秀吉に独占された格好になっていますが、徳川家康、明智光秀も信長退却本隊から取り残され「殿」を務めています。
金ヶ崎では、これより二百数十年前、南北朝の戦乱がありました。


先ほどの敦賀鉄道記念館のボランティアガイドのおばさんが「私の名前はツヌガです」と紹介されていました。恐らく「角鹿」と書くのだと思います。ツヌガは日本書紀などによると都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)と云う渡来人の話があります。日本書紀垂仁紀に「額に角のある者が、 崇神天皇の時代に 越の国の笱飯の浦についた。それで角鹿(つぬが)という地名になったという。」と云うものです。この都怒我阿羅斯等は兵庫県豊岡市出石に伝わる「天之日矛」とは同一人物の伝承であろうと言われています。
 また、「気比・笱飯」(ケヒ)の由来は「古事記」によると「御食津(みけつ)」から「気比」に転訛したとしています。また一説には応神天皇と気比神との名の交換を意味する「かへ(kafë)」から「けひ(këfi)」に変化したとする説もあります。
 
 敦賀市にはほかにも天狗党の首領・水戸藩士・武田耕雲斎のお墓があります。耕雲斎は800名の将兵を率いて中山道を進軍、敦賀で幕府軍の追討を受けて降伏、簡単な取調べを受けた後、小四郎と共に斬首されたそうです。(おわり)
 


敦賀市散策(2)・・・歴史散歩

2016年09月15日 | 歴史

敦賀は古い歴史のある街です。今、敦賀市では大河ドラマで片岡愛之助が演じる大谷吉継で注目されています。街のあちらこちらに「敦賀城主・大谷吉継」とのぼり旗が立てられています。駅構内にも大きな観光ポスターが掲げてあります。

大谷吉継は秀吉の小姓として重用され着実にその地位を高めました。秀吉には加藤清正、福島政則など幼少の頃から子飼いの武将、また近江長浜時代の石田三成、大谷吉継もその一人です。特に吉継の母親が淀殿の侍女であったことから他の子飼いの武将とは若干異なった立ち位置にあったともいわれています。俗説ですが吉継の母が淀殿の取次役であったことから秀吉との接点も多く、吉継は秀吉の隠し子などとも。また、秀吉には子種がなかったとされ、秀吉の子・秀頼は吉継と茶々との間にできたなどとも後世のうわさ話になっています。天生十七年(1589)敦賀城主となり慶長五年(1600)関ケ原の合戦で大名クラスで唯一死亡(自刀)、その間一二年間軍事・物流の最重要拠点敦賀城下の整備拡充に才覚を発揮しました。敦賀城は江戸幕府の下、元和(1616)の「一国一城令」により破却され、昭和二〇年の戦火により敦賀市街の文化財の多くが焼失し現在吉継の時代の遺物は殆どなくなりました。

敦賀城礎石がある真願寺は改修工事中


敦賀市観光パンフレットには「吉継ゆかりの地」として真願寺をはじめ数か所のお寺や神社が記載されていますが多くは古文書が保管されているようで観光アイテムとしては魅力に欠けるものです。歴史上の人物像はドラマ、映画、小説などでの描かれ方で大きくイメージが左右されます。今放映されている大河ドラマでの大谷吉継のイメージは果たして実像を投影しているのだろうか?演じる片岡愛之助も敦賀を訪れ歓迎されたそうです。
宿啊の眼病で失明、輿に乗って関ケ原に陣取り、藤堂高虎と激突、善戦するも小早川秀次、脇坂安治らの裏切りで横槍を受けて大谷軍は壊滅、陣中で自刃。享年三六歳。辞世「契りあらば 六つの巷に 待てしばし 遅れ先立つことはありとも」

敦賀市では「芭蕉探訪ウォーク」も予定されているようです。当ブログも奥の細道を取り上げたことがあります。「おくのほそ道」を読み、描きしてみよう。(17)敦賀・種の浜(いろのはま)


敦賀市散策(1)・・・人道の港「敦賀ムゼウム」

2016年09月12日 | 歴史

11日(日)、福井県敦賀市へ行きました。先週、岐阜県八百津の「杉原千畝記念館」に行きました。杉原千畝が発給したビザを得たユダヤ人は、リトアニアからシベリヤ鉄道~ウラジオストック9000km、そこから船で荒れた冬の日本海を3日間、漸く敦賀港に到着したそうです。敦賀市はユダヤ難民を受け入れ、ここから彼らの安住の地への出発が始まるのです。その記憶をとどめようと「人道の港・敦賀ムゼウム」が建てられたそうです。言わば八百津町の杉原千畝記念館」と「敦賀ムゼウム」はセットのようなもの、と思っていました。たまたま、4日にBSフジで「私を覚えていてください 素敵な日本人へ」(福井放送制作)が放映されたようで、それをヒロテンさんがCDに録画しくれました。

  


「ムゼウム」とはポーランド語で“ミュージアム(資料館)”という意味なのだそうです。何故ポーランド語なのか疑問に思いました。敦賀港は明治32年(1899)外国貿易港に指定され、明治35年(1902)には敦賀とウラジオストク間に直通航路が開設されました。その後、大陸特にロシアとの交流に重要な拠点となりました。その為明治45年(1912)シベリア鉄道を経由してヨーロッパの各都市と結ぶ拠点港となり新橋駅(東京)から金ケ崎駅(敦賀駅)は欧亜国際連絡列車が運行され「東洋の波止場」と繁栄しました。


 杉原ビザでユダヤ人難民が敦賀に上陸した20年も前、同じくシベリヤで難民となったポーランド人の孤児がウラジオストックから敦賀港に上陸したことがありました。ロシヤに侵略されたポーランドが抵抗活動を行います。それらのポーランド人は捕らえられて流刑地シベリヤに送られました。そこにロシヤ革命が起こり混乱状態となりポーランド人は難民と化します。多くの孤児たちが危険な状態に置かれました。アメリカはじめ列強各国は救出を試みましたが失敗に終わり、やがて軍隊も撤退してしまいます。ウラジオストックにあった「波蘭児童救済会」は万策尽きて一縷の望みを日本政府に託します。日本政府はこの事態を深く憂慮して日本赤十字社に支援を指示します。赤十字社は陸軍と協力してわずか17日間で救出を開始します。そして、大正10年、11年にかけて約1000人弱のポーランド孤児を敦賀まで送り届けます。敦賀では日赤はじめ敦賀町役場、敦賀警察署、陸軍敦賀運輸部、同服廠敦賀出張所、敦賀税関、など全町を挙げて孤児受け入れに協力しました。東京に送られた孤児たちは手厚く保護され、祖国ポーランドに帰還しました。帰還したポーランドはやがてナチスドイツに併合され、孤児の中にはレジスタンスに参加した者もおり、ナチの迫害の手が迫ります。そんなときにも日本大使館職員の機転で、嘗てのポーランド孤児たちをは窮地を脱します。
このようなことから敦賀港は「命」と「平和」人道の港と呼ばれるようになりました。そして「敦賀ムゼウム」と敢えてポーランド語を冠したのだそうです。


 当ブログがポーランド人孤児の話を知ったのは数年前、週刊新潮に藤原正彦の管見妄語という連載コラムでした元ポーランド大使兵頭長雄の話も参考になります。


 「私を覚えていてください。素敵な日本人」で登場したレオ・メラメドが来日し記念植樹をしました。


同じくユダヤ人が渡辺時計店に買ってもらったという時計も展示されていました。
彼らが天国=HEAVENと呼んだ敦賀港です。余談ながらheavenは「天国」、havenは「港、停泊所」だそうです。


「後妻業の女」

2016年09月07日 | 映画
今月の映画を観る会は「後妻業の女」です。昨年、高齢者の遺産を狙った青酸カリによる連続殺人事件がありました。この実際に起こった事件をマスコミでは『関西連続「後妻業」事件 交際男性が激白「色仕掛け」の手口』などと報道しました。「後妻業」とは言い得て妙ですが、この「後妻業」なる言葉は羽曳野在住の直木賞作家黒川博行の小説の題名です。現実に連続殺人事件が起こったので、小説も実録モノのように誤解された向きもあるようです。また、映画「後妻業の女」も黒川博行の小説の映画化のため同様の錯覚を持つ人も多かったそうです。
話題性もあり前評判も上々だったので館内は大盛況でした。
 当ブログの嫁さんの「女子会」もタマタマ「後妻業の女」を観に行ったそうです。嫁さんは小説「後妻業」を読んでいたそうです。小説の方はドロドロした社会派。映画は軽いノリのコミカルな仕立てです。嫁さん曰く「素材は同じでも小説と映画ではジャンルが違うので」並列して評価する方がおかしい、とのことです。

映画は総合芸術で、役者の演技、画像での表現、・・・など筋立だけを追っても仕方ないとのこと。ただ、コメディーにしては大阪独特のあくの強いお笑いもなく、事件の真相に迫るリアリティーはほとんど欠落しています。唯一、尾野眞千子と大竹しのぶとの喧嘩シーンの迫力が見所だったかも。
ある映画監督が週刊誌で伊丹十三の「マルサの女」「丸々の女」と焼き直しに過ぎないと評していました。
マァ、娯楽映画で講釈をコネても仕方ないことで、気楽に楽しめる作品と云うことでしょう。



「第4回せっつ鳥飼銘木まつり」

2016年09月04日 | 日記
摂津市鳥飼に材木団地があります。街の名前も鳥飼銘木町と言います。大阪銘木協同組合青年部が主催して「せっつ鳥飼銘木まつり」がありました。広い倉庫には沢山の銘木が展示されていました。中には○○○万円もする床柱なども並んでします。午後からは競り市も始まるそうです。
コースターや欄間作りの体験教室が開かれていました。
  
  
  
  
 会場の一角には一般公募の木製品の作品が展示されていました。どの作品が1等賞をとるか?結果を見ないまま帰りました。

杉原千畝記念館に行きました。

2016年09月01日 | ドライブ・旅行
台風も去り、秋めいた好天。家に閉じこもるのも限界。今日はドライブに行くぞ!と。
杉原千畝記念館は岐阜県加茂郡八百津町にあります。片道180km、往復360㎞の行程です。日帰りドライブにはちょうどよい距離です。
  

  
何もない山間にこじんまりと建つ杉原千畝記念館は夏休み最終日の平日にも関わらず大盛況でした。東京からTV番組の撮影クルー、千畝の出身校早稲田大学の学生たちなど若者が沢山来場していました。
記念館は落ち着いた空間で展示も充実して見学しやすい施設でした。八百津町では杉原千畝の発給した「命のビザ」をユネスコ「世界の記憶」登録を目指す運動をしているそうです。

敗戦後の日本の基本は「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義」です。敗戦後の日本外交の切り札と云うか戦争の贖罪の意思表示としても杉原千畝の「命のビザ」は有力な武器になったはずです。が、当時の政府と云うよりも外務省の役人にとっては杉原千畝は「誠に不都合な」存在だったようです。そしてその外務官僚のトップが吉田茂だったから杉原は抹殺されてしまいます。恐らくいまだに尾を引く「戦争への反省」の評価は根底には杉原千畝の評価にも大きくかかわっていることでしょう。この記念館は八百津町が運営しているそうです。
ノーベル賞での2ツの選考ミス。本来受賞すべきだったのに選に漏れたのが「北里柴三郎」受賞すべきでない人物「佐藤栄作」と言われています。佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した時の海外の反応は「無名の人物が受賞した」との評価だった。未だに佐藤栄作のノーベル平和賞は剥奪すべき、と云うように国連でのロビー活動だけでの無理押しの平和賞を喜ばなくても、杉原千畝を終戦後直ぐに外交の表舞台に引き出しておけば、世界中の人々が納得し万雷の拍手をもって受賞を歓迎したことでしょう。逆に言うとそうさせなかったのが日本政府中枢の戦争への評価だったのでしょう。
 話は飛びますが「憲法九条を世界遺産に」と云う活動があります。もしそうなればその認定式典には誰が出席するのでしょうか?まさか安倍総理が出席することもできないだろうし?・・・・・・。そんなジレンマが当時の外務省にはあったのでは